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Goldberg ”Experts, Semantic and Epistemic”メモ

最後飽きてるようす。

 

***

Goldberg[2009]:

”Experts, Semantic and Epistemic”, Noûs 43.4.pp.581-598. 

  • サリーは科学者ではない。電子とか霧箱とかいったことについて彼女が知っている事柄について、彼女は他人に依存している。彼らは、彼女に、電子はスピンをもっていて云々ということを教える。我々のほとんどは、我々が知っていることについて他人の証言に依存している。このこと自体は珍しくもなんともない。それは証言の認識論者にとっての一大テーマでもあり、彼らはみな証言的知識はある重要ないみで社会的なものなのだと主張している。だが、本稿の目的はそこではない。
  • 本稿の目的は、証言的知識の社会的性質は、認識論のプロパーを拡大するのだということを示すことだ。とくに、我々が世界について知っていることのほとんどが他人のコトバからの知識であるという事実は、言語使用についてのある特定の社会的実践、話者が話者の語の意味の分節化と、概念の適用条件とについてエキスパートに従属するという実践、を合理化するということを示したい。

 

 

2.

  • 本稿の議論は、証言的知識の獲得におけるエキスパートの役割に着目する。議論のために以下の明確化を与えておく。

Hのpという知識が証言的知識であるのは、pの獲得が以下のことを通じてのものであり、かつ、pが知識という身分を得ていることが以下のことに依存しているときである。すなわち、pという証言片についてのHによる把握と受容

 

  • だが、証言者が常にいわゆる「専門家」であるわけではない。昨日ヤンキーズの試合を見に行った友人に試合の結果を教えてもらったとしても、この友人がヤンキーズの専門家であるというわけではない。このばあい、私は友人の証言を信頼可能であり、権限のあるものとみなすが、それはエキスパートの卓越した能力によるものではない。
  • 証言的知識においてエキスパートが役割を果たすと言われるのは、そのトピックについてアットハンドに専門家であるような人物から受容した証言に依存して証言的知識が生じるような場合である。このとき、このエキスパートを「知識領域エキスパート」と呼ぶ。
  • レリバントな知識領域エキスパートとは、①所与の領域においての特殊化された背景的知識を持ち、②当該の知識について、組織化された仕方で容易なアクセスが可能であり、適切な状況下でその知識を使用可能な人物である。

⇒先の野球の事例で、多くの証言の事例においてはエキスパートを含まないと言ったのは、野球の事例の場合のように多くの証言、何らかの特殊化された背景的知識の要請なしに識別できるような報告であるということを述べたにすぎない。

⇔だが、証言におけるエキスパートの役割は、彼らの専門性の内部の問題について証言するということだけではない。潜在的または暗黙的にであれ、エキスパートは、非エキスパートによる日常的な証言事例においても何らかの重要な役割を果たしているのである。そして、この暗黙の役割こそ本稿が明らかにしたいものだ。本稿の主張は以下の2点である。

①我々の仲間への我々の認識的信頼は、証言者本人がエキスパートではないような日常的な証言の事例においてでさえ、我々の共同体におけるエキスパートへの意味論的従属を合理化している。

②ある特定の場合には、意味論的エキスパートはレリバントな知識領域エキスパート以外に存在しない。

  • もし本稿の議論が正しいものであれば、スピーチによる知識の伝達は、心と言語についてのアンチ個人主義を支持する議論の源泉を供給することになるだろう。

 

 

3.

  • 本稿が主張するテーゼ:

我々によるエキスパートへの意味論的従属はそれじたい、あれこれと語る他の話者への我々の認識的信頼によって合理化される。

 

  • このテーゼの背景には以下の2つの基本的なアイデアがある。

①仲間の発言の受容によって知識の実質的‐特殊的部分についての詳細を獲得することができるようになるような実践にエントリーすることに生じるコスト。知識の移送を実際に可能にしている言語的ノルムに対応するコスト面の考慮。

②上記のノルムそれじたいは、レリバントな知識領域エキスパートによって供給される。

⇒上のことが正しければ、

・我々が世界について知っている事柄のために、我々が仲間にたいしてもつ信頼と、我々の語の意味の明確化と概念の適用条件のために、我々が仲間にたいしてもつ信頼とは、同じコインの裏表であるといえる。

 

