Kusch1995 ch3 メモ

はっくつできた。

 

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フレーゲの反心理主義テーゼ:Grundlagen der Arithmetik 1884】

  • 数学・論理学と心理学の区別にかんするテーゼ

 

F1:数学と論理学とは心理学の一部分ではない。またそれらの対象と法則は、心理学的な観察および心理学的法則によって定義、解明、説明されたり真であるとして証明されるものではない。

 

F2:数学はすべての科学のうちで最も厳密なexactものであるが、心理学は厳密ではなく曖昧なものである。したがって、数学が心理学によって基付けられうるとか、心理学の一部でありうるといった可能性を想定するなど信じがたいことである。

 

F3:数は対象であり、かつ、観念的idealな実体entityである。観念は、主観的、特異的、心理学的な実体である。

 

F4:アプリオリ/アポステリオリの区別、分析的/綜合的判断の区別は、判断のさいにあらわれる人間意識の様式の相違を指しているのではない。それらは、諸判断の正当化または証明のされ方の相違を指しているのである。

 

F5:観念という括りnotionは、主観的・心理学的観念のためにのみ使用されるべきであり、対象や概念conceptには使用されるべきではない。

 

 

 

  • 数学・論理学への心理学的考察の導入は、数学・論理学の進歩を妨げる。また、哲学の心理学的傾向のせいで、数学と哲学との協働はうまくいかない。
  • 心理学的プロセスの探究それじたいに意義がないわけではないが、その探究は算術的真理の正確さや厳密な正当化にはなんら寄与しない。判断の真なることと、判断が真であると考えられるか否かという問題とは無関係である。
  • 数についての観念と、数それじたいとは厳しく区別される。もし数が観念であるとしたら、数が歴史的に変化することを許容することになってしまうだろう。
  • 算術的真理は、事実の問題に訴えることなしに正当化できるので、分析的かつアプリオリである。
  • 「観念」とは、主観的な、心理学的連合法則によって支配されている個々人の意識やイメージのなかの感覚的な絵のようなイメージについて使用されるべきである。

 

  • ミル批判テーゼ

 

F6:数学的真理は経験的真理ではない。また、数は対象の集計の性質ではない。

 

 

  • 数の定義は事実の問題についての経験的主張ではない。数0とか777864などの定義によって物理的事実が指示されていると想定することは不可能である。計算をしている誰かは、なんら物理的知識を持っているのではない。
  • 数学的真理は帰納によって基礎づけられることもできない。すべての数学的文が従うような一般的帰納法則と呼べるものはないからである。
  • 数学を習得するために経験的知識が必要であることは確かであるが、このような経験的知識は数学的真理の正当化にはなにも寄与しない。
  • どのような集計も部分に分けることができ、この分けられたあとの性質もそれぞれ集計としての性質であるとすると、数0や1は説明できない。また、集計は様々な仕方で切り分けることができる。
  • 色などの性質の数をあつかうさいに、数は、それが可視的であろうが不可視であろうが、具体的であろうが抽象的であろうが、異なる様々なすべての種類の実体をじ述定しているということが見落とされている。

 

 

フレーゲの反心理主義テーゼ:Grundgesetze der Arithmetik 1893】

  • 真理を「真理とされていること」へと還元する心理学的論理学への批判

 

F7:「法則」という語は両義的である。何が真理なのか、何が問題であるのかを表現するさいに使用されることもあるし(記述的法則、法則d)、何がなされるべきなのか、何が問題となるべきなのかを表現するさいに使用されることもある(規範的prescriptive法則、法則p)

 

F8:すべての記述的法則は、それと対応するものとしての規範的法則として理解されるか再定式化されうる。つまり、すべての記述的法則は、規範的法則、すなわち「思考法則 law of thought/Denkgesetz」をうむ。

 

  • いかに考えるべきかを規定している限りでは、そのすべての法則pは「思考法則」と呼ばれうる。だが、唯一の種類の法則dしか「思考法則」とは言われない。この唯一の種が心理学的な法則dである。

 

F9:論理学的法則dは法則pとして、つまり「思考法則」として理解または再定式化されうる。じっさい、論理学的法則pは、なんらかの他の学領域の法則pより以上のタイトルに値する。なぜなら、論理学的法則pは、あらゆる思考を規定するものであるからである。つまり、論理学的法則pはトピック特殊的ではないのである。

 

