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ch4 メモ

10年前。。

***

 

【規範的‐反心理主義、規範的学科としての論理学、H2、H3】

  • 〈規範的‐実践的学科としての論理学は、理論的科学に基礎をもつ〉という主張への批判
  • 西南新カント学派(ヴィンデンヴァルト、リッケルトクローナー)
  • 論理学/心理学の境界を、価値/事実の対立と同一視していた。よって、フッサールによる規範的反心理主義批判をうけて、①is/ought二分法を、論理学/心理学境界としてじゅうぶんなものと認めるか、②価値/事実二分法が、である/べし二分法と異なることを説明するかしなくてはいけない。

Kroner1909:

  • 論理学の文のいみは、技術的な思考規則という役割に尽きないことは認めるが、論理学文がイデアルな抽象的存在についてのものであることには反対。
  • すべての規範的学科は、理論的科学に基づいているというフッサール見解を拒否。規範的法則は価値に基づいている。

⇔すべての「べし」文が非規範的な理論的文に基づいているわけではない。仮説的要請を表現するべし文のみが理論文に基づいている。だが、定言べし文はそうではない。

A)もしもあなたが馬にうまく乗りたいと望むなら、あなたは馬をコントロールできなくてはいけない。(仮説的べし文:Aは以下の非規範的理論的文Bに基づく。)

B)馬にうまくのることは、馬をコントロールできるときのみ可能である。

 

A´)戦士は勇敢であるべきである。(定言べし文:これは理論文B´に基づいていない。逆にB´の正当化と意味は、A´から導出される。)

B´)勇敢であることはよい戦士であるという概念の一部である。

 

論理学の場合も道徳と同様。ノルムA″はB″に対してプライマリである。このことはすべての論理学ノルムに共通。

  A〝)すべての推論者は真理であるものを考えるべきである。

B″)真理であることを考えるということは、よき推論者であるという概念の一部である。

 

【リアル/イデアルの区分、H4】

*リアルな法則と、イデアルな法則との区分への批判は、行為act‐内容contentの区分批判、「真理それ自体」への批判、H8とH9におけるフッサールによる「自明性」理解への批判としてあらわれている。

 

  • リアルな法則/イデアルな法則区分への一般的批判としては、Natorp1901、Michaltschew1909。
  • 1(心理学法則は曖昧であるので…)がpetitio principiiであるという点は、多くの論者によって指摘されている。
  • Schlick1910a:〈1の逆のパターンの論証も容易に構成できる。すべての心理学的法則が曖昧であるという主張によって、「絶対的」論理学を擁護しようというのは論点先取である〉と批判。シュリックは心理学法則は論理学法則ではないかもしれないが、しかし曖昧ではない、とする。「心理学法則が厳密でないのではない。心理学法則についての我々の知識が不十分なのである。」Schlick1918
  • Heymans1905:〈帰納的科学は、他の学科よりも早くに演繹的段階に進むのであるから、同じように帰納的心理学における法則的関係の探究も他の学科よりも早く演繹的段階へと進むのではないか。〉

 

  • 2(自然法則は帰納的確からしさしか得られないが、論理学法則はアプリオリに知られる)も、すべての自然法則が単なる確からしさしか得られないわけではないというラインと、論理法則はアプリオリに知られるのかどうか?というラインから批判された。
  • Schlick1910a:ここでもフッサールの自然法則見解は独断的であり、議論は論点先取であるとされる。
  • Moog1919:〈たしかに近似的な妥当性しか持たない自然法則(物理学や心理学)の法則もあるだろう。だが、重力法則などの妥当性はこれらとは異なるように思える。また、たしかに経験科学は帰納的方法を重視するが、演繹的方法を使用しないわけではなく、両者は補完的に使用される。〉〈フッサールは、自然法則のマテリアルな内容と、その意味・意義とを混同しているのではないか。たしかに自然法則は経験的世界に関係し、経験的に発見される。だが、自然法則にはアプリオリなコアが含まれており、たんに経験的なものとはいえない。〉

 

