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Miller, Haddock& Pritchard2009のイントロダクション

完成度の低さよ・・。

***

Miller, Haddock & Pritchard

 

1. Value Problems

  • 認識論における「価値」の問題圏:

①知識の価値の問題:「知識は、たんなる真なる信念よりもいかに価値があるのか?」

②信念の評価(認識的評価)の基軸をめぐる問題:知識といえるか否か、正当化されているか、信頼できる方法・プロセスによって獲得された真なる信念であるか否か。

⇒従来は、「真理」を信念が目指すべき価値として設定することが多かった。

むろん、2つのテーマは関連しあっている。

 

 

 

  1. The MENO Problem

EX) あなたは、見知らぬ街を歩いているとする。礼拝堂はどこかとひとに尋ねると、この道をまっすぐ進めばよいと言われた。じつは、あなたはもともと、この道の先に礼拝堂があることを信じていたのだが、このとき、礼拝堂へ至る道のりについて、単なる真なる信念をもっていることと、それを知っていることとのあいだには、いかなる差異があるのか?

 

プラトン『メノン』における「Larissaへの道」のバリアント:

  • 偶然に真なる信念をもっていたことよりも、知っている(知識をもっている)ことのほうが、より価値があるように思えるが、その一方で・・・
  • このとき、あなたは、もし単に真である信念をもっているだけでも、礼拝堂へと行きつく。
  • だから実践的観点からみると、知っていることと、偶然に真である信念をもっていることとのあいだには差異はないようにも思える。
  • 知識は、実践的に妥当な評価基軸に基づいてのみ価値がある。(だから、礼拝堂に着けば、知っていても、単に真なる信念をもっていても、同じ。)

 

⇔知っていることは、実践的観点からのみ評価されるのではない。

「徳認識論virtue epistemology 」:

知ることは、その独自の目的に照らして価値がある。かつ、このときの目的は、実践的利益にかなうか否かとはひとまず独立である。

Timothy Williams[2000:78-80]

  • 『メノン』におけるソクラテスの立場、「もし我々が知っているのであれば、我々の信念はつなぎとめられている」を擁護。
  • 知識は、単なる真なる信念よりも、未来の証拠によって合理的に覆されることが少ない。
  • だとすると、何かを知っていることの実践的利益は、何かを単に真に信じていることよりも、潜在的に大きいといえる。pについての単なる真なる信念をもつ人物は、何かがpであるか否かについてつなぎとめられておらず、従って、pであることに基づく確信に満ちた行為への態度がとれないのである。

 

 

  1. A Related Value Problem and ‘Swamping’
  • ゲディア問題
  • 知識の価値についての問題はしばしば、知識についての伝統的なフレームワーク「正当化された真なる信念」をめぐって展開される。
  • ふつうに考えると、pを信じることを正当化されていることは、知識のための必要条件であるが、ゲディア事例(1963)以来、正当化されていることだけでは十分ではないことが判明した。知識主体は、正当化された真なる信念をもっているのだが、その信念が真であることは偶然であるという事例が想定可能であるからである。
  • こうして、認識論者の関心は、ゲディア事例をスクリーン・オフすることに注がれてきた。

 

  • ⇔ Prtichard[2007:86-7]
  • メノン問題(知識は単なる真なる信念以上のいかなる価値があるのか。)と第二問題を区別。

価値についての第二の問題(The secondary value problems

なぜ知識は、知識の諸部分の適切な部分集合のいずれかよりも、より価値があるのだろうか?

  • 第二問題は、伝統的知識条件分析のフレームワークの不備と拡張に動機づけられている。

⇒知識が単に真なる信念よりも価値があるのは、ひとが自身がそれを信じていることを正当化されていると知っており、かつ、信じていることが正当化されていることは単に真なる信念をもっていることよりもより良いからであるとされる。しかし、そうであるとしても、知っていることが、知識には足りないが正当化された真なる信念を持っていること(ゲディア事例)よりも、より良いのだということが確立されるわけではない。

 

