S.Brewer, Scientific Expert Testimony and Intellectual Due Process メモ

途中から途中まで。

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(p.112~)

「科学者専門家証言と知的法的手続き」(1998)Yale Law Journal

  • 合衆国における法システムは、陪審員に対して恣意的に専門家証人に従うことを要請する形式になっていることを指摘したが、2006年にいたってもこの問題は解決していない。
  • 本稿の焦点:

⇒専門家証言は何を供給するものなのか?

⇒意思決定者が洗練さを欠くと、専門家証言の役割が不可能になるのはなぜか?

  • 非専門家である法的推論者が、法律を個々の訴訟当事者に適用する過程において、科学専門家に委任する推論プロセスをモデル化する。

 

  • 本稿の3つの結論:

① 競合する科学的専門家について、その選択を認識論的に恣意的に信じるべきであるとする結論を避けるために、ある人物は本稿以下で述べるようなある特殊ないみで科学の方法と認知的目的を理解していなくてはいけない。しかし、非専門家の判断はこの種類の理解をまさに欠いているために、専門家の評判や品行などを頼りにして判断してしまうのである。

② 非専門家の判断が、科学の方法や認知的目的の理解を欠いた、専門家の世評に頼るものであった場合には、競合する科学専門家間の判断は、認識論的に恣意的にならざるを得ない。

③ 非専門家が、科学的専門証言の重要性に訴えてなした判断が、認識論的に恣意的であるのであれば、その判断は法律的観点からみても正当化されたものとはいえない。

 

(p.113~)

1.専門家:その概念と、非専門家にとっての基本的諸問題

A.)知識、保証された信念、認識的コンピテンスの程度

 

Brewer[1998]:

  • 専門家(Expert)を、Epistemic competenceとunderstandingというタームを使用して定義した。
  • 認識的適正:「保証された信念warranted belief」と関連する。認知的目的を目指す推論者は保証された信念を獲得すべきである。ここで、「保証された信念」について、何らかの認識論的立場にとりわけコミットすることはしない。(ただし、筆者は真理中心的な認識論を採ることは、科学的実践も含む多くの認識論的実践においてかなりリスクが高いとみている。)
  • 理解:かなり穏健ないみで使用する。科学者証言の所持を含む認知的能力の本性を説明する助けになるような概念として、「理解」を「広く、説明的で、概要的な、把握をうまく供給するような所有」という概念とする。

 

  • ラウダン「網状モデル」の適用
  • ある特定の、目的・方法・事実的判断をもった営みの合理的指針を説明するモデルとして活用。ラウダンの主眼は、科学的正当化は、各要素が、他の要素をそれぞれ支持し説明するという網状の形態でなされているという点にある。

例)二重盲検法の採用は、心理学実験の真理という認知的目的への信仰から採用され、事実的判断が方法の選択に役立つということを同時に例証している。(つまり、二重盲検法が有効であることは事実的証拠がある。)

  • 目的それじたいも目的の実現についての事実的判断から変更されうる点が秀逸。事実的に到達不可能な目的は設定されないことになるので。
  • 目的・方法・事実的判断とのあいだの各々の「結び目」は互いに正当化と説明のインパクトをもっており、この種の正当化は、科学から知的学科へと拡張可能であるような、認識的正当化における本質的反照性を強調する類のホリズム的正当化であるといえる。

ある学科における認識的適正を所持していることとは、専門家集団の目的・方法・事実的判断の網状構造の把握と操作の能力を所持しているということである。

⇒また、認識的適正は程度をもった概念であり、オールオアナッシングの「スイッチング」ではないことに注意せよ。専門家と非専門家との境界もまた、明確なものではなく、程度をもっている。ある学科の専門家は、別の学科については非専門家である。

 

(p.115~)

B.) 実践的認識的相違と理論的判断

  • 「実践的認識的相違」=「非専門家である実践的推論者(科学的訓練を受けていない陪審員など)と科学的理論的専門家との相違・差異」
  • 「理論的判断」=「ひとが認識論的観点からして信じるべきである事柄についての判断」

 

C.) 非専門家の選定と適正能力についての諸問題

  • Hc:当該法廷で実践的推論の対象となるメインの仮説。たとえば、「ジョーンズは殺人を犯した」という検察(起訴)側の主張とか、「スミスは無罪である」という原告側の主張など。つまりHcは法廷内での「究極的」問題であり、法律と事実とが混合した問題である。
  • Hi:すべてのHiの連言がHcを含意するような個々の仮説。(HcがHiを含意する必要はない。)
  • 証拠命題e(単称でも複合でも可):なんらかのHiのための客観的証拠。証拠命題eが反証されるのではなくその真理が与えられた場合には、Hiはよりよく保証されることになる。あるeは、なんらかのHiについてその客観的証拠を構成するのであれば、そのHiにたいしての合理的妥当物である。(「客観的証拠」=「合理的妥当」)
  • あるeが、なんらかのHi(定義上、その集合がHcを含意する)についての合理的妥当物であるときには、そのeはHcの合理的妥当物である。