  • Heymans1905:〈論理学法則も確からしさしか得られないだろう。論理学法則についての我々の知識が心理学法則などよりも確からしいのは、たんに、我々が意識現象のあいだの基本的関係について日常的に経験しているからというだけである。〉
  • Jerusalem1905:〈我々は自然の一部であり、我々の心的生活や発達、心的生活の規制にかんしての法則は自然法則であろう。ゆえに論理学・数学の法則もまた自然法則であり、経験を通じて知られるものであろう。論理学法則は自然法則であるという見解はドグマとしてではなく、仮説的方法的規則として採用されるべきである。しかし、フッサールの「論理学法則はアプリオリに知られる」という前提はたんなるドグマ的措定である。〉
  • Nelson1908:人間の心についての心理学的研究のみが、基本的論理学法則が我々の経験の可能性の条件であるということを示しうるという点をフッサールは見落としている。
  • Sigwart1904:我々の自己意識についての心理学的分析のみが論理学的必然性の発見を導く。
  • Schuppe&Durr1906:〈アプリオリな知識と帰納的知識という区別だけではじゅうぶんではない。アプリオリに導出されるが、経験によって知られるような知識もある。たとえば、「塩辛い物体が存在する」ということはアプリオリに導出しうるが、経験によって知られることであり、かつこの知識は帰納的に得られたのではない。〉

 

  • 2(論理学法則は事実についての存在を含意しない)への批判
  • Schlick1910a:〈フッサールに反して、論理学文は判断の経験の存在を含意する。論理学文は心的経験の外部ではなくそのなかに位置づけられるものである。心理学的判断行為と論理学文とは相互干渉的で切り離せない。「イデアルな意味」としての判断の論理的構造は、リアルな判断経験からの抽象である。構造としての論理学文を理解するためには、心理学的性質が不可欠なのである。〉

 

  • フッサールによるイデアルな論理学法則と、人間心理学のリアルな法則との区分は強すぎる。
  • Geyser1916:〈じっさいの心の思考プロセスは、いかにして論理的法則と適合するのだろうか。あるいは、論理学は、思考プロセスについての因果的影響をいかに獲得するのだろうか。フッサールがこのような因果的影響を否定している以上、この点は説明のされようもない。〉
  • Palagyi1902:〈フッサール見解は結局相対主義にいきつくだろう。我々の思考がいかに真や偽やなんらかの内容にたどり着くのかは、イデアルな法則に支配されている。だが、イデアルな法則は、リアルな思考行為とはなんら関係がない。つまり、イデアル/リアル法則は随伴関係であって因果的関係はない。真理はしたがって、リアルには不可能である。〉〈フッサールは因果性の原理によって、この世界の事実は支配されているとするが、因果性法則はイデアルな法則である。要するに、イデアル/リアルの区分が混乱しているうえに、その架橋については何も述べられていない。だが、フッサール心理主義者ではないということは、この区別によって支えられているのであった。〉

 

【論理学法則の心理主義的解釈、H5】

  • 「スペンサーによるPNCの心理主義的解釈」とされるものへの批判。
  • Schlick1910a:〈フッサールのスペンサー理解が誤り。スペンサーはPNCを「いくつかの心的状態が他の心的状態によって直接的に壊されるという普遍的経験のたんなる一般化」だとしている。ここで、彼は、思考におけるこの原理の事実的効果を説明しようとしているわけではなく、たんに彼のPNC定式化へと至る仕方を説明しているだけである。フッサールは、「否定的様式は肯定的様式の排除なしには現われず、肯定的様式は否定的様式の排除なしにはあらわれない」をPNCの心理主義的解釈とし、かつこれはトートロジーであると非難している。だが、この直後でスペンサーは「否定的-肯定的存在のアンチテーゼは、じっさい、このひとつの経験の表現である。」と付け加えているのであり、彼の定式化はなんらトートロジーではない。〉

 

【論理学的法則の心理主義的解釈の誤謬、H7】

  • H7は直接的にはHeymans批判であった。H7は簡単にいうと以下のようなもの。

もしも三段論法が思考の心理学的法則であるなら、これら法則から逸脱する人間推論者はいない。

人間の推論者は誤謬にコミットする。彼らは三段論法の法則から逸脱している。

従って、三段論法の法則は、思考の心理学的法則ではない。

 

  • Heymans1905:誤謬が三段論法法則から逸脱しているという見解がおかしい。諸前提から誤った帰結を導出する推論者は、前提にあるタームの意味について混乱しているのであって、推論図式についての知識を欠いているのではない。法側からの逸脱の原因は、いわば思考プロセス以前の問題である。
  • Schultz1903:「誤謬が生じるさいにも、思考法則は脳内での力を失わない。誤謬は記憶や把握の誤りに帰せられるものであり、つまり諸前提の意味の取り違いの問題である。」