  • Kvanvig[2003]の「スワンピング問題swamping problem」
  • 諸部分集合のどれよりも知識がより良いのだと示すことは、「スワンピング問題」に直面して失敗する。たとえば…
  • pを知ることは、pの真なる信念を含意するなんらかのより低次の状態(ゲディア事例のような場合)よりもより良いのだと示したい。そのために、誰かがpを知っているときには持っているが、より低次状態にあるときには持っていないような、pについての信念がもつ何らかの性質が存在することを示そうとする。
  • このとき、当該の性質は、真なる信念にパラスティックなものであるはずである。だとすると、そのような性質は、なんら第二問題を解決しない。なぜなら、
  • ひとがpについての真なる信念を持っているとき、彼の信念が当該の性質を持っているか否かは、何が価値あるものであるかという観点によって変わるから特定できない。?

⇒真理の価値は、提示された性質にアタッチされると考えられるどの価値にも、スワンプ(沈む)してしまう。

 

 

  • 徳認識論的観点から

Sosa[1991:2007], Riggs[2002], Zagzebski[2003], Greco[2003]

  • なんらかの妥当な目的への達成に向けた活動にとっては、幸運とか偶然による達成よりも、活動主体の能力の行使による達成のほうが価値があるはずだ。
  • 何が、より価値ある能力の行使としてカウントされうるのか?個々の主体の認識能力のキャパシティの問題が、知識の一般理論にとってどの程度効いてくるのか?

 

 

  1. Truth and Epistemic Appraisal

真理の探究にあたって、次のふたつのうちどちらがより問題であるのか。すなわち、我々は知識を獲得すべきであるのか、あるいは、我々の信念の正当化をめざすべきなのか。

 

  1. 重要なのは偽なることを信じることを避けることだ。我々は信じることを最小化しようとすることによって、そうしようとするかもしれない。このとき、真なることを信じるべきであることは、これに加えて重要ではないのだろうか?だが、もし、我々が全能ではなく、他に特段の理由がない限りは、何でも真であることを信じるべきであるということはあまり明らかなことではない。

⇒どの程度の要請が想定されるべきなのだろうか。我々に可能な認識的評価として、より控え目な要請とは、いかなるものとして定式化されるのがよいだろうか?

 

  1. 真理は、道具的に価値があるものとして捉えられるべきだろうか。それとも、その独自の目的に基づいて価値があるとされるべきだろうか。また、どちらにしても、真なる信念の価値は、その信念内容とは独立だろうか?真なる信念の価値、ないし知識項目の価値は、その内容に依存するという直観が根強く存在する。だが、もしそうであるとしたら、異なる内容とともにある真なる信念または知識には価値がなく、まさにあれやこれの内容とともにある真なる信念または知識が価値あるものであると決定するのは何によってなのか。これは、我々が探究に設定するゴールに基づいて決定されるのか、あるいは、他の何かによって決定されるのか。

 

  1. 我々の認識的達成は、究極的には真なる信念へ向けて遂行されているということは正しいのだろうか。真理のほかに認識的ゴールは存在するだろうか。Kvanvig[2003](in this ch4)は、理解understandingは、知識にはないある特殊な種類の認識的ゴールであると論じている。

 

  1. 第一部の内容

第一部には、「知識の価値」について直接的に論じた論文を集めてある。メノン問題は、信頼性主義や正当化理論の文脈で展開される。

 

  • ch1:Goldman&Olsson
  • 信頼性主義にスワンプ問題が適用されるとき、「もしある信念が真であるなら、その信念の価値は、信頼に足る仕方で獲得されたという事実からは生じてこない」という想定がなされているが、彼らは、この仮定が誤っていることを2つの路線で示そうとしている。

① 条件的確率解決the conditional probability solution

  • 信頼可能なプロセスによって生じた真なる信念を持っているというときに構成されている状態は、同様の種にたいする彼の未来の信念もまた真であろうことがよりありうるという性質を持っている、という直観に訴えることで、スワンプ議論を拒絶する。
  • 信頼可能プロセスによって生じた真なる信念は、同様のプロセスによって生じる次の信念が真であるという確率を高める。このときの確率の上昇は、他の条件が同じならば、信頼不可能プロセスによって生じた同様のタイプの信念が、信頼不可能なプロセスによって生じた同様のタイプの次の信念が真である確率を高めるよりも、より高度な上昇である。