  • 証言的知識の獲得

証言的知識を獲得するための条件について考えてみる。

  • 証言的知識とは、pということが言われたことへの理解によって獲得され、またその理解によって知識としての地位を得るような種類の知識だ。だから、証言を構成している観察した言語行為の内容を回復する能力/コンピテントが必要だ。観察された証言を信頼可能な仕方で把握しないと、pということについての証言的知識は獲得できない。
  • だが、証言的知識が上記のように聞き手の能力に依存して知識としての地位を獲得するのだとして、なぜその把握が信頼可能でなくてはいけないのか。
  • これは認識論的真理主義にかかわる論点である。意識であるためには、信念は、アクシデンタルではない仕方で、信じられている事柄の真理と関連していなくてはいけない。
  • もしも把握プロセスが観察された証言の内容についての単なるゲスワークによるものだとしたら、その把握によって形成された信念は、仮に信じていることが真であるとしても、知識とはいえない。【それは単に真である信念であって、認識論的に保証されてはいないということだろう。】だから、Sがpという証言的知識を獲得しているのなら、Sはその証言の命題的内容を信頼可能な仕方で回復していなくてはいけない。つまり、Sは当該の証言片について、もしもそれが事実的に内容pを持つのであるときにのみ、内容pを持つものとして把握するのでなくてはいけない。【これは、つまりsensitiveでなくてはいけないということだろう。】

⇒このような考慮は、信頼可能な把握は、証言的知識の獲得のための必要条件であるという主張を支持している。

⇔だが、このような必要条件主張は、証言的知識それじたいの極端に狭い性格付けから帰結しているのではないかと疑うかもしれない。

  • 証言的知識を、示されたまさにその命題について聞き手が知るようになることとして捉えるなら、聞き手が証言的知識を獲得したならば、聞き手はもちろん源泉となる証言の命題的内容を回復していなくてはいけない。【これはほぼトートロジーないし定義によって真というくらいの主張だ】
  • しかし、それは、証言的知識を余りに狭く採っているから言えることなのではないか、と反論者は続けるだろう。たとえば、証言的知識は、示されたまさにその内容を聞き手が知るようになることだという前提を採らないことだってできる。そのときには、以下のようにもいえるはずだ。Sが観察した証言が与えられたとき、その証言がもっているだろうとSによって捉えられた内容が、真でありそうな限りにおいて、この統握は証言的知識の獲得を描いていると言える。このとき、Sに統握された内容が、情報源が示した内容と同一であるか否かは問題ではない。

 

⇔だが、本稿での証言的知識の規定は、決して恣意的なものではない。(論点先取でもない。)その理由を2つ挙げておく。

(1)本稿がしたような規定は、広く受け入れられている。

(2)この規定は、以下のそれぞれ独立に明確な見解の連言として生じている。①証言的知識は、証言的信念を含む。②証言的信念は、証言片の把握と受容と通じて形成された信念である。③証言片の受容は、示された命題の受容を含む。

それに加えて、本稿の規定は以下の2つのアイデアと関連している。

(ⅰ)他人のあれこれ言うことを通じて信念を形成するさいに、聞き手Hは、証言者の(言語的な)物事の表象の仕方によって信念固定をガイドされる。Hが物事についてそのように信じるのは、Hの証言者が物事についてそのように語ったからだ。しかし、この見かけが意味をなすのは、Hがそのように信じている事柄が、証言者がHにそのように語った事柄であるときのみである。

(ⅱ)他人があれこれと語ることを通じて信念を形成するさいに、Hは彼女の情報源が、(信頼可能な仕方で)物事の正しい「財産」を持っているということを信頼する。しかし、Hのこのような信頼は、Hの情報源が第一にその「財産」を得た仕方を、Hが回復/再発見すること、最低限、その証言の真理保存的な内容を再発見すること、を要請する。

⇒だから、本稿での証言的知識の規定と、信頼可能な把握は証言的知識のための必要条件であるという主張とは、よく動機づけられている。

 

  • 信頼可能な把握

信頼可能な把握としてレリバントなものとはどんなものだろうか。

*把握プロセスが信頼可能であるのは、以下の特性と適合するときのみである。:

そのプロセスが、観察された証言片を内容pを持つものとして表象するのは、その証言がじっさいに内容pを持つ時のみである。

 

本稿のなかでは、上記の定式化についての詳細には立ち入らない。だが、この要請は、現実の聞き手にとって規則的に充たされていなくてはいけない。この要請が現実の聞き手によって規則的に充たされていないのであれば、証言的知識はこのように浸透しているはずがない。

  • 証言的知識のスコープにかんする上のような前理論的見解が必ずしも受け入れられているものではないということは、問題である。おかげで、この見解はある種の懐疑論にとってかわられそうになっている。我々の知識の織物において、証言的知識が果たしている広く認識されたより一般的な役割を理解すれば、懐疑論を受け入れることがないことがわかると思うのだが。

 

 