  • ここで重要なのは、心理学的法則と論理学的法則との対立は、is/oughtの対立ではないという点。論理学的法則も原始的にはprimarily法則dであり、法則dから再定式化されたものである。

 

F10:心理学的論理学者は、「思考法則」を、心理学的法則dから導出した法則pとしてか、あるいは、心理学的法則dそれじたいであるとして扱う。どちらも誤りである。

 

  • 心理学的論理学者は、真正なる論理学的法則dが存在することを理解していない。彼らは人間の思考の一般化を述定した心理学的法則dを出発点にして、その心理学的法則dを、真正な心理学的法則dそのものとみなすか、あるいは心理学的法則pと論理学的法則pとが混同したものとみなす。この場合、「思考法則」を論理的法則pと、心理学的法則pdの両方のために使用しているため混乱を招く。
  • 心理学的法則pは思考の習性を評価、つまり真偽を判定するものではない。評価のためには思考習性とは独立した測度が必要である。だが、心理主義的論理学者によれば、論理学のためにレリバンスであるとみなされている法則dは、思考習性から導出された法則dでしかないため評価の測度となりえない。
  • 心理学的法則dは真であるとみなされていることの法則laws of taking-to-be-truthである。つまり、人間が判断が真であるとか推論が妥当であると受容する条件の記述である。どのような条件下で判断が真であるか、推論が妥当であるか、を決定するものではない。
  • 心理学的論理学者はしたがって真理と真理とみなされているものとを混同している。Erdmannは心理を個々人の判断の一般的同意と同一視している。だが、真理は、なにかが受容されるか否かにはまったく依存しておらず、したがって、真であるということの法則は、あらゆる心理学的法則から独立である。

 

F11:もしも論理学的法則が心理学的法則dかあるいは心理学的法則pであったら、論理学的法則は種、たとえば人間種を指標することになる。しかし、論理学的法則dは種を指標しない。

 

  • エルドマン見解(論理学的法則はたんなる「仮説的必然性」であり、思考法則の妥当性は現在知られている限りでの人間に関してのものに限定される)への反論。
  • ①たとえば非矛盾の法則といったようなものを持つ種に出会ったさいに、彼らを異なる論理をもった種であると想定するだろうか。我々はその種をすべてのメンバーが狂気であると想定するのではないか。
  • ②我々かあるいは別の種が正しいか否かといった問いを排除するようなあらゆる論理学の概念は誤りでなくてはいけない。心理学的論理学は、それが真理を真であるとみなされていることに還元するかぎりでは、この問いを除外している。
  • ③エルドマン見解だと真理概念が種や時間にたいして相対化してしまう。

 

F12:論理学は、なぜ我々が最も基本的な論理法則dを真理であるとみなすのか、という問いには答え得ない。

 

  • 論理学それ自体が、我々がなぜ論理学的法則dを受容しているのかを説明したり正当化したりすることはない。論理学的法則pは、論理学的法則dから導出され、多くの論理学的法則dはそれよりも基礎的な論理学的法則dから導出される。導出の連鎖の最基底までいきつくと、最も基本的な論理学的法則dにたどり着く。この論理法則によって構成されている我々の本性についての議論は、論理学的には正当化できず、心理学ないし生物学的な議論となる。

 

 

  • 非実在的領域と主観的領域との同一視(エルドマン)批判

 

F13:時間空間内部の実在的な対象と出来事によって、客観的対象のカテゴリーつまり非心理学的カテゴリーが使い果たされるという想定は悪い想定である。

 

  • 数は、客観的で心理学的実体。月が個々人の異なる主観によっていかに形成されるかとは独立であるように、数もいかに我々によって表象されるかとは独立である。

 

F14:数や概念が、対象の第三の領域の成員であることを否定すれば、非実在的実体は不可避に観念論、独我論を導く。

 

  • ①第三領域の否定は、概念を観念として扱うことを強いる。②だが、観念の両義性(個々人の主観的表現/個人の心とは独立の客観的表現)の問題があるため、概念と観念へと還元することは避けるべきである。③主観的領域と客観的領域との混同によって、心理学的論理学者は、客観的‐観念を、主観的‐心理学的領域へと溶かしこみ、実在的対象にも主観的な戦略を適用してしまう。すると、存在するものは観念のみである。これが主観的観念論ないし独我論である。④異なる主観ごとの観念の個体化は不可能であるので、伝達も帰属も不可能。このような状況化では「対立のレフェリー」としての論理学は必要なくなる。すべては、彼の真なる観念の正しい発話であるので。