 

  • 4つの選定問題(selection problems):

陪審員が、Hcについての暫定的科学的専門家証言を構成しているかいなかを決定しなくてはいけない場合に、非専門家であるところの陪審員が直面する問題は以下の4つに分けられる。

  • 専門家証言をもたらすであろうどのような知的指針が「科学的」であるのかを決定する問題。
  • 実践的推論者が確立するであろう確信の肯定的レベルと認識的評価の基準を満たすようなものとして、彼の科学を使用することができるような「科学者」とは誰であるのかを決定する問題。
  • 事例Hcにとっての合理的妥当物であるような科学としての専門的証言をもたらすであろう知的指針がどれであるのかを決定する問題。
  • 上記の(ⅲ)の遂行についての懐疑を想定したうえで、誰が(ⅱ)を満たすような(ⅲ)のような専門家であるのかを決定する問題。

 

  • Competitionの種類
  • 証拠的命題となるような2人の専門家の証言のあいだに矛盾ないし反対があったとき。
  • 「領域内intra-disciplinary競合」:同一学科領域のなかにいる複数の専門家証言が矛盾する場合。
  • 「異領域extra-disciplinary間競合」:別の学科領域に属する複数の専門家証言が矛盾する場合。
  • 「現実的actual競合」:複数の証言がじっさいに法廷の場で競合する場合。
  • 「暗黙的implied競合」:法定外の場で、あるトピックにかんして専門家のあいだで意見の相違がある場合。これが法廷内に持ち込まれると「現実的競合」になる。
  • 「年代的diachronic競合」:専門家が、ある時点で支持していた見解にたいして、あとでその態度を変化させる場合。

 

 

 

2.知識VS正当化された信念:非専門家は専門家に何を求めるのか?

A.) 法的には何が望まれている?:専門家からの正当化された信念の獲得。

  • 本稿では、陪審員が暫定的妥当性と実質的科学的情報について精査するプロセスの分析のために、「正当化された信念」というタームを使用することにする。

① 科学的専門家承認の証拠が法律的意思決定に与えるプロセスについて親密に批判的に分析するさいに、「正当化された信念」とは、認識的評価にかんして中心的な概念であるので。

② 専門家証言が競合したさいには、「知識」(現金化されたいみではあるが)はあまりにも過度な要求であると思われるので。

③ 認識的正当化と法的正統性が要請する正当化とのあいだには、深い結びつきが存在するので。

 

  • これまでの合衆国の法廷における専門家証言事例では、非専門家が証言を通じて移行するプロセスを欠落させていた。
  • このため、陪審員は、科学的知識についての正当化されていない信念のもとで判断を下さなくてはいけなかった。
  • 法廷で陪審員に求められるものは、「知識」、「科学的知識」ではなくて、「正当化された信念」なのである。
  • 多くの陪審員は、「科学的知識」についてのde dictoな関心をもっているように思えるが、哲学的観点からみると、彼らのde reな関心こそ正当化された信念にとって求められるものである。

(p.119~)

  • Daubertケース

「専門家証言の主眼は「科学的知識」でなくてはいけない。「科学的」という形容詞は、科学の方法と手続きに基づくということを含意している。同様にして、「知識」とは主観的信念とか支持されていない思弁を超えているということを指している。・・・・・むろん、科学的証言の主題が確実に「知られている」ものでなくてはいけないと結論づけるのは不合理ではある。科学においては、確実性は存在しないのであるから。・・・・・しかし、「科学的知識」として資格づけられるためには、その推論や主張は、科学的方法から導出されていなくてはいけない。提示された証言は適切な妥当性によって支持されていなくてはいけない。すなわち、既知のものに基づいた「よき根拠」によって支持されている必要がある。要するに、科学的証言が「科学的知識」に加わるさいに要請されるのは、証拠的信頼性の規準を確立することなのである。」

 

⇒だが、法廷において、本当に、「科学的知識」が関心の的なのだろうか?