  • さて、信頼可能な把握要件が規則的に充たされているという主張を、ここでは、言語的理解についての以下のようなポピュラーな見解に反対するために使用してみたい。それは、「完全把握の教義」という見解である。

 

585~

CG:言語行為を理解するためには、その言語行為の内容を構成している諸概念のそれぞれを完全に把握comprehensionしなくてはいけない。

 

⇒いかなる概念Cにとっても、Cの適用条件は「必然的に、Cが対象oに適用されるのは、以下のときかつそのときのみ…」という形式の言明によって与えられる。

  • 主体Sが時点tにおいてCを完全に把握しているのは、Sが反省的方法のみによって、この言明形式についての何らかの正しくかつ情報的完成を理解している場合である。
  • このテーゼへの反例はタイラー・バージのものが有名であるが、バージの反例は態度帰属の意味論についてのものだった。
  • 本稿では以下で、CGの反例として、証言的交換の本性のパターンにングを考察することを行う。
  • CGは、以下の議論で示されるように、信頼可能な把握条件が規則的に充たされているという見解と両立不可能である。もしそうであれば、背理法によってCGと前提することが誤りである。

 

*議論のアウトラインを先に示しておく。

前提1.CGテーゼは真である。

前提2.我々は公共的言語を話している。

前提3.少なくとも、我々の公共的言語が割りつけている辞書法における概念については、CGのいみでの完全な把握は、ありふれた現象ではない。

⇒前提1~3から、我々が信頼可能な把握条件を充たしているということは、ありふれた現象ではなく、我々が証言的知識を獲得するものとしてカウントしていることは、ありふれた現象ではない。

⇔しかし、だとすると、我々の証言的知識の広がりにかんしての前理論的見解を掘り崩す懐疑論的結論が帰結する。懐疑論的結論を避けるためには、前提1~3のうちのどれかを拒絶するしかない。前提1を拒絶すべきである。

 

*前提のそれぞれについて詳述するまえに「公共的言語」について明確化しておく。

  • 言語Lについて、Lは、特定の辞書における諸要素(Lにおけるボキャブラリー)のそれぞれへと意味を割りつけるものとしよう。
  • Lが各表現へと割りつける「意味」は、使用の機会における表現の意味値とは同一ではないかもしれない。我々は、辞書から離れた表現や、意味論的に文脈感知的な表現を使用することを許容されているから。だが、議論のために、この点は捨象し、表現の意味はその意味論的値をもつと仮定する。
  • さらに、当該関心の的である表現にとって、ある表現eの意味は、Lがeに割りつける(諸)概念であると仮定する。
  • Lは公共的言語であるのは、その発話が正しく「言語Lの」発話とみなされるような話者の共同体が存在するときである。

 

  • 前提2.の擁護

⇒Lewis1981の指摘通りに、話者がなんらかの共通言語「の」発話を産出していることのための条件の決定は難しい問題だ。しかし、本稿では、前提2.の擁護に関しては以下のようなシンプルな形をとる。

「もしも人びとが公共言語を話していないのなら、把握プロセスは広範囲にわたる問題を含んでしまうようにみえる。信頼可能な把握条件が規則的に充たされていることがありえないことになってしまう。」

⇒この見解の擁護は、Goldberg2002,2007で行ったので、ここでは簡単に済ませる。

 