 

F15:エルドマンの論理学は、心理学的論理学のジレンマを例証している。

 

  • エルドマンは第二領域と第三領域との区別をしていない。(幻覚による対象と数の両者を「観念的本性としての対象」としている。)
  • 観念とその内容との区別もない。(主観と判断の述定の両方を「観念」としている。)
  • 実在のカテゴリーを観念のカテゴリーとともに捨ててしまうのは、心理学的論理学者のわるい傾向であるが、それにも関わらずエルドマンは実在の把握について述べている。
  • エルドマンによれば、我々がなんらかの実在を述定するときには、そのような判断の主観は、観念によって存在させられていることとは独立の「超越論的」対象である、とされる。これは一見、実在論者の主張のようだがそうではない。
  • ①述定される実在についての上記の説明が、彼の判断についての一般的見解(主観も述定も常に観念である)と整合するかびみょう。
  • ②彼の「超越論」は観念論も独我論も救わない。彼の観点からは、超越論的対象も真正の至高善としての観念のもとに落ちるものであるから。
  • ③結局、無限後退である。エルドマンによれば、超越論的対象は観念を通じてのみ心に現れる。したがって与えられた超越論的対象I1は、さらなる観念I2によって心に現れなくてはいけないのだが、I2の超越論的対象は、I3を通じてのみアクセス可能である。

 

F16:主観的(心理学的)領域を回避し、これら困難を避ける唯一の策は、知るようになることを、知られる対象を創造するのではなく、知られる対象を把握graspする活動として理解することである。

 

  • 「把握」といわれるのは、我々が知るようになるものそれじたいは、我々からは独立であることを意味している。私が鉛筆(物理的対象)を把握するときには、この対象(鉛筆)は把握行為とも把握する行為者とも独立である。

 

  • 従って、フレーゲによる心理学主義批判は、心理学的論理学が以下の論理的区別をし損なっている点に向けられている。

・一階の概念(realityのような)と、二階の概念(existenceのような)

・概念の「特性feature/Merkmale」と、概念・対象の「性質property/Eigenschaften」

*『算術の基礎』によれば、対象の性質は、それら対象があてはまる概念の特性である。一階概念の性質は、それら一階概念があてはまるような二階概念の特性である。数や「存在」は二階の概念である。

 

フレーゲによるフッサールPhilosophie der Arithmetik批判(1894)】

  • フッサールの『算術の哲学』にたいしてのフレーゲによる書評は、まずフッサールの心理学的前提を同定し、つぎにそれら前提からの受け入れ難い帰結を示し、最後にこの帰結によってフッサールの数についての心理学的取扱いが影響されていることを示す、という構成になっている。

 

F17:フッサールの前提は、心理学的論理学者の前提である。

 

  • フッサールの立場では、語の意味、概念、対象はすべて異なる種類の観念である。概念‐観念は、対象‐観念よりも、不完全で非決定的である。
  • さらに、フッサールは、(より一般的な)概念の起源を、対象と(より一般的ではない)概念から心理学的に説明する。我々は自身の注意を対象‐観念と概念‐観念の何らかの性質に限定することによって一般的概念を獲得するとされる。

 

F18:フッサールの心理学的前提は、主観的/客観的の区別を消去してしまい、定義を不可能にし、同一性の理解を妨げる。

 

  • フッサールの「観念」はエルドマンと同じく主観的/客観的の両義的使用をされている。観念と、概念・対象とを混同すると、主観的/客観的の区分が消去されてしまう。主観的な、概念、対象としての観念と、客観的な、実在的ないし観念的な実体としての思考とは区別されなくてはいけない。
  • ②語の意味と観念との混同は、定義が循環するか偽であるという誤りを導く。いまW2によって語W1を定義しようとする。心理学的論理学者によればW1は観念I1であり、W2は観念I2である。だが、もしもI1=I2であれば、この定義は循環している。他方、もしもI1≠I2であれば、この定義は偽である。
  • となると、数概念などのキー概念については定義可能であることを否定したくなるだろうし、同一性や類似性についての理解もできなくなる。つまり、すべての概念は数的に区別されたものとみなされるほかない。
  • フレーゲによると、これを避けるには、A)少なくも、数学的な外延的定義は十分であるとするか、B)意味も意義もどちらも客観的で観念とは区別されるものであるとする、のいずれかである。
  • ③従って、フッサールによる、対象と概念の観念への還元は、異なるオーダーの概念間の区別を見落としており、概念の特性と性質とを無視している。

