”testimonial~”同その2

  • 非還元的理由

*還元的理由においては、記憶的信念と証言的信念は同じ船のうえにあることをみた。どちらのケースでも、還元的理由による正当化は非還元的理由に寄生的であるからだ。

*ここからは、よい現在の非還元的理由に究極的に基づいて正当化されるのではない記憶的に正当化された信念は存在するのかについて考えてみる。もしも肯定的回答が得られるのなら、現在の理由にはまったく基づかずに正当化された記憶的に正当化された信念というものが存在しうることになる。つまり、(M2)で言及したような信念が存在することになる。

 

*現在の非還元的理由によって、記憶的に信念を正当化するとは、その理由を知覚、帰納、その他の推論的正当化に還元せずに正当化するということである。その仕方には2つの路線がある。整合的正当化と、基礎付け主義的理由である。(M2)は、整合主義による正当化も基礎付け主義による正当化も見逃しているような記憶によって正当化される信念の存在を示している。【だから、以下では整合主義によっても、基礎付け主義によっても、非還元的な理由による記憶的正当化が説明できないことを示す。】

  • 整合主義的究極的正当化
  • 記憶的信念のばあい
  • 整合主義者の究極的正当化を考えた場合、現在の他の信念との整合によって正当化されないような記憶的に正当化された信念の事例が指摘できる。整合による正当化は、信念pがなんらかの妥当な信念の集合と整合した関係を持つ、あるいは、妥当な諸信念の集合の内部の他の信念と整合した関係を持つことを要求する。整合による正当化という見解は、他の信念集合と整合しているあるひとつの信念の集合のなかのメンバーシップも要求する。
  • いま、孤立した指標を思い起こしたとする。私は5歳のときタコを採った、とか。この信念は私の現在の信念の集合と非常に弱くしか整合しないが、それでも正当化されうるかもしれない。また、この信念は、私が「タコ」というコトバを最近きいたこと、子供のころにシーフードを食べたこと、私の記憶は一般に信頼に足ること、私の記憶が私に5歳のときにタコを採ったことを教えたこと、などを私がたんに信じているだけであったとしても、正当化されてしまうだろう。
  • 私が5歳のときにタコを採ったという私の信念が、他の信念集合とのあいだにもつ整合性関係は、私の信念を正当化するには非常に弱すぎないだろうか。これは直感的な点であるが、現在の議論にとっては決定的な点である。
  • 正当性が正当化の十分条件でありうるのは、整合と正当化とのあいだの関係についての以下の原則が充たされているときであろう。

 

私の信念pが、整合といういみでの正当化を受けた妥当な信念集合とじゅうぶんに整合しているのなら、その場合に、私がpでないということを信じているとして、しかし、私は、私の記憶が私に教えることに適合するように諸信念の差異を調整することによってのみこの集合内部の諸信念を維持し、そのような諸信念から帰結する諸信念を信じることになる。そして、私は、pを信じることのための正当化を掘り崩すような集合の外側にはなんらの信念ももたず、私のpでないという信念は、集合との整合といういみでの正当化をうけた諸信念の調整後の集合とは十分に整合しないことになる。

 

  • 上の原則に基づいて、先ほどとは逆に、私は5歳のときにタコを採らなかったという命題を思い起こしたとしよう。この信念pのための特定の集合としての諸信念を私は持っており、記憶が私に教えたことを訂正する。私はまた、pを信じることのための正当化を切り崩すような集合の外側には何らの信念も持っておらず、私のpでないという信念は、私の信念pがオリジナルの妥当な信念集合と整合するのと同じくらいに、調整された信念集合と整合する。だから。私のpでないという信念は、整合としての正当化をとれば、この信念の正当化のために十分であるべきであろう。私の信念pがこの信念の正当化のために十分であるのだから。
  • ゆえに、整合原則は、私の信念pの整合はこの信念の正当化のためには十分ではないということを含意する。整合説は、直感に反して、私の信念pの正当化とは整合しないのである。この結論は、もしも現在の理由に限定したならば、記憶的に正当化された信念は、究極的には、それらの諸理由の整合といういみでの現在の諸理由の整合という基盤のもとでは究極的に正当化することはできないということをいみする。

 

  • 証言的正当化にかんしての整合説の検討

*私が所有している理由に基づいて正当化されるのであれば、なんらかの証言的に正当化された信念は、究極的には、諸理由の整合によって究極的に正当化されるということはない。なぜなら、

  • 私は、私の妥当な信念の集合とは非常に弱い整合しかないにもかかわらず、ニュージーランドにはカイガラムシがいるということを信じているかもしれない。証言者が成人であるとか、成人は一般的に真なることを語っているとか、ニュージーランドには海岸があるとか、私の証言者とコミュニケートした人物はニュージーランドを訪れたことがある、カイガラムシは海に生息する、とかいった一般的情報のほかには、私はこの信念についてなんらの妥当性も知らないにもかかわらず、私のこの証言的信念は正当化されうるかもしれない。
  • ニュージーランドにはカイガラムシがいるという私の信念と、他の諸信念とが妥当な整合関係にあるということは、私の証言的信念を正当化するには、非常に弱すぎる関係である。結局、証言的信念の場合であっても、整合関係が正当化を含意することはない。

 

  • 基礎付け主義的正当化ならどうか?