  • 少なくとも、現代古典的ないみでの「知識」(真理が必要条件であるような)が求められているのではない。
  • 「知識」が「主観的信念とか根拠なき思弁」を超えるものを指すということは、702規則は、すべての専門家が真理を証言するということを想定していないということだ。そうでなければ、法廷は専門家証言が互いに矛盾することを許容しないだろう。
  • 真理中心的知識ではなくて、702規則は「知識」にもっと拡張的な意味合いを与えている。「既知の事実の本体、ないし、そのような事実から推測されるアイデアの本体、または、よき根拠のもとで真理として受容されたものの本体」、「提示された証言は、適正な妥当性によって支持されている必要がある。すなわち、既知のものに基づいた「よき根拠」によって支持されていなくてはいけない。」
  • また、「確実性」もここでは必要条件から外れている。

法廷で求められている「知識」・「科学的知識」は、「よき理由によって支持された判断」のことである。

 

B.) 正当化された信念の源泉としての証言

  • 非専門家としての実践的法的推論者は、選定問題、競合問題に直面しながらも、科学的命題とその合理的妥当性についての正当化された信念を獲得できるのだろうか?

(本節では、知識と正当化された信念との差異は重要ではないので、ひとくくりにして「KJB」と表記する。)

 

ⅰ.証言

  • 証言の認識論の関心は近年、「証言は、記憶、知覚、推論とはまた別の独立したKJBの源泉となりうるのか、あるいは、証言は他のKJBの源泉に還元可能なのか」という点に向けられている。

 

Hume、On Miracles

⇒証言についての経験主義的還元主義の祖。証言的KJBの総体を経験的確証に依存するものとして扱った。証言を信用するのは、証言と実在とのアプリオリな関係を我あれが知覚するからではなくて、たんにそれらのあいだに関係があるということを我々が習慣として受け入れているからにすぎない。

 

Quine&Ullian、

自然主義的・ホリズム的見解。

「我々自身の経験を超えた何らかの事柄についての報告であるような観察文を聴いたとき、その刺激は我々自身のものではないけれども、我々はその話者がその発話に対して適正な刺激を持っているという証拠を獲得する。原則的に、我々の感覚の拡張としての証言のメカニズムとはこのようなものなのである。これは、観察的摂取のステップアップのための最古にして最大の人間の装置である。望遠鏡、顕微鏡、レーダー、放射線天文学などはみな、同一の目的のための後発の装置である。」

 

  • クワイン=ウリアンは、「話者が真理を語っている」という聞き手の想定の正統性に対して自然主義的に議論している。このとき、聞き手が発話された観察文の真なることを容易にチェックできるか否かは問題にならない。
  • 彼らは、聞き手の「話者が真理を語っている」という想定の正統性も、それを非観察文に拡張するということの正統性も抜きにして、証言はKJBの有意義な源泉にはなりえないと論じている。だが、同時に、聞き手が「証言者が真理を語っている」という推測的確信を持つことは、言語と言語習得についての自然的性質の観点から、正当化されるかもしれないと論じる。

⇒聞き手の「信じやすさcredulity」という自然的傾向性について、自然主義的に擁護しつつ、しかし、「信じやすさ」は合理的に限定されていることではないし、合理的制約であるべきでもないと論じている。

⇒証言から獲得された信念への合理的信頼性は非常に制限されたものになる。

 

 

  • 専門家証言
  • 一般的な証言と、科学的証言との差異は重要である。とくに、ヒュームによれば、証言の束は、彼がかたってきたことを確証しようがしまいが、それとは独立の聞き手の能力に依存するとされる。
  • 端的に、非専門家にとっては、非技術的(観察的)報告のほうが確証が容易であろう。単純な観察的帰結をもたないような複雑な理論的命題とか、その観察じたいに複雑な訓練を要するような観察にかんしては、非専門家は直接的に独立にチェックすることはできない。

 

  • Elizabeth Fricker:グローバル/ローカルな還元主義
  • フリッカーが注目するのは、聞き手が話者の誠実さと能力とを評価することの重要性である。この点は「認識的適正」について考える一助になるだろう。

「証言についてのグローバルな還元主義」:

① すべての証言によるKJBをよりなじみ深く根本的でより問題のない認識的源泉と原則(知覚、記憶、推論など)へと還元することが可能である。

② 認識論者は証言によって獲得されたKJBの認識的正統性の説明のために還元をなさなくてはいけない。

「証言についてのローカルな還元主義」:

① 必ずしもすべてではないがいくつかの証言によるKJBは、よりなじみ深く根本的でより問題のない認識的源泉と原理へと還元可能である。

② 認識論者はすべてではないがいくつかの証言によるKJBをその認識的正統性を示すために還元しなくてはいけない。

 

  • 証言由来のKJBの多くのものは他の源泉へと還元不可能であると通常想定されている。この根拠はCoadyの反還元主義の議論による。

 