*信頼性主義が、信頼可能なプロセスによる知識が、単に真なる信念よりも価値があると常に認めるわけではない可能性を示すことで、スワンプ問題を回避している。

 

②信頼可能プロセスの自律的価値

  • 信頼可能な信念形成プロセスに、産出物としての真なる信念の価値とは独立の自律的価値を認めるのはなぜかと説明することによってスワンプ問題を回避する。
  • ひとつのトークンプロセスに含まれる価値は、そのタイププロセスに含まれる価値を継承している。かつ、この価値は、トークンの個々の帰結の機能とは異なる。つまり、「多くの信頼可能なプロセスが、もともとは、単に真なる信念のアタッチメントに対しての道具的価値のみを認められているのだが、それらプロセスはのちに、独立の価値のステイタスにアップグレードされる。すなわち、真なる信念の帰結物の価値に加えて、その価値が正統に付加されるのである。」

*この付加される価値こそが、知識が単なる真なる信念よりも価値がある、とされるときの価値に他ならない。

 

  • ch2: Baehr

知識の価値についての問題など存在するのだろうか?

  • これら問題は、「知識は単なる真なる信念よりも価値がある」という直観に導かれて生じているものだが、このような直感を知識分析のツールに使用することは果たして正しいのだろうか?
  • Grecoによる知識の価値についての議論を検討する。

 

  • ch3:Kusch

コミュニタリアン形式の価値的認識論」のアウトラインによって、Kvanvigの知識の価値懐疑論に応答する。

  • 様々な認識的ステイタスを、社会的相互関係にある人間の行為とニーズの関係から理解する認識論。
  • Craig[1990]における、なぜ知識が我々にとって問題となるのかについての発生論的方法を採用して、知識とは何かを明らかにする。知識への価値の出発点は、「前知識主体Protoknowers」(pであるか否かについて直接的に正しいと思われる人物)への関心。では、なぜ、前知識の所有は、単なる真なる信念の所有よりも価値があるのだろうか?
  • Barnard Williams[2002]による発生論的物語から、証言制度は、本来的価値のネットワークによってつなぎとめられているときのみ集合的善である。⇒証言制度が、正確さ、誠実さのような本来的価値によって支持されている集合的善であるならば、その価値は、たんなる道具的価値ではなく、我々の社会的経験にとっての本来的価値であろう。⇒スワンプ問題の回避。
  • 証言の本来的価値は、人間のあいだの社会的な相互作用を通じて保持されるゆえ、彼ら自身の主体の帰属は、証言制度の価値の維持にとって鍵となる。

 

  • ch4: Kvanvig

知識とは別のものとしての、「理解understanding」という認識的価値の提示。

  • 「理解」:情報や観念の断片のあいだの論理的関係、蓋然性や説明の把握にかんする審級。科学的理論やイデオロギーなどが対象になることが多い。
  • ゲディア事例が「知識」ではないのに対して、「理解」はゲディア的なものを許容するのが特徴。つまり、幸運にも偶然得た真なる信念も許容するのが「理解」である。このとき、正しく質問に応じる能力が判断の鍵となる。
  • ただし、「知識」と「理解」との差異は価値認識論にとって決定的な問題であるものの、あまり明らかではない。「理解」を許容してしまうと、なぜ「知識」のほうが「理解」よりも、より価値があるのかは答え難い。

⇒DePaul=Grimm事例:

  • 「理解」は、なぜそうなったのかについて知ることに失敗している事例を認めてしまうことになる。

サッカーの試合で、アメリカが決勝点をいれたことについて、信頼できない情報ソースが偶然、正しい説明(敵のゴールキーパーが芝ですべって誤って相手チームの得点してしまった)を思いついた場合に、「なぜアメリカは決勝点を得たか」について「理解」していることになるのか?