標準的ケースでは、把握は同音把握としてなされる。

  • 聞き手Hが話者Sが語ったとみなす事柄を発音するとき、HはSが使用したとHがみなしているのとまさに同じ形式の語を再使用する。
  • いま、HとSが共通の公共言語を話しているか否かにかかわらず、Hの意味論のレリバントな一部とSの方言が同一である(つまり、同一の概念を同一の形式の語に割りつけている)ときのみ、Hの同音把握はSの言語行為を把握するための信頼可能な方法であるといえる。
  • Hの同一形式語の再使用が、HのSの言明の把握が、事実的にSの言明の内容を正しく提示しているとことを保証しているのは、上記のような事例においてのみである。
  • ここでの問題は一般的なものだ。話者のレリバントな部分にとっての意味論と、聞き手の当該の方言という2つの異なる次元が、聞き手がこの同音把握の方法において信頼可能な把握が可能であるようないかなる話者によってのいかなる発話についても、同一でなくてはいけない。
  • このことは、結局、標準的な種類の把握プロセスが信頼可能なものであるのは、所与の言語共同体におけるすべての話者の意味論が同一である(同一の概念に同一形式語を割りつけている)ときのみであることを示しているように思える。
  • そのようなオーバーラップがあれば、言語共同体のメンバーを共通言語を話しているものとしてみなすのに十分であるように思える。
  • 共通言語の仮定が、それ以上に、なさなくてはいけないことは、言語共同体のすべてのメンバーの方言の意味論のあいだに多かれ少なかれ統一的な一致があるというこの状態が、はじめにいかにして達成されたかを説明することだけだろう。
  • 聞き手の同音把握への信頼が不在でも、信頼可能な把握が達成されることを示された場合には、公共言語の必要性は雲散霧消してしまう。デヴィトソンの根元的翻訳に訴えて、このプロジェクトに挑む論者もいる。
  • 根元的翻訳者は、他人が翻訳者である彼自身と同じ言語を話しているように思えるときでさえ、他人の表現にかんして事前に何も仮定しない。だが、デヴィトソン自身は、把握の通常ケースは、このような根元的翻訳のような種類の解釈を含まないと考えているようでもある。Davidson1999参照。
  • もしも個人が彼の属する共同体において話者によって表現された知識を獲得することに開かれているのであれば、単独の個人によって解決されなくてはいけないコーディネーション問題は、どの個々人にとっても解決するには大きすぎる問題であろう。聞き手は、彼の共同体において、話者が存在するだけの数の異なる方言を跡付けなくてはいけなくなるし、あるひとりの話者の方言の変化もフォローしなくてはいけなくなる。これでは、通常文脈での知識伝達における個人の言語の把握など困難すぎる問題となってしまう。根元的翻訳は、通常の日常的ケースのためのよいモデルではないのだ。

⇒公共言語の措定のみで、通常の把握プロセスの信頼性を正当化できるように思える。従って、前提2.は安全だろう。

 

  • 前提3.の擁護

*前提2.が安全であれば、前提3.(完全把握の希少性)の擁護は容易である。

  • 前提3.が問題であるのは、以下の理論によるバックドロップをくらうときだけだろう。話者の概念は、話者自身の信念と、語に対応した話者による推論的実践に応じて個人化されているという理論である。
  • だが、もしも話者の概念が公共的言語の概念であるのなら、前提3.の主張はまったく明らかである。なぜなら、各話者は、彼のレパートリーにおける公共的言語概念の多くについて、彼自身で自由にそれら概念を明確することはできないのだし、彼自身で自由に概念の適用条件を定式化することもできない。そして、多くの場合、そのような明確化を提示されたときにも、彼はそれを意識的に理解しているわけではない。
  • 確かに、いかなる話者も、「トリビアルな」明示化を提起し受容することができるだろう。たとえば、以下のように。

(T1)概念DOGはすべての犬に、そして犬にのみ適用される

(T2)「xは犬である」という述語は、すべての犬に、そして犬にのみ適用される

だが、これらは概念の明確化ではないし、概念・述語の適用条件を明示化したものとはいえない。その適用条件が問題となっているその述語が、再使用されているだけである。

  • これを理解したなら、公共的言語概念については、主体は、大抵の場合において、概念の明示化や概念の適用条件を産出ないし理解するポジションにはいないことがわかる。

⇒だから、完全把握はレアなのである。【自身の反省によってのみ、言語行為を構成する諸概念の意味を完全に把握する(その概念の適用条件を自身の反省によってのみ明確に定式化しつくす)ことは滅多にできない、ということ。】

 

  • 前提1.を反駁する。
  • 前提1.は、完全把握そのものの教義である。1.2.3.の連言はありそうもない帰結を含意し、2.と3.はそれぞれ独立にそのもっともらしさが確保されているのだとしたら、拒絶すべきは1.であろう。
  • しかし、完全把握テーゼが偽であるとしたら、そもそも把握とは何から成るものなのか、あるいは、把握とはいかなる事態として規定されるのか。この問題への回答の仕方を誤ると、トラブルを避けるためにテーゼ1.を受け入れることに逆戻りしてしまう。
  • 本稿の立場では、ひとは、ある言明についてその内容を構成する諸概念の完全把握を所持しなくとも、その言明を信頼可能に把握しうると主張する。信頼可能な把握とは、観察されたスピーチを、事実的にそれが所持している内容を持つ者として信頼可能に表象する問題にすぎない。
  • レリバントな諸概念を所持している限り、ひとは完全把握をしようがしまいが、ある観察された発話の内容を、まさにそれらの諸概念を配置転換redeployingすることによって表象することができる。

⇒ここで、我々はアンチ個人主義に接近している。この点の詳細は次節以下で述べるが、我々がいかにしてアンチ個人主義へとたどり着くのかをここで簡単に示しておく。

まず、証言的知識は人口に膾炙した現象である。そして、証言的知識の獲得は、源泉となる証言の信頼可能な把握を要請する。ここで、公共的言語の諸概念の完全把握は滅多にない現象である。ここから、証言的知識の獲得は、完全把握を要請しない、かつしえない。

*だから、完全把握の否定は、本稿の前提ではなくて、その結論である。

 

 

4.