 

懐疑論相対主義、人類学主義、H8.1、H8.2】

  • H8はかんたんにいうと以下のようなもの。

懐疑主義相対主義は自己論駁的である

心理主義懐疑主義相対主義にいきつく

したがって、心理主義は自己論駁的である

 

  • 第一前提への批判:
  • Natorp1901:〈フッサールによる反懐疑主義相対主義の議論はpetitioをおかしている。彼は「懐疑主義という立場が定式化されるや、それはつまり自己論駁的であることを示している」と述べている。だが、これは少なくとも論理学が客観的なものであると理解しているものにとってのみだろう。だが、このことは相対主義者がまさに否定していることなのである。〉
  • Aschkenasy1909:〈異なる論理学による意識についての「明確な観念」を形成することはたしかに不可能である。それにもかかわらず、哲学者はこのような意識についての「概念」を形成を正当化しなくてはいけない。認識論は、たとえば超越論的対象とかいった(これは意識から独立しているのだから)明確な観念として実現しえない概念を操作しなくてはいけない。心的観念のなかの超越論的対象を表象しようとするのは、端的に矛盾であり、結局これらすべての内容は内在的な意識の概念の一部にすぎない。認識論的なものはこうしてすべて、客観的ではありえないのである。〉
  • 相対主義者は、「すべての事実はノルムによって正当化されるだろうが、このノルムじたいは決して正当化されえない」と言っているのであって、もし絶対的なノルムを主張したい場合には論証責任は絶対主義者のほうにあると答えることが可能。おそらくこの正当化は循環なしにはなされえないだろうから、すべての意識にとって無条件に前提されるようなノルムを相対主義者は受け入れる必要はない。〉
  • 〈上記のタイプの相対主義者は、異なる真理の存在は認めないが、異なる論理学の受容の可能性は認める。真理つまり実在は我々をそのように強いるものであるから、唯一のものである。だが、この強制は、異なる意識にとっては存在しないかもしれないという概念的可能性は措定できる。異なる意識にとっては、真理という概念は、我々の意識が措定するようには措定されないかもしれない。この見解によって、異なる真理が可能であると主張しているわけではない。我々が真理について語りうるのは、我々がこの概念的可能性を考えているいま否定している「我々の論理」を前提しているときのみであるので。〉
  • Schultz1903:〈フッサールは以下のようにいう。「もしも真理が相対的であり人間種に依存するものであったなら、誰ひとり人間が存在しないなら真理は存在しないことになる。だが、このときも、なんら真理が存在しないということは真である。だから、真理は相対的ではありえず、人間種に依存するものでもありえない。」要するに、「話者が誰一人いなければ、なにひとつ文もない。だが、なにひとつ文が存在しないとう文は、それでも存在するだろう。」というようなものか。これは議論といえるだろうか。〉

 

【真理の独立性、H8.3、H9.2】

  • フッサールによる心理主義批判の核は、「真理それ自体」つまり、真理は任意の理性主体による把握がなされるか否かとは独立に存在している、というテーゼである。シュリックはこれを「真理の独立説」と命名している。
  • 真理の独立説が登場するのは、ジグヴァルトの〈どんな判断も誰かによってじっさいに思考される以前には、真ではありえない〉という説を批判する文脈である。ここでフッサールは重力法則は、その発見や理解、定式化にかかわらず常に真であると述べている。
  • Sigwart1904:〈フッサールは、同時に真ではありえないような「矛盾した諸事実」について語るが、これは彼が「真理」と「実在」とを混同していることを示している。真や偽でありうるのは発話や意見のみであり、これらは必然的に発話主体を前提としている。独立した本性として「文」を措定することは間違いである。〉
  • 〈「たしかに、ニュートン以前にも惑星は重力の法則に従って運動していただろう。しかし、ニュートンが彼の理論を定式化する以前には、これら運動についての真なる文は人間知識の内部には存在していなかった。」ニュートンの定式化ののちに、この文は、その内容によって真となり、過去においてもこの文は真であったことになった。
  • Maier1914:真偽を「可能的真理」と「カテゴリー的真理」との2つのいみにわける。ニュートン以前は重力法則は可能的真理。ニュートン以後に判断がじっさいになされたあとはカテゴリー的真理。つまり、真理とは、「超越論的に与えられる事実」と、じっさいになされる判断との関係ということになる。
  • Schlick1910a:〈フッサールは「真理」と「実在」を混同している。真なる判断に基づいた事実のみが我々から独立といえる。真理の独立説の誤りは、観念とその対象との区別にかんする誤りに帰せられる。具体的な観念の場合には、対象としての本それじたいと、その本についての私の観念とははっきり区分できる。だが、抽象的な観念の場合、観念の内容と対象とは区別がうまくいかない。論理学文と、行為としての判断とは切り離せない。〉