⇔Kvanvigは、この事例の場合には、なぜ点が入ったかについて「知らない」ことになるから、「理解」しているとはいえない、と答えている。

  • だとすると、なぜ点が入ったのかを「知っている」のに(この場合、芝ですべったことは正しい説明ではあるので)「理解」はしていないという可能性を認めることになる。
  • この可能性を認めることは、「理解」概念を掘り崩すというよりは、「オヴジェクティヴな理解」というあり方が、「知識」とは別に存在することの傍証になるともいえるが・・・。

 

 

  • ch5:DePaul

「知識」は価値がない。

①醜い事例(アドホック事例、幸運事例、ゲリマンダー事例など)を許容してしまうような「知識」概念には価値があると思えない。

②我々の認知能力からして、求められている知識条件が、「なぜ」価値があるものなのかを、我々は認識できない。

  • 知識分析とは、何を明らかにするものなのか、について考えるべき。
  • 何かが適切な知識について分析であれば、それを充たすものに価値があることは当然であるように思えるが、しかし、なぜ「適切な知識分析」に日常的理解が従わなくてはいけないのかは定かではない。
  • もしも、日常的知識概念と、適切な知識分析とが一致しなくてよいのだとすると、なぜその知識条件に従うべきなのかが理解できなくなるし、知識分析は結局のところ、認識論的問題ではまったくないような知識の本質的価値についての形而上学的問題だということになる。

 

  • ch6:Jones

「知識」の価値について考えるには、まず「善さ」と信念について考えなくてはいけない。

  • 「信じている」という状態が価値ある状態であるという、その仕方にかかわる一般的善についての「独断的善」の想定が価値的認識論の出発点として想定されてきた。これらは、信念が我々に与える福祉や幸福と、信念に対応する説明力を含む。
  • だが、この独断的善は、信念形成を秘密裏にしか動機づけない。たとえば、病気の母親が今週末には危ないと理解していながら、治癒すると信じているときに、この独断的善が秘密裏に働いている。

⇒行為論における「動機」と「理由」の違いに注目。

  • 必要な理由は潜在的な動機である。Williams(1980)=McDowell(1995)ラインの議論にのりつつ、独断的善が信じることの理由を供給することを示そうとする。
  • 独断的善はしかし、「信じることの副産物」である。
  • 真なる信念のためにクレジットを獲得することは秘密裏の善を形成するのかについての我々の注意に注目して、知識の価値についての価値負荷的説明を試みる。

 

 

  • Ch7:Weiner

Howthorne(2004)の議論の検討からはじめる。

⇒「知識は実践的推論と結びついている。もしもあなたがpを知ってはいないときかつそのときのみ、あなたはpをあなたの実践的推論の前提として使用することを受け入れることが不可能である。」

⇒この前提は正しいだろうか?

例)5000ドルが当たる1ペニーのくじについて、あなたがくじを買ったなら、それは外れるだろうし、それゆえあなたは1ペニーを捨てることになる。だから、あなたはくじを買わないべきである、というラインの議論はクレイジーか。(もしもクレイジーであれば、先の前提はたしかに真実だろう。)

[*このとき、前提は知られていることではない(未来のことだし)ので、ホーソンによれば、実践的推論の前提としては受け入れられないことになる。だが、この推論は、いちおう、成り立っているようにも思える、というのがヴェイナーの論点なのだろう。]

 

  • ヴェイナーはうえの前提も、前提として受け入れ可能であると示唆している。既知のことがらのみが前提になるわけではない。
  • 実践的推論はある場合には、偽なる前提によることもあるし、なんらかの知られていない事柄が前提になることもある。たとえば、来年のいまころにアフリカ行きの資金がじゅうぶんでないだろうという前提(現時点で既知のことではない前提)も、推論の前提として受け入れ可能ではないだろうか。この前提を前提としてみとめないと、あなたはアフリカのガイドブックを買ったりガイドを雇ったりしてしまって、結局、認識的にも良い結果には至らないことにならないか。
  • とはいえ、これは実践的推論の拡張の問題、ないし何をもって実践的推論と呼ぶかの問題かもしれない。ある種の実践的推論にとってはやはり前提が真であるか否かは決定的な問題となる。そうでない場合、問題は、信念が正当化された仕方で形成されたかという点になる、というような。

 

Weiner:「知識はスイスアーミーナイフのようなもの。ひとつひとつのツールは、何らかの実践的文脈において価値があるが、他の文脈では価値がない。ひとつひとつのツールが便利に利用可能であることを超えた、スイスアーミーナイフであることについての価値などは何もない。」