*私の記憶信念は、整合によって正当化されるのではないのなら、以下の現在あるいは未来の常態を基盤にして究極的に正当化できるだろうか?

①pということを思い出したと私が思っていること

②私がpということを思い出したという私の感情

③私はpということを信じるためにオリジナルにはよい理由をもっていたと私が信じていること

④pという私の記憶信念の強さ

⇒こたえは否である。記憶的に正当化された信念は、整合によって正当化される必要もなく、他のいかなる諸理由の基盤によって正当化される必要もない。(M2)を支持するためには、このことが主張できなくてはいけない。

  • たとえば、「あなたの家には寝室はいくつあるの?」と聞かれて「5つです」と答えるときに、思い出しているように思えるという状態を経験したり、私は思い出すという感情を経験したりしているわけではない。また私はpということを信じるためによい理由をもっているという記憶的または他の種類の信念を形成しているわけでもない。たしかに、私はpを思い起こしたということを私は自分で気づいているだろうけれども、私が私の信念pを基盤にしていることにたいしての心的な気づきの状況が存在するわけではない。
  • 私がpを思い起こすということを私が気付いていると語ることは、私はpを思い起こしたということを私は知っており、私はそうしたければ、この知識に容易にアクセスできるのだと語ることである。
  • 思い起こしについての心的状態とか感情はその思い起こされた信念を正当化しないし、そういった二階の信念は、私は思い出したかどうかということを考察しない限りは生じないものだ。
  • ①~③はメタ的な信念であり、pであるという信念じたいを究極的に基礎づけることで正当化するものではない。
  • では、④はどうだろうか?記憶的信念の強さは、記憶的信念と常にともには生じえないという反論は避けることができる。
  • 記憶的信念の強さは、時間の経過とともに、その信念の発端の瞬間ではなくて、その後の記憶的信念の強さによって基礎づけられる。基礎付けは時間的な因果的関係であり、始めに基礎づけられた瞬間以前に信念が基礎づけられて獲得されている必要がある。??
  • だとすれば、記憶的信念はその発端の瞬間以後に正当化されるだけということになるが、それはおかしい。もしも、私の信念がその強さによって正当化されているとしたら、ここでいる正当化の時間に先だってその強さが指示されていることになるからだ。???
  • つまりこういう状況であろう。私の信念はなんらかのものxに基づいて正当化されているのだが、それはxが獲得されておらず、私の信念が獲得されないときのみである。
  • すると、私の信念がその強さによって正当化されるとしたら、私の信念は時点tに先だって実際の強さを持っていないことになり、時点tにおいてもそれは獲得されないことになる。だが、私の信念がその発端以後になくなり、その記憶の発端における強さがじっさいにそうだった時とは異なるということは自然なことでもある。
  • だから、私の記憶的正当化信念が、その強さによって正当化されるという提案はよいものではない。よって、記憶的に正当化された信念は、整合的究極的正当化も基礎付け主義的究極的正当化にもあたらない。このような記憶的に正当化された信念は、なんらかの現在の理由によっては正当化されないのである。これがまさに(M2)主張である。

 

  • 証言的信念の基礎付け主義的正当化の検討

私が所有する非還元的理由のいくつかの候補がある。

・証言によってpを信じていると私が思っていること

・証言者がpを信じるよい理由を持っていると私が信じていること

・私の証言的信念pの強さ

・pという証言について理解していると私が思っていること

 

整合的には究極的に正当化されないすべての証言的信念は、上のどれかによって正当化されるだろうか?記憶との場合と同様に、答えは否定的なものだ。但し、4つ目については検討を次節に譲る。

  • 最初の2つについては、それらが常には証言的信念に伴わない。

(以下この節の終わりまで省略)

 

 

 

2.バージによる証言的エンタイトルメント

*(T1)のためのケースを想定するために、以下の正当化された信念のための自明な条件(G)を想定しておいた。

(G)私自身の正当化された信念はいかなるものであれ、私と適切に関連しているようなpと信じるためのよい理由の基盤に基づいて正当化される

            

  • (T1)が(G)に依存するのは、証言的正当化信念のケースに限られる。無制限の(G)についての擁護は本稿の課題ではない。だが、間個人的テーゼ(T)は(G)に依存しているのだから、証言的正当化信念に限ったばあいでの(G)措定については当然なんらかの仕方で擁護しておかねばなるまい。
  • 証言的正当化信念に限った(G)は、記憶的正当化信念に限った(G)と同様に支持される。