  • ここまでの議論が、証言的知識の浸透は完全把握を要請しない種類の理解に依存しているということを示すことに成功しているとしよう。だとしても、レリバントな種類の理解は、それを通じて、聞き手が観察した言語行為に規定的な命題的内容を帰属させるようなものでなくてはいけない。さもなければ、聞き手が、彼らが観察した証言に表現されたその知識片を一体どのようにして獲得したのかがまったくわからなくなってしまう。
  • 従って、以下のことが明らかにされなくてはいけない。聞き手の理解は、いかにして、話者の証言に表現された知識片の獲得を引き受けるために十分なほどの特異性を持ちうるのか。そして、そのさい、いかにして、当該内容のなかの諸概念の完全把握なしに聞き手の理解が可能であるのか。本稿の見解では、不完全把握のばあい、聞き手による証言構成的言語行為の内容把握の決定性は、聞き手のレリバントなエキスパートへの意味論的従属に基礎づけられている、というものだ。

 

  • 不完全把握
  • 一体、何によって、聞き手は、示された命題的内容を把握したと見なされる(信じるようになると見なされる)ようになるのか。ここで、当該内容を組成する公共言語の諸概念の聞き手による不完全把握を想定すると、聞き手の把握の内容については、多くの仮説を立てることが可能になる。
  • たとえば、膝の関節炎が痛いとSがHに言ったとする。だが、Hは「関節炎」という概念またはその派生語を完全把握していないとする。Hの把握が同音把握であるとき、HはSに言われたことを何とみなすだろうか。
  • 第一の仮説:HはSが膝の関節炎が痛いと主張していると思う。(「膝の関節炎が痛い」は、HがSが主張したとみなした内容である。)
  • 仮説2:Hの理解が同音把握的であったとしても、Hは関節炎と同一の形式をした語を特異に理解しているかもしれない。そして、HはSは膝の間節炎Thartritic(バージが関節炎論文で使用した間接とじん帯の病気を指す概念)が痛いと言っているのだと思う。
  • 仮説3:Hはメタ言語的に理解しているかもしれない。HはSがこの辺りでは「膝の関節炎」として知られている部位が痛いと主張しているのだと思う。
  • むろん、他にもいくらでも解釈は可能だ。
  • ここで重要なのは、Sが使用した語のHによる再利用――それはHによるSの証言の(同音的)理解を公表する試みであるのだが――は、HがSをいかに理解するかを正しく示した仮説がどれなのかを決定しはしないということである。
  • おそらくいくつかの仮説は、Hの他の言語的ふるまいと整合しないということで切り捨てることができる。だが、この手段で精査できないようなケースはいかようにでも想定可能である。様々な競合仮説が、Hの把握状況として帰属されうるということがありうる。
  • だが、Hは、Sが伝達しようとした知識を獲得するのだという場合には、我々はこれらの諸仮説からひとつ(典型的には、標準的な仮説)を、HがSのスピーチを理解する仕方を正しく捉えたものとして識別する方法を持っていなくてはいけないだろう。

*本稿の見解では、ここで求められている決定性は、Hの「関節炎」についての意味論的従属によって与えられるというものだ。つまり、HがSは膝の関節炎が痛いと言っていると思うということは、HのH自身の言語的共同体への従属によっているのである。

 

  • 意味論的従属による把握の決定

HによるSの証言の同音的把握は、それじたいでは、Hが到達した把握の内容を固定しない。だが、Hの同音的把握は、Hの(おそらく無意識的な)Sを「同一の言語を語っている」ものとみなす意図と合わさることで、内容を固定する。

  • 意味論的従属の必要性は、聞き手が、彼女自身が使用している公共的言語の適用条件をなしうる限りくまなく分節化することは不可能であることを理解しており、かつ、それにも関らず、それらの語(彼女自身も他人も口に出す語)が適用を規定されているということを理解しているときに、生じてくる。
  • それらの語が公共言語の語彙であったとしたら、その規定された適用は、公共言語の基準によって与えられている。これら基準は世界の対象や性質への語の適用条件を分節化しているものなので、その基準じたいは当該の対象や性質それじたいの本性についてのエキスパート、すなわちレリバントな知識ドメインエキスパート、によって分節化されている。(*但し、固有名についてはこの限りではない。)
  • だから、エキスパートへの従属は、少なくとも聞き手自身の不完全把握の事例では、それらの語の把握にかんしての決定性を中心的に形成しているといえる。

 