  • pを知ることは、多様な条件を満たすようなpについての信念を持つことを含んでおり、各々の条件は、ある特定の実践的推論の文脈上で満足であることにおいて有価値なのであり、他の文脈においては有価値ではない。
  • 知識を持つことが有価値であるのは、その諸要素があれこれの環境課において有価値であるようになることを前もってひとは知らないからである。

 

 

  • ch8:Engel

認識的評価は、なんらかの実践的関心に依存した仕方でなされる。

⇒プラグマティックな拡張(pragmatic encroachment):

例)真なる信念の価値を、それが人間の欲求を満たすことのガイドとしての役割を果たす点にあることから説明しようとするアプローツ。(Horwich)

⇔Engel:しかし、このようなプラグマティックな説明は、新地の規範的性格を示しうるだろうか?真なる信念をもつことがプラグマティックに良いことであるという事実は、なぜ何かを、それが正しく、かる真であるゆえ正しいという理由で、信じることが望ましいことであるのかを説明しないだろう。

 

Fantl=McGrath[2002]議論:正当化についてのプラグマティック・エンクローチメント

2人の人物のうち、ある経験的命題について2人とも同一の証拠を所持しているにも関わらず、ひとりはその命題を信じることが正当化されており、もうひとりはされていないということがありうる。

⇔片方の人物にとっては、その命題を信じることについてのプラグマティックなコストが、もうひとりよりも高いという事実によって、2人の正当化における差異を主張する。

⇔Engel:この議論が示しているのは、2人目にとっては、当該命題を信じることが、一人目に比べてより重要である、ということのみ。(だから、正当化の差異ではない、ということ。)

 

Stanley[2005]:知識についてのプラグマティック・エンクローチメント

ある特定の命題がまるで真であるかのように行為することの合理性は、当該命題を知っていることにとっての必要条件である。

⇔Engel:この議論は、ある命題を知ることは、その命題が真であるかのように行為することが合理的であることのための必要条件であるという弱い主張にしかなっていない。(だから、知識についてまでプラグマティックに評価することの正当化にはなっていない。)

⇒認識的探究においてプラグマティックなファクタが役割を持つことじたいは否定しないが、その役割は限定されている。

⇒「プラグマティックな妥当性(relevance):知識はじっさい、実践的推論と行為にとって問題であるが、しかし、そのことを指摘することは、知識がプラグマティックな考察に依存するという主張よりも、はるかに弱い主張にすぎない。」

 

 

  • ch9:Riggs

我々がなぜ知識に関心をもつのか考察することは、いかに我々の認知的生活が我々の道徳的生活や英知的生活と相互浸透しているかを理解することの助けになる、という路線での価値負荷的認識論の土台に反論する。もしも、我々が幸運にも偶然真である信念について悪いものであるとするなら、我々はどうして知識を価値あるものとするのかについて理解できるようになるだろう。

  • もしも知識から幸運を除外するのなら、幸運はいかにして受容されるべきなのか。

Pritchard[2005]:幸運についてのSafety-based アカウント

あるイベントが幸運であるなら、その出来事は、妥当な初期条件が同一であるような近傍の可能世界の広いクラスにおいては起こらない。加えて、もしもあるイベントが行為者にとって有意義であるか、じっさいに有意義であるのは、その行為者がその妥当な事実を評価できるときである。

⇔Riggsどちらも幸運について必要条件ではない。

  • 反例:イベントないし環境の幸運な結びつきがあるが、その事例について顕著な性質は近傍の可能世界においても生じているような事例がある。
  • プリチャードの条件は十分条件とも結びつかない。

⇒幸運についてのコントロール欠如アカウント:

  • ひとは、そのハプニングを、行為者がなしたことであるような何かであると適切に考慮する程度には、ハプニングをコントロール可能である。したがって、行為者がなそうとしたことも、行為者の能力・スキル・パワーの生産物も、両方とも、コントロール下にあるといえる。
  • コントロール下にはないが、しかし幸運ではないような多くの事柄が存在するのだから、幸運のコントロール欠如アカウントは誤りであるという反論は有効かを検討する。