⇔だが、バージ(Burge1993;1997)によれば、証言的正当化に限定した(G)と(T1)とは両立しえないとされている。

 

(T1)私の信念pが証言によって正当化されるとき、私の信念pは、私が所有しているpを信じるよい理由に基づくのではなければ、証言者が所有しているpを信じるよい理由に基づいて正当化される。

 

*これに対して、バージは、私の信念は何らかのよい理由に基づかなくても、正当化されうるのだと主張している。このバージ見解は、(T1)と両立しない。

⇒制限された(G)と(T1)の擁護のためには、バージ見解を掘り崩さなくてはいけない。また、バージ見解を掘り崩すことは、証言的正当化の究極的基盤としての第4の候補()を掘り崩すことでもあるから、ここでの(G)と(T1)擁護は、(T2)にとってもレリバントなものである。

 

「問答interlocutionにおいては、…我々は、我々が理解していると思っていることへの暫定的主張を信じることについての、一般的でアプリオリないちおうの(ある程度までの)エンタイトルメントを持つ。」(Burge1997;21)

 

  • バージは、「エンタイトルメント」と「正当化」とを区別している。信念の「正当化」は、認識主体本人によって把握されていなくてはならないが、「エンタイトルメント」はその必要はない。
  • 但し、議論のために、本稿では、エンタイトルメントと正当化とをほぼ同じものと見なすことにする。【証言的正当化について、内在主義をとるか外在主義をとるかにかかわる結構大きな区分だと思うけど、いいの?】また、間個人的テーゼによれば、証言的正当化は、それがアプリオリであれアポステリオリであれ、証言者のpを信じることへの正当化によって所有されるものであるから、本稿では、証言的エンタイトルメントがアプリオリであるという主張は(誤っているとは思うが)主題としない。

*バージは以下のテーゼにコミットしていると考えられる。

(U)pが暫定的に主張され、私がpという暫定的主張を理解したと思っているのならば、私はいちおうpを信じる資格がある(pを信じることのエンタイトルメントを持つ)。

  • (U)の主張では、pと信じることへの私の証言的エンタイトルメントは、暫定的に主張されたpの存在と、私がこの暫定的主張を理解したと思っていることに帰される。
  • また、(U)は、暫定的に主張されたpの存在あるいはその主張について理解したと私が思っていることが、私の証言的信念がエンタイトルメントを持つかもしれないという基盤の地位をもつということであるとは、想定していない。

⇔(U)は、証言的正当化信念は、証言について信じていると私が思っていることに基づいて常に正当化されるという見解への反論と同じ仕方では反論できない。つまり、私の信念pは、私が証言についてpを信じているということを認識していなくとも、正当化されうるのだということを指摘することによって、(U)が掘り崩されることはない。

  • pと信じることを私にエンタイトルするものが、pについての暫定的主張を理解したと私が思っていることであるのであれば、このことは明らかに、私が証言ないし暫定的主張を摂取した結果としてpを理解したと認識しているということを必要としない。
  • だから、証言摂取の結果として私はpを理解しているのだと私が認識していることなしに、私の信念が証言によってエンタイトルメントされるという事実は、(U)の前件(pが暫定的に主張され、私がpについての暫定的主張を理解したと思っていること)を充たすことを妨げないのである。

 

*むしろ、(U)の反論のためには、pの暫定的主張が存在しており、その主張を理解したと私が思っていること、という条件は、証言的エンタイトルメントのためには、あまりにも薄すぎる基盤であるということを指摘したほうがよいだろう。

  • この反論は、直感的に受け入れやすいものであろう。pが暫定的に主張され、その主張を私が理解したと思っているという単なる事実は、pを信じることに対してのエンタイトルメントを与えるにはあまりにも不十分ではないか。(U)に反する事例を出さなくとも、これで十分に(U)への反論になる。
  • しかし、なぜバージは、誰かが語っていることを私が理解しているという単なる事実が、私にそれを信じることへのエンタイトルメントを与えるのだと考えたのだろう。その理由を考えていけば、(U)についてのバージの議論をつぶすことが可能だ。

 

*いま、記憶的エンタイトルメントと証言的エンタイトルメントとは、同舟であるとする。(U)の記憶バージョンは、直感的にもっともらしくないのだが、バージはいかにしてアナロジーに意味をもたせるのだろうか。

  • (U)の記憶バージョンに対してのバージの論証は、(U)への彼の論証よりも、後述する(b1)としてのほうがうまくいっている。
  • このことは、バージによる証言的エンタイトルメント見解と対立している本稿での(T1)擁護の議論のほうが、バージによる記憶的エンタイトルメント見解からの(M1)擁護の議論よりも強いものであることをいみしている。
  • この違いは、間個人的テーゼの条件付き擁護に現れている。以下では、証言ケースに絞ってみていく。