  • だが、意味論的従属は、概念の不完全把握の決定のための十分条件ではない。
  • 例えば「コップ」を数字の6だと思っていて、概念「コップ」のそのような特異な帰属についての非標準的理論すら持っていないような意味論的に異なる主体は、「コップ」という概念を持っているとはみなせないだろう。コンピテンスについてなんらかの最低限の規定が必要だ。
  • また、じつのところ、意味論的従属が把握の決定にとっての必要条件であるのかでさえ議論の余地がある。もしかしたら、完全把握の事例というものが存在するかもしれない。
  • だが、証言的知識の獲得によって必要とされる把握の決定を確保するのは、ミニマルなコンピテントを持つ話者による意味論的従属である、というのが本稿の要点である。

 

  • 意味論的従属は唯一のみちか。

不完全把握も含むような証言的知識の獲得にとって必要とされる種類の把握の決定を説明するためのものとして、意味論的従属は唯一のものであるのだろうか。そのことを示すためのノックダウン論証を与えることはできないが、以下のように考えてみよう。

  • 話者は、様々な表現への各自の理解が大きく異なっていてさえ、他人にある特定の知識片を伝達することができる。(この点はパテントとする。もしそうでなかったら、証言は知識の源泉としてこれほど浸透していないだろう。)
  • 把握は、労力の少ない仕方でルーチン的に処理される。話者と聞き手が互いのスピーチについて何も知らず、彼らの簡便な会話交換において表明されるものへの解釈の傾向性についても何も知らない条件下でさえ、このことは真理であろう。
  • 聞き手と話者との背景的信念とか分節化の能力の多様性の程度を考えると(多様性は、知識片の成功的伝達と両立可能な程度のものである)、把握が一般的に信頼可能なものであることを示すことが難題となる。この難題は、聞き手は標準的に意味論的従属下にあるという想定をすれば解決する。だが、もしも意味論的従属の想定を拒否すれば、難題のまま残る。

⇒では、示された内容に含まれる諸概念について不完全に把握しており、かつ意味論的従属下にはない聞き手については、何が言えるだろうか。このような聞き手は、示された内容に対しての把握が可能であるという最低限の概念コンピテンスを持つものとみなされるだろうか。そして、証言的知識を獲得しうるだろうか。

  • ある概念について不完全把握しており、かつ意味論的従属下にもいない聞き手は、当該疑念にかんして最低限のコンピテントがあるとは言い難い。そのような主体は、ただしく同一の外延をもつメタ言語的概念に従っているのだろう。概念電子に従うのではなく、概念この辺りの人びとによって「電子」によって意味されているものに従っているのだ。
  • 伝達の目的のいくつかにとっては、外延を同じくするメタ言語的概念を含む把握でも間に合うこともあるかもしれないが、「電子」それじたいにかんしての最低限のコンピテントを彼女に認めることは難しい。
  • 彼女が従っているだろう多くの多様な概念のなかからピックアップしたあるひとつの概念について、彼女が従っている概念であるとして基礎づけることは難しい。だが、もしも彼女が意味論的従属下にあるなら、そのような基盤を探すことができるかもしれない。彼女は、彼女の仲間が従っている概念を使用しているのである。
  • もし仮に、意味論的従属が失われて、公共的言語のなかのある語についての完全把握も所有できないのだとしたら、その主体はその概念について、他人とは異なって彼女にとってはこのようであるものとしての帰属の根拠を我々に与えることもできないように思える。
  • 従って、不完全把握も含んで、把握の決定は、少なくともある程度の意味論的従属を要請するのだといえる。

 

  • 他人の文言に従属すること
  • 同じ事柄について角度を変えてみてみよう。他人がいかにして言語的にものごとを表象するのかを受容することによって知識を獲得しようとするものは誰でも、彼女の情報源がいかにして物事を表象するのかを捕獲しなくてはいけない。そのような作業は、すでに、聞き手の従属的な意図を指し示している。つまり、聞き手は、話者が使用したように(少なくとも聞き手がその同音語を把握したように)聞き手自身の語を使用する傾向にある。これは、ミニマルな意味論的従属の一種である。聞き手は、聞き手の情報源に意味論的に従属している。
  • ここまで述べてきた意味論的従属は、このミニマルな種類の意味論的従属を一般化したものである。つまり、聞き手がある特定の、彼女がいままさに観察しているスピーチをしている話者に対して従属するのではなく、当該概念の分節化について最良のポジションにある人びとに対して従属するということである。
  • 一般化への手順は、聞き手による話者のパースペクティヴの理解に沿って進む。聞き手は、話者のスピーチの傾向性について何も知らないかもしれないし、話者も聞き手の解釈の傾向性について何も知らないかもしれない。話者と聞き手は、各自で、両者に、そして、彼らが共有する言語共同体の成員の誰にとっても、共通する一連の基準に信頼を置く必要がある。
  • お互いに、互いのスピーチと解釈の傾向性を知らない場合には、このようにしてのみ、この共同体内の任意の2人が、スピーチを介して知識を共有することができる。
  • 話者と聞き手とが、互いに先行知識を持たない状況下において、スピーチを通じた知識の共有を目指すいかなる共同体も、意味論的従属を自然な一部として含むだろう。意味論的従属の傾向を持たない話者は、この仕方での知識獲得に参与することができない。
  • ある言語共同体の任意の成員は、スピーチを通じた知識の交換の実践の参与に務めることを前提としており、だから、レリバントなエキスパートに意味論的に従属することも前提としているといえるかもしれない。(むろん、この前提は反駁可能である。だが、ポジティヴな前提である。)