⇒あるイベントがある人物にとって幸運であるのは、その人物がなんらかの目的のためにそのイベントを成功裏に利用可能ではなかったときである。

 

 

6.第二部の内容

  • ch10.Lynch

なぜ真理が有価値かについて、2つの路線からの理解の仕方を提示する。

①「ひとがどのような命題について考えるかにもよるが、ひとが真であることを、かつ真であることのみを信じることは一見明白に善である」といういみにおいて、真理は探究の適切な終点である。

②「「p」を信じるのは、「p」が真であるとき、かつそのときのみ正しい」といういみで、真理は信念の規範(ノルム)である。

⇒このいずれかの仕方において真理の価値を理解しようとするときに、我々が採るべきメタ規範的スタンスとはいかなる種類のものであるべきだろうか?

  • 表現主義はダメ。様相論理的な正しさを応用して、表現主義は「どの信念が正しいかが非事実的問題であるのは、信念を正しいものとして記述することが、それについての事実ではなくて、感情や態度の表現であるということが真理であるとき、かつそのときのみである」と主張する。
  • 素朴な表現主義は単に自己論駁的であるが、洗練された表現主義は、価値についての実在論者が肯定するのと同じく、engagedな観点から、我々が評価のための言語を使用可能であるとする。
  • とすると、洗練された表現主義は、真理のデフレ説を採用することができ、Engagedな観点からすると、真理規範は真である。このとき、disengaged観点からは、真理規範はそれじたい真でも偽でもなく、我々の欲求や感情であるわけだが、ある評価機能についての表現主義の物語は語りうるということになる。
  • 様相論理的正しさが問題となる場合には、Disengagedスタンスを採らざるを得ない。その理由は、表現主義者はある命題が真であるという自然的事実に訴えて、なぜそれを信じることが正しいのかを説明するが、デフレ説を採っているのだから、真理が説明力を持つことを示すような真理の理論は欠如しているからである。
  • 真なる信念所持の価値についての表現主義はうまくいかないので、真理の価値に対する懐疑論的態度は、どちらの価値理解の路線を採ったとしても、避けられ得ない。

 

  • Ch11:Grimm

広いいみでの認識的評価に意味をもたせるにはどうしたらよいのか。

⇒Grimm目的論的アプローチ:真理は内在的認識的価値であり、なんらかの信念がこれを持っているときに肯定的な認識的ステイタスとされるのは真理の価値から説明される。

⇔問題点:真なる信念の内容と、内在的価値の付加の対応が不明瞭。いくつかの真なる信念のみが内在的価値を持つとすると、「内在的価値が欠落した、しかし尊重に値すべき信念を我々はどのように認識的に評価すべきなのかがわからない」。

 

⇒Sosa[2007]見解:人間の経験領域との関係で価値を考慮するアプローチ。

  • あるひとつの領域内部でのパフォーマンスは、その領域にとってファンダメンタルな価値によって評価される。
  • 領域内部でのパフォーマンスの評価は、そのファンダメンタルな価値についての領域超越的なコミットメントは含まない。
  • 「認識的」評価は、そのファンダメンタルな価値が「真理」であるような領域内部でなされる評価である。ただし、ここで、真理が絶対的な領域超越的な内在的価値を持つという見解にはコミットする必要はない。

⇔Grimm:Sosa見解では、正当化されない、または非合理な信念と判断されることが、認識主体にたいしてその信念内容を変更「すべきである」という拘束的ないみを含んでいることを説明できないのではないか。

  • もし「すべき」が領域内在的なのであれば、真理に方向づけられた展望が任意のものではないというアイデアを擁護できないではないか。
  • 共同的ないし社会的な真理概念が必要だろう。この概念は、すべての真理が特別な価値をもつということを含意するものでなくてはならない。
  • 鍵となるのは、すべてのトピックが、共同体を通じて人々が所有する様々な実践的関心を含みこむような価値をもっているという点である。我々自身にとってはそうでなくとも、他人の生活の内部で真理がその役割を果たすようないみでの、真理の中心的役割の点で、我々は真理を尊重しなくてはいけない