 

  • 判断行為と判断内容の区別への批判も多くなされた。
  • Jerusalem1905:種相対主義擁護の文脈でフッサール主張「同一の判断内容が、ある種にとっては真、別の種にとっては偽ということはありえない」を批判。〈もしも2つの種が完全に異なる起源をもつ種であったら、両者のあいだで同一の判断内容は存在しないだろう。判断行為と判断内容は、相互浸透的な関係にあり、片方が変化すれば、もう片方も変化する。真理を人間知識にのみ限定することはなんら不合理ではない。何が不合理かではなく、異なる起源をもつ種ごとの判断内容の同定について語るべきである。〉〈真理の客観性は、イデアリティへの指示によってではなく間主観性によって担保されるべきものであろう。〉
  • Palagyi1902:〈「私は今考えている」と私は今考えている場合、後のほうの私は、私の思考していること(内容)を思考行為によって反省している。後のほうの私の思考行為の内容は私が思考していると思考している内容であるが、いったいこれはどのように抽象できるのだろうか?思考している人物と、その思考内容とがつねに区分できるという主張には無理があるだろう。〉
  • 〈時間的な行為としての判断と、その判断の意味とが区別されることは否定しないが、非時間的意味は時間的行為と結合しているのであり、行為が存在しないのなら非時間的意味の妥当性も成立しない。〉
  • フッサールは、すべてにわたって誤っている種が存在しうる、と述べるが、人間がこの種ではないことをいかにして示しうるのだろうか?「真理それ自体」という発想は、結局、相対主義懐疑主義・不可知論を導く。〉
  • Heim1902:〈フッサールは「イデアルな可能性」として「真理それ自体」を想定しているから、じっさいには真理それ自体には到達しないという可能性を許容していることになる。だが、この可能性は成立しない。何かが可能であるという主張は、この何かがすでに誰かの意識のなかにじっさいに存在するか、誰かの意識のなかでその何かが将来じっさいに存在するだろうと主張されるときにのみ論理的に意味をなす。じっさいには決して存在しないような可能性について語るのは無意味だ。〉

 

  • エルトマンは、著作Logische Elementarlehre第二版1907のなかでフッサールは自分を誤解しており、彼の理解と自説とはあまりにかけ離れているので議論のしようもないと述べている。だが、論理の仮説的必然性についての議論は、第二版で書き改められており、これは実質的にフッサールの「真理の独立説」批判として読める。
  • Erdmann1907:神学的配慮と合理的心理学批判とを結合して、種相対主義を擁護する。〈我々は合理的心理学が想定しているような、独立の変化しない実体としての魂の本質を直接に把握できるのであれば、我々の思考についての不変性を宣言できるだろう。だが、心理学は、思考プロセスについての観察による在庫とそれらの結合であるのだから、このような把握は不可能。したがって、我々は、現在のノルムとしての論理学が永続的なものであるとも言えないし、完全な心的表象の形式化にもたどり着けなければ、より高度な発展を経てより複雑ないまとは異なるノルムを打ち立てることも期待できない。〉

 