 

  • 従属のずれと意味のずれ
  • 意味論的従属は、一般的なものであるから、聞き手は典型的には特定の個人をエキスパートとみなして従属するのではなくて、聞き手が出会う人物は誰でもレリバントなエキスパートとみなして従属するのである。つまり、従属先の個人がエキスパートとして識別されるということではない。
  • だが、従属が、エキスパートと見なされる特定の個人に対するものであるケースも存在する。エキスパートたちがあるキータームの適切な分節化について一致していないときに、異なる聞き手は異なるエキスパートに従属するという可能性がある。このとき、聞き手たちは、異なった仕方で、この語について把握していることになるのだろうか。そうではない。
  • 我々はまず、多様な従属的傾向性を区別することができる。聞き手は、ある特定の個人へと従属するかもしれないが、ある特定の状況下ではその一階の傾向性を放棄するというような高次の傾向性も持つかもしれない。
  • 聞き手がその語をいかに把握するかを決定するような支配的傾向性(これを根本的fundamental従属傾向と呼ぼう)は、聞き手の様々な反事実的シナリオへの反応をガイドするような傾向性である。
  • 異なるエキスパートに従属している聞き手が語を異なった仕方で把握しているという結論に抵抗する別の議論として、エキスパートの分節化それ自体が、パラダイム的適用と受容された分節化とのあいだの反省的均衡を含むプロセスの一部であると理解することもできる。
  • 概念の個別化のプロセスは、既存の理論とパラダイム的な適用とのあいだの最大限の整合を目指す反省的均衡のプロセスである。その過程でひとつの概念にまとまらなければ、その場合には決定的な概念がないということになる。(その場合には、異なるエキスパートに従属する聞き手たちは、異なる仕方でその語を把握していることになる。)おそらく、前もって、このような記述が適切であると語ることはできないだろう。
  • だが、エキスパートの分節化の不一致の存在という事実は、つねに、聞き手の当該語への把握の不一致のサインであるとは限らないという点が重要である。

 

  • アンチ個人主義
  • 回り道をしてきたが、やっとここでアンチ個人主義のテーゼに辿りついた。それは標準的には以下のように形式化されている。ある主体の命題的な態度のいくつかは、その主体の社会的ないし物理的環境の性質についての彼らの個別化に依存している。
  • ここまでの議論は、このテーゼを証言的知識の移送の条件から支持しようとしたものだ。
  • 証言的知識の獲得のために、聞き手は情報源となる言語行為を信頼可能な形で把握しなくてはいけない。
  • このとき、聞き手は示された内容を構成している諸概念について不完全にしか把握しないので、彼女の把握が信頼可能であるのは、彼女が意味論的従属下にあるときのみである。従って、究極的には、そのような従属が彼女の把握の状態における概念の個別化として成功しているのは、エキスパートの分節化とパラダイム的適用の最大限の整合を目指す反省的均衡のプロセスの一部としてのみである。
  • このような場合、聞き手が話者が示したものとみなすその内容の個別化(それは、聞き手が証言の受容に基づいて形成した信念の内容と同一である)は、彼女の社会的かつ物理的環境に依存している。
  • 但し、概念の個別化が聞き手の社会的環境に依存しているのは、彼女がエキスパートに従属している限りにおいてである。2人の聞き手が組成的には瓜二つであっても、異なる分節化を持つエキスパートにそれぞれ従属しているために、その把握内容について異なっており、従って証言ベースの信念の内容も異なっているということもありうる。
  • また、概念の個別化が聞き手の物理的環境に依存しているのも、彼女がエキスパートに従属している限りにおいてである。概念の個別化は、エキスパートの分節化とその語のパラダイム的適用との最大限の反省的均衡のプロセスの結果である。組成的に瓜二つの2人の聞き手が、把握内容において異なっており、従って証言ベースに形成される信念内容においても異なっているのは、その語がパラダイム的に適用される対象や性質が、2つの場合で異なるときに、その異なり方が、エキスパート自身の注意も超えたような仕方で異なっている事実によってである。