 

 

F19:フッサールの心理学的前提とそこからの受け入れ難い帰結とは、数概念の信じがたい分析にも反映されている。

 

  • フレーゲフッサールの数概念の起源についての心理学的説明批判のなかで、自説と対照させて議論することはせず、フッサールの理論の奇妙な点を指摘することのみをしている。
  • 例えば、我々はどんな任意の内容も、それらの関係づけることなしに、ひとつの観念に結合できるとか、2つの異なる内容から抽象を行っても、数的相違は残るといったフッサールの見解が否定される。
  • また、フッサールは数を多数性によって解明しようとするため、0や1が説明できない。そのため、0や1は「いくつ?」という問いへの「否定的解答」であると語るしかなくなるが、これは真正な答えではない。
  • 加えて、大きな数がいかにして観念であるのかも説明しがたい。数は人間の観念の一種であるとしても、人間の表象能力は有限であるからである。フッサールは、これを記号システムに依存するような「記号的観念」であるとしたが、これだと形式主義者と同じような立場になってしまう。

 

 

 

フッサールによる心理主義批判:『論理学研究』序説1990】

  • 『論理学研究』序説は、以下の3つの部分に分かれている。

①論理学は「実践的‐規範的学科Kunstlehre」であることを定義する。

②論理学的実践的‐規範的学科の理論的基礎は、心理学的でも生物学的なものでもない。

③実践的‐規範的学科としての論理学の真なる基礎は、「純粋論理学」にある。純粋論理学とは、新しいアプリオリで純粋な証明的科学である。

 

  • 実践的‐規範的学科としての論理学

 

H1:論理学が科学に関しての実践的‐規範的学科であるということの2つの主要な意味のひとつは以下のものである。それは、科学的正当化の方法を評価し、以下の3つのことをたずねる。A)いかなる経験的条件のもとで妥当な方法は成功的に施行されうるのか、B)科学はいかにして構築され、いかにして他のものと境界づけられるのか、C)いかにして科学者は誤りを犯すことを避けられるのか。

 

  • 科学者自身は、かれらのフィールドの究極的前提や方法を正当化することはできない§4ので、このすきまをうめるのは科学論(学問論)の役目である。科学論は一種の論理学である。
  • 学問論としての論理学は、正当化の方法にかんするトピック中立的な手続きのセット、つまり、推論規則のセットである§5-6,7。
  • 知識本体を科学的なものとするために、それによってなされる正当化は組織的に関係づけられる必要がある。したがって、科学論は、科学を、組織的な、関係付けられた正当化の構造化された統一体として探究することに他ならない。§10
  • このような論理学は規範的学科に属する。それは、科学のゴールと観念とを試金石にして、科学の方法を評価する。ゴールとは、真理への到達にほかならない。§11

 

H2:すべての規範的領域Dnは、それが属している非規範的な理論的文か、あるいは、いくつかの異なる非規範的理論的学科に基礎をもつ。これらの文のうちのいくつかは、(従っていくつかの個別科学は)Dnにとって本質的であるが、他のものは非本質的である。

 

  • 評価的態度(「よい」とか「わるい」とかの価値の述定)と、規範的判断(「AはBするべきである」などの形式の判断)との相互関係は以下の通り。
  • ①すべての規範的判断は評価的態度を前提としている。評価的態度は与えられた領域の実体を、よいものとわるいものとに分割する。「約束は守られるべきである」は規範的判断であるが、これは人間の行為をよいものとわるいものとに分割する道徳的態度を前提としている。約束を守ることはよいこと、破ることは悪いことである。§14
  • ②規範的判断は、価値的述定の所有のための必要(十分)条件である。「約束は守られるべきである」は、前提の良さのための必要条件を与える。§14
  • ③規範的学科は以下の4つの部分から構成される。1)対象領域、2)それら対象が良い/悪いと評価されることによる価値述定のペア、3)価値判断を基礎とする規範的判断のセット、4)単一の「基本的ノルム」。これは与えられた領域の対象が、最高の可能な程度の肯定的価値を述定の特性を所持するさいに要請されるような規範的文である。カントの定言命法のようなもの。§14
  • ④上記のように「規範的学科」を境界づけたうえで、「実践的」規範的学科を定義する。この場合には、基本的ノルムは一般的な実践的目的の実現を要請される。§15
  • ⑤規範的学科は、理論的文と理論的学科とに基礎づけられる。規範的文が与えられたとして・・§16