【自明性、H8.3、H9.3】

  • 自明性については、3で〈純粋論理学は自明性とその条件については何も述べない〉、〈自明性を真理の規準として使用すべきではない〉とされる。
  • また3では自明性の許容される「イデアルな」意味として〈イデアルないみであれ概念的ないみであれ、真理それじたいと対応づけられており、真理が自明性として経験されたようななんらかの可能的知的主体(人間、非人間問わず)の可能的判断〉が挙げられる。
  • フッサールの自明性についての見解は、上の2か所で矛盾しているとも言われているが、多くの論者は、自明性にかんして、それが形而上学的カテゴリーに属するものなのか、心理主義的なものなのかで、フッサール自身混乱していると批判している。
  • Wundt1910b:〈フッサールら論理主義者が自明性に訴えられず、自明性の明確な定義もなしえないのは、以下のような理由からであろう。論理学法則が自明であると宣言すると、論理法則の妥当性は自明性に基礎をもつことになる。これが循環でないためには、自明性がそれ以上定義できない究極的事実であることを説明しなくてはいけない。事実が存在するとされるのは、何らかの仕方で知覚に与えられるときのみであるから、論理主義者は直接知覚とか定義不能性を正当化と同等のものとして扱うことになろう。だが、直接知覚は心理学的プロセスであるので、直接知覚への訴えは心理主義にいきつく。〉
  • Kleinpeter1913:〈フッサールは以下のようなジレンマに陥っている。一方で彼は、すべての経験と心理学的考慮を拒絶し、他方では、彼のシステム全体を、自明性という論理学とは完全に無関係とされる心理学的事実のうえに打ち立てようとしている。フッサールこそわるいいみでの「心理主義者」ではないのか。〉
  • Schultz1903:〈フッサール心理主義者であってもかまわないが、自明性の感情に信頼をおくのは間違いだ。過去における自明性の感情について、我々は非常に頻繁に誤ったり疑いをもったりする。この問題は、「自明性の自然誌」として生物学、歴史学、心理学によって探究されるべきだろう。〉
  • Jerusalem1905:〈フッサールによると「真理とは、明確な判断において例証されたときにじっさいに経験になるような観念」であるとされる。この「真理という観念」は、人間にとってアクセス可能性がないもので、明確な判断のさいには存在するような、しかし判断やその条件とは独立に存在するようなものである。「真理という観念は明確な判断において与えられる。だが、この観念は、判断と事実とが対応していることが保証されなくては真理の観念ではない。それゆえ、明確な判断のさいに与えられる真理という観念は、客観的で絶対的妥当性をもつのだ。」というわけか。まるで完全なる存在としての神という概念から、神の存在を演繹したかのようだ。〉
  • Elsenhaus1906:〈心理学的自明性は、論理学・認識論の「究極的規準」であろう。フッサールはそれに反対しているが、では彼の「真理という観念」は心理学的自明性に置き換わりうるものといえるだろうか。自明性は、個々の思考存在に生起する心理学的プロセスとしての個別的経験として以外に理解できない。自明性がこのような「経験」であるとしたら、「真理という観念」の経験もやはり単一の個々人の個別的経験であるように思える。〉
  • Schlick1910a:〈3の箇所とH9.3の箇所で述べられた「自明性」概念は互いに矛盾している。H8.3において懐疑主義心理主義を攻撃するさいに信頼をおいた心理主義的自明性を、H9.3では捨てている。〉〈人間理性はいかにして真理を真理として理解するのだろう?自身の真理の独立説を擁護する文脈で、それは自明性という規準によってであるとフッサールは言う。だが、数ページあとになって彼は「自明性に信頼をおくことが許容されないとしたら、我々はどうしたらいいのか?」と問い、先ほどの自明性理論を投げ捨てるのである。明らかな矛盾である。ここで捨てられているのは、先の「自明性のリアルな理論」であることは間違いないから、「文」に関係した自明性のイデアルな可能性と、判断行為に関連したリアルな自明性についての彼の区別によって、この矛盾を救うことはできない。〉

 

【思考経済、H10 】

  • クラインペーターは、フッサールのマッハ理解が不十分であると述べた上で、フッサールの議論のドグマ的性格を非難している。
  • Kleinpeter1913:〈フッサールによれば「純粋論理学は思考経済に先立つもので、思考経済によって純粋論理学を基礎づけるのはばかげている」。思考経済がなぜ論理学法則の起源と妥当性を説明しないのかについて、彼は論理学法則のアプリオリな本性を持ちだして議論しているが、論理学法則がアプリオリであることは示されていない。これはドグマ的だ。我々心理主義者は、論理学法則は科学的思考の発達から帰結するものと信じているが、この想定はドグマではなく発見法としての方法論的規則である。まるでフッサールはこういっているかのようだ。「思考経済は結構なものだし、啓蒙的な原則だ。論理学にとって役立つし。でも論理学の正当化には使えない。なぜなら私の論理学バイブルに基づいたものではないからね。」〉