  • Coadyによるヒューム論駁:
  • 証言はあまりにも多くあり、個人が観察できる基盤はあまりにも小さいので、証言が信頼可能であるか否かを自分の経験によって調査することは不可能である。
  • さらに、証言的証拠の確証ないし反証をなそうとしても、その行いじたいが多くのほかの証言的情報に依存している。我々が世界を描写するための概念枠や、その対象や制度も証言によって獲得されたものであろう。
  • ただし、フリッカーによると、コーディ流の反還元主義は、グローバルな還元主義とローカルな還元主義とを区別していない点で誤っている。コーディが拒絶しているのは、フリッカーによれば「グローバルな還元主義」だけである。
  • 確かに、我々はその発達期においては、無条件に証言的情報について「端的な信頼」を置かなくてはいけないだろう。たとえば、両親からとか学校において言語を習得するなどといったさいには。
  • しかし、認識的に物心がついた年代になれば、彼らは成熟した認識的アクターとしての義務を持つのであり、証言に対して批判的スタンスをもつようになるだろう。この段階においては、聞き手は証言者の誠実さと適性とに焦点を当てることが合理的に義務づけられる。

証言の聞き手の「推論規則inference rules」:

  • 解釈者が、証言者が発話した命題が証言している事実から、その命題そのものを是認することへと移行することを許容する規則。
  • この推論規則は「主張の発話行為についての分析的真理」であるとされる。

「SがtにおいてPにかんして適正である」=df「tにおいてSがPと信じている→P」であるときには、 {(Sは時点tにおいてPと主張し、かつ、Sは誠実でありtにおいてPにかんして適正である)→P}

 

⇒ここで、「誠実さ」と「適正」とはほぼデフォルトで想定されており、ディヴィトソンの言う「寛容の原則」のように、証言においては話者の適正と誠実さにかんして「寛容原理」を想定することが、自然言語の本性の一部であるとされる。

フリッカーらの議論は、この想定に多くを依存しているわけだが、しかし、この寛容原理は、無限定に想定されるわけではない。

「[解釈作業に従事する]聞き手は、話者がかたることを無批判に信じるのではなく、聞き手の持っている情報に基づいた聞き手自身の信頼のための聞き手自身の経験的根拠を持っている。」

フリッカーは「ローカルな還元主義者」なのである。

成熟した認識的アクターであれば、証言によって獲得された命題を、解釈における批判的吟味を経て、他の種類のKJBへとローカルに還元可能なのである。

 

フリッカー見解の利点

  • 話し手の暗黙の/明示的なコンピテンスの両方に対して聞き手の批判的スタンスを求める点。
  • このことは、専門家の事実的主張への関心を手続き化した証拠と手続きの規則形式において、法の認識論にビルドインされるものであるべき。
  • 以下の直観とも折り合いが良い。

①ひとは、自分の非証拠的経験のみによって、すべての証言を確証することはできない。

②多くの証言により獲得された信念は、他の手段によって確証できないけれども、しかし、それらの多くはKJBを産出しているように思える。

③非批判的信頼が保証なきだまされやすさに落ち込むときには、合理的な信じやすさが限界づけられなくてはいけないように思える。

 

フリッカー見解の欠点

  • 我々が証言から得たKJBであると思っているもののうちのどのくらいのものが、じっさいにKJBであるのかを明らかにしていない。
  • 話してのコンピテンスが相対的にトリヴィアルな伝達のサブクラス(どこに住んでいる、朝なにを食べた、名前はなにかなど)にのみ適用されていが、我々はもっと複雑な内容を証言から獲得したKJBとして持っているという直観をもっている。

フリッカーはむろんこれらの問題に気づいていただろう。だから、

証言的認識論は、

①証拠なしにいったいいつ我々は信じるのか、

②話者の信頼に値する度合についての経験的確証、

の2つの要素に分かれるのだとしている。(これは一種のエクスキューズ)

⇒とはいえ、むろん分けたからといって、何がKJBかが明らかになるわけでもないのだが、これらの規則は、非専門家の推論者による、専門家の推論への傾従に目を向けさせる。

 

 

 

2. Expert Testimony

*一般的な証言から、専門的証言へと議論を絞っていく。

ここでは専門家への認識的傾従についての2つの路線を検討してみよう。

  • Collectivist accounts:Putnam、Hardwigら。「知識の分業」一般のついての見解。
  • “extra-cameral” accounts:Kenny、Coadyら。法廷証言理論に特化した議論。

⇒どちらのタイプも、「非専門家は、専門家からKJBを得ているのだ」という直観は共有している。

 