 

*バージによる(U)擁護議論はいくつかの解釈が可能だが、いま以下のように再構成しておく。

(a)pの提示が、真として理解可能な提示であると思えるのなら、それはいちおうの合理的源泉の提示である。

(b)pの提示がいちおうの合理的源泉であるのなら、それはいちおうの真理の源泉の提示である。(すなわち、真理である傾向が高い提示である。)

(c)pの提示がいちおうの真理の源泉の提示であるなら、私はpを信じることへのいちおうのエンタイトルメントを持っている。

結論:pの提示が真として理解可能であるように思えるのであれば、私はpを信じることへのいちおうのエンタイトルメントを持っている。

 

上の結論は、(U)の主張を同じである。pの提示が、真として理解可能と思われる提示であるのは、pが暫定的に主張され、その主張を私が理解したと思っているとき、かつそのときのみであるという想定のうえに(U)があるから。

  • 最も弱い前提は(b)であろう。バージが、前提bをどのように擁護しているのか、それが妥当なものであるのかをみていく。
  • バージによる前提bの擁護は、合理的源泉はveritisticなファンクション(それは、真なる命題を生み出す関数/機能である)を持っているということを根拠にするものだ。バージはこの根拠から以下のものを引き出す。

(b1)pという提示がいちおうの合理的源泉の提示であるなら、それは真理評決機能をもっているある源泉のいちおうの提示である。(つまり、pの提示は、真なる命題を生み出すいちおうの関数である。)

(b2)pという提示が真理評決機能を持つ源泉のいちおうの提示であるなら、それは真理の源泉のいちおうの提示である。

 

上の2つから前提bが導出される。そして、このようにしてバージは前提bを擁護していると思われる。しかし、真なる命題の産出という機能に訴えることは、2つの困難に直面する。

①(b1)は不明瞭である。

  • 確かに、合理的源泉が、真なる命題産出機能をもちうる、ないしもつことがあること自体は認めることができる。しかし、合理的源泉が、必然的に真なる命題産出機能をもっているわけではない。
  • 合理的な信念形成が、真なる信念の産出の機能を持っていることは明確である。だから、(b1)は記憶的信念の合理的源泉として受容された記憶にとっては、明確なものだ。
  • だが、バージが証言的エンタイトルメントのための前提bの支持のために必要としているものは、(それは前提cと、結論とも両立する仕方で支持されなくてはいけない)、うえの場合のような無害な主張ではなく、合理的対話は、真なる提示を産出する機能をもつという傾向についての主張である。合理的対話は真なる提示を産出する機能を持つという主張は、当然明らかではない。
  • 明らかなのは、合理的対話は、対話のゴールと福祉を活性化する機能を持つということである。(Faulkner2000は、この点についてバージに反して強調している。)提示における真理は、時折、その目的の手段である。だが、このことは、合理的対話が常に、真なる提示の産出機能を持つということを帰結しはしない。帰結するのは、ただ、提示における真理は、ときに、合理的対話の機能を充たす手段となりうるということのみだ。このことは、バージによる前提bの擁護論証を掘り崩す。そして、前提bそれじたいのおかしさも明るみに出す。

②(b2)は疑わしいdubious。

  • 合理的源泉が真理評決機能を持っているとしても、そのことから、合理的源泉が真理の源泉であることは帰結しないだろう。また、真理を提示する傾向がじっさいに高いということも帰結しない。
  • たしかに合理的源泉はこのての機能を持つかもしれないが、そのパフォーマンスはプアなものだろう。ある提示が、真理評決機能をもつ合理的源泉のいちおうの提示であるという事実から、なぜ、それが真理の源泉のいちおうの提示であることが帰結するといえるのだろうか。
  • 明らかに、バージは、ある源泉が真理評決機能を持っていると考えるいちおうの理由をもつなら、そのことは、その源泉がその機能を充たすと考えるいちおうの理由があると考えることを許容する、と想定しているのだろう。
  • 一般に、その機能を充たす機能を持っているものであると考えるいちおうの理由があって、真理評決機能をもつ合理的源泉のいちおうの提示がその機能を充たすことに失敗することへの理由をもたないのであれば、バージの想定を受け入れることができる。
  • だが、第一に、その機能を充たす一般的なものというものを考えるアプリオリないちおうの理由など我々は持っていない。その機能を一般的に充たすものなどない。人工物にかんしては、企図された機能を持つことが受け入れ可能であるが。
  • 時計や他の装置には、我々によって機能を割りつけることができる。だが、それら装置の多くは、我々がそれらに割りつけた機能を充たすことに失敗しうる。予期されない環境との相互作用による副作用とか、まずいデザインとかによって。
  • このことは、生物学的有機体にも当てはまる。