 

【批判の一般的傾向と代表的批判】

フッサールの定義・用語法の曖昧さは非常に頻繁に批判されている。

②「フッサールの路線の議論はすでにあったものであり、新しく学ぶべき点はない。」

  • たとえばナトルプによると、フッサールの純粋論理学は、新カント派の認識論のできそこないにすぎない。
  • その他、すでに自分がこのような心理主義批判を展開していたと述べる論者は多かった。

③「フッサールによる心理主義者のリストは不十分だ」

④ほとんどの批判者は、自身の立場(ないし自分が属する学派)は心理主義ではないことを示す必要にかられていた。

  • フッサールに名指しで批判されたもの⇒みな自身が心理主義者であることを否定している。
  • 名指しはされなかったが、心理主義と関連すると書かれたもの

フッサールの師にあたるブレンターノとブレンターノの弟子筋。彼らは『論研』以前にも心理主義と言われていたのだが、なぜかフッサールが攻撃していた相対主義心理主義と自分たちは無関係だということは強調したがった。

⇒新カント派は、フッサールの「超越論的哲学は心理学だ」という文言に激怒している。

⑤「フッサール自身が心理主義者ではないのか。」

  • ナトルプ、リッケルトら新カント派からの批判。
  • 他の路線からも、フッサール自身が心理主義者であるという批判は多くあった。
  • フッサールがどのような心理主義なのかについて統一見解はなかったが、おおむね以下のようなものに分かれる。
  • 自明性という心理学的概念に訴えた純粋論理学を基礎にした理論なので。
  • 論理学法則のイデアルな性質ゆえ。つまり、論理学についてのプラトニズムが心理主義であるということか。
  • 真理それじたいと、イデアルな法則についてのアクセス可能性が示されていないので、結局のところ懐疑主義相対主義だろう。だから心理主義的。この路線は、イデアル/リアルの区分についての批判に基づくことが多い。
  • 論理学の基礎研究のために「現象学」ないし「記述的心理学」を採用する以上、限りなく心理主義に近いと言わざるを得ない。

心理主義と断ぜられるさい、これに加えて「スコラ的」、「貴族的形而上学主義」、「神秘主義」、「ロジシズム」、「フォルマリズム」などとも非難されている。

  • Palagyi1902:〈論理学と認識論は、生理学的心理主義者による哲学への介入によって危険にさらされるだけではなく、現代数学におけるフォルマリスティックな(形式主義的)性格によっても危険に陥る。フッサールの現代数学へのシンパシーには、数学帝国主義(数学は他のどの学科よりもselfishでない。数学は論理学を完全に飲み込んでしまう。論理学は、数学によって解明されるのだろうし、最終的に論理学は心理学を放棄するだろう。)の危険性も感じる。〉
  • Wundt1910b:〈ロジシズムとは新たな帝国主義である。「心理主義は、論理学を心理学に転換しようとするが、論理主義は、心理学を論理学に転換しようとする。」だが、この2つの哲学的立場は容易に互いに混ざり合ってしまう。スコラ的哲学者は、論理学的概念に助けられながら心についての概念化を進めている現代心理学が発展を無視して、論理学と心理学とを切り離そうとしているが、これではどちらにしろ「排外的心理主義」に陥るだけだろう。〉

 

SPK的考察】

(*)フッサールは、ドイツにおける彼の同時代人たちによる心理主義を反駁したことで有名である

 

(*)が最強様相だとする。本章でみてきた状況では、まだこの様相に達していない。

  • フッサールの議論がオリジナルなものなのか、心理主義規定が妥当なものなのか、彼の非難は正当なのか、、、などの点について、多くの論争がある。
  • フッサール(本人)の議論⇒「心理主義についての論争の〈データ〉」
  • フッサール心理主義を反駁したのか否かをめぐる論争において、〈データ〉は、「解釈的にフレキシブル」な状態にある。つまり、この時点でのドイツの哲学者のあいだでは、フッサールの議論についての一致した同意は存在していない。異なる多くの論者が、フッサールの議論を異なった解釈でよんでいる。

 

*以下の章で、この論争がいかに終結したのかをみていこう。どのような「終結メカニズム」が働いて(*)は強様相を勝ち取ったのだろうか?

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