 

⇒以上から、パトナムによる「言語的分業」は、それじたい「認識的分業」の本質的要素であると結論できる。このような分業形態は、標準的な証言事例における認識的権威の形態としても浸透しているのだ。

  • 我々は、我々が世界について知っている事柄のために他人を信頼する必要がある。
  • だが、もしも我々が、我々に使用可能な知識の潜在的源泉からこのような仕方で知識を獲得できるのだとしたら、言語によって移送される内容を回復するための信頼可能な方法が必要である。
  • 伝達される内容を構成している諸概念の適用条件について我々がみな同等の知識を持っているわけではないので、我々は自身の言語共同体の内部で他人に信頼を置く必要がある。
  • このようにしてのみ、我々のレリバントなエキスパートへの意味論的従属として、信頼性は表明される。
  • こうして、我々の他人への認識的信頼は、他人への意味論的信頼を必要とするということになる。また、我々の認識駅信頼は、知識を「安上がりに」沢山か黒くすることの可能性であることを思えば、我々の認識的信頼は、そのような「安上がりな知識」の獲得が依存しているようなある種の意味論的従属を合理化するといえる。

 

 

5.

 本稿の中心的目的は、世界について我々が知っている事柄のための我々の他人への認識的信頼/依存が、パトナムやバージが指摘した意味論的依存とつながっていることを示すことにあった。この結合を示す私の試みが大胆なものであるのなら、その大胆さは、私がある認識的前提――証言的知識に浸透していて、しかし、完全把握の教義を主張するような意味論的テーゼに反対する前提、を使用した点にある。【つまり、この前提を使用することにかんしての正当化はこの論文中ではなされていない。】だが、この戦略は、より一般的な点を指摘するためのものだった。それはすなわち、この種の認識的考慮は、我々の語の意味と、我々の思考内容についてのアンチ個人主義を支持するために使用されたのだ。

 アンチ個人主義のためのこのような議論じたいがまた大胆なものであろう。標準的には、アンチ個人主義的見解は、心の哲学言語哲学において、発話の意味とか態度報告の意味にかんして、非標準的な理論化が可能であることとか知覚的表象化の客観性などによって支持されてきた。本稿は、アンチ個人主義は、知識伝達の条件に訴えて支持しうるものであることを示した。つまり、意味論的言語的分業の適切な説明(それは聞き手による情報源の言語行為の把握を説明する)が、聞き手が伝達された知識の断片を獲得するという非常にありふれた状況についての平凡な事実と合わさることによって、言語的意味、言語行為の内容、命題的態度についてのアンチ個人主義が帰結してしまうのだ。さらに、本稿での議論は、アンチ個人主義の態度にとってコアとなるものと見なされてきた現象、とくに不完全把握と意味論的依存、は、それじたい知識伝達の条件として、とくに我々の言語共同体の他の成員への認識的依存として、跡付けられることを明らかにしたといえる。

 上記の議論は、しかし、認識論的なものなのだろうかと疑問かもしれない。結局、この議論は把握についてのものであり、把握とは認識論的というよりは意味論的なものだ。しかし、このような反応は、私が本稿でなした議論のポイントを見失っている。把握という概念それじたい、少なくとも本稿での議論においては、徹頭徹尾認識論的なものなのである。いま言われている把握とは、認識論的に信頼可能な把握のことである。証言の把握は、示されている事実への結合について聞き手の知識による裏書きを前提しないで、信頼可能なものでなくてはいけない。あるいは、聞き手が規則的にそのような把握を割りつけるというテーゼはそれじたい、証言的知識の浸透にかんしての我々の直感によって支えられている。我々は自身の認知的生活のなかで、証言的知識をありふれた性質のものとして捉えている。だから、我々は、聞き手を、そのような知識を獲得することの条件、信頼可能な把握条件を含めて、を充たしたものとして見なさざるをえない。聞き手は規則的にこの条件を充たしているというテーゼは、証言的知識の浸透を主張する選好する認識的前提から推論される。世界について我々が知る事柄のために、我々が他人へと認識的依存することの浸透を考えれば、我々は意味論的にも他人に依存するしか選択肢はない。つまり、認識的依存が、意味論的依存を合理化するのだ。これは、心の哲学とか言語哲学におけるアンチ個人主義のモチベーションを、知識の証言的伝達についての考慮まで拡大させるべきであることを示している。