  • 集合的認識論派(コレクティビスト)の見解
  • いかにして/なぜ、専門家への認識的傾従がKJBを引き出すのかを説明する。
  • 基本的には、「個人主義的」認識論から脱却したKJB理論を目指す立場。

個人主義的認識論:「知識」とは「個人的認識主体の心の性質ないし能力」について、個人的な認識主体の観点からみて、良い、信頼可能、保証されている、真であるか否か、に依存する。

⇔集合主義的認識論モデル:KJBの産出と移送は、たんなる個人的事業ではなくて集合的エンタプライスである。したがって、KJBの複雑さというものは個人主義的認識論によっては説明できない。

 

  • Hardwig見解
  • 科学者によって暫定的に所有されているKJBを説明することは、個人主義的認識論では難しいことは、いまや多くの経験諸科学がコンピュータの使用による計算・分析処理に依存しているが、個別諸科学の専門家である各々の科学者は、コンピュータの仕組み(コンピュータ科学)については知見がないことを考えてみるだけで明らか。

⇒すべての知識の直接的な正当化を各個人がそれぞれすべて持つことはできない。

だからといって、専門家ですらKJBを持っていないという懐疑論に陥ることは不毛。

 

 

  • Putnamの「社会言語仮説」
  • ある社会のなかで、いかにして専門家と非専門家とが、理論的学科(とくに経験諸科学)内の特別な職分にあたる「専門的」タームを使用し続けることができるのか、言いかえると、非専門家は彼ら自身ではそのタームの意味を知る能力を欠いているのに、なぜ専門家と同じ意味を使用できるのか、についての説明。
  • 「言語的労働の分業」:「金」とか「水」といった語を社会の大半の人物が、一般的なボキャブラリとして獲得しているが、一方でその社会のあるサブクラスしか、それら所与のアイテムがその語にあたるかいなかを判断する方法を獲得していないという事実。⇒彼自身が専門家ではなくても、「専門用語」を専門家と同じ意味で使用しているという事実。
  • 「非専門家である彼は話者の特殊サブクラスに依存しうる。一般名の結びつきについて現れる一般的思考、すなわち、共同体のメンバーシップにとっての外延についての必要‐十分条件(何らかのものの外延(規準)を理解する仕方)は、集合的本体としての言語的共同体において現れている。」
  • 「すべての言語的共同体は、この種の言語的分業を体現している。少なくともいくつかの語については、その語に関連する「規準」は、その語を獲得している話者のうちの限られたサブクラスに入る人物しか知らないだろう。その他の話者に使用されることは、妥当なサブセットに入る話者とそうでない話者とのあいだの構造的協働に依存する。」

⇒共同体内のすべての話者が専門知を所持していないとしても、共同体全体は専門知を所持していることが主張できる。

⇒専門家は、共同体内部において、特殊な専門的方法の使用による意味の特定にかんしては、非専門家にたいして認識的権威をもつ。

 

  • Hardwigケース

非専門家 Bは以下の条件のもとで専門家Aから命題pについての知識を獲得しうる。

①Bはpの真理のための証拠を供給することが可能な探究に従事していない。

②Bは①のような探究のためのコンピテンスを持っておらず、この先も持ち得ない。

③Bは、AがBがpについて意見をもつために提案するような理由の良し悪しを評価する能力を持っていない。

④Bはpが意味するものはなにか/pの意義深さ、を理解できない。

⇒ハードウィックによれば、①から④までの条件を満たしていたとしても、Bのpについての信念は合理的に正当化されている、つまりBはpを知っている、とする。

⇒ここで、Bがpを知っていることを認めないのであれば、我々は、文化のなかの大半について非合理的ないし不合理な信念を持っていることになってしまうではないか。

 

  • HardwigのBig Scienceケース

上記のような状況は、いわゆる「巨大科学」的な科学研究においても起こりうる。

  • 各々の研究者は彼らそれぞれの作業に従事しており、それ以外のことについてはその検証を持たないし持ち得ず、他の人々に依存している。だから、個々人は、その研究から産出された知識について、「知らない」と言えるだろうか?
  • もしこのような協働的指針のもとで遂行されている科学研究について、それが知識を産出していることを容認しないことはおかしい。

 

 

  • 集合的認識論派の議論は妥当か?

ハードウィックの議論は、概略以下のようなモダス・トレンスになっている。

①もし正当化された認識的傾従が不可能であるならば、任意の複雑な文化における信念の大部分は不合理ないし非合理なものとなるだろう。

②任意の複雑な文化における大部分の信念は、不合理ないし非合理ではない。

③従って、正当化された認識的傾従は可能である。