A) αはβすべきである

B)γは、述定「良い」(これは基本的ノルムによって定義されている)の構成的内容である。

このとき、A)へのアクセス可能性は、非規範的文C)の真なることに依存しているとされる。

C)βであるようなαのみがγに寄与する

従って、

A´)約束(=α)は守られる(=β)べきである

の正当化は、以下の基本的ノルムB´と非規範的文C´)に依存している。

B´)人間のあいだのさらなる信用の存在(=γ)は善である

C´)守られる(=β)約束(=α)は、人間のあいだのさらなる信用(=γ)を存在させる

  • ⑥規範的学科の理論的基礎の「本質的」と「非本質的」:本質的理論的基礎は、それなしでは非本質的理論的基礎は存在しえないようなものであるのにたいして、非本質的基礎は、規範的学科の領域を拡大するか、再区分・評価するだけである。§16

 

 

H3:心理学主義の代表(実践的‐規範的学科としての論理学の本質的基礎は心理学によって供給されるという見解の代表者)は、規範的反心理主義(論理学は規範的なものであり、心理学は記述的で理論的なものであるという見解)に対して自説を擁護することになんの困難ももたない。

 

  • ここでの議論は心理学主義者VS規範的反心理学主義者との対話の形式になっている。規範的反心理学者は、心理学と論理学とはis/ought区分によって分割されると主張する。規範的反心理学者の議論は、心理学主義に対抗するのに十分ではないことがわかる。§17
  • Psy:論理学の理論的基礎は心理学による。なぜなら、規範的論理学は、思考・判断・推論などの心理学的活動についての評価や規定を行うから。
  • ANT:いかに人間が事実として考えるかは因果的自然法則であるが、いかに人間が考えるべきかは論理学法則による§19。心理学が科学として可能なのは、論理規則が妥当なときのみであるから、心理学を基礎とした論理学は循環している§19。
  • Psy:そうすべき思考がなされるのは、事実として思考されたことのなかの特殊ケース。また論理学法則は因果的法則である。
  • 規範的反心理主義も循環している。なぜなら、基本的規範的論理学も純粋論理学を基礎としているのであるが、すべての科学が規範的論理学を基礎にしているとしたら、純粋論理学も規範的論理学を基礎にしているはずである。
  • また、規範的反心理主義にとって心理学は、それ自身の理論の前提ないし公理としての論理の法則であるか、あるいは心理学が対応しなくてはいけない単なる方法の規則としての論理法則であるかのいずれか。前者だと循環しているので、後者のよわい立場しか採れない。
  • 従って、この規範的反心理主義では、反心理主義のためにじゅうぶんではない。

 

 

H4:心理主義は3つの主要な経験主義の帰結をもつ。この3つはすべて反駁可能である。

H4.1:第一帰結:論理学法則が心理学法則に基礎づけられているとしたら、すべての論理学法則は心理学法則がそうであるように曖昧なものになる。反証:すべての論理学法則が曖昧であるわけではない。それゆえ、すべての論理学法則が心理学法則に基礎をもつわけではない。

 

H4.2:第二帰結:論理学法則が心理学法則であるとすると、それらはアプリオリに知られうるのではない。それらは妥当であるというのではなく、多かれ少なかれ確からしいものとされ、経験への指示によってのみ正当化されうる。反証:論理学法則はアプリオリであり、証明によって自明であることによって正当化される。また、確からしいのではなく、妥当である。したがって、論理学法則は心理学法則ではない。

 

  • 1は法則の厳密性について、4.2は法則の正当化の仕方についての相違に焦点をあてている§21。
  • フッサールによれば、自然法則は帰納的な、確からしさをもつ一般化であり、アポステリオリに知られうるものであるが、論理学法則は自明で妥当でありアプリオリに知られる。
  • また、論理学法則は、「正しい」(非合理な心理学的ファクタによる干渉を受けていない)人間思考の記述であるという見解もここで反対される。①この解釈だと論理学法則は因果法則になり、したがって確からしさしか得られない。②正しい/正しくないの境界線が心理学タームによっていかになされるかを示す必要がある。③2つの質的に異なる種類の思考を区別できなくなる。論理学法則のみで説明できる種類の思考と、論理学法則と干渉的非合理ファクタとの相互作用による説明が必要な種類の思考。§22
  • 心理主義者が無視していることとして、心的行為mental actsと論理法則それじたいの区別がある。論理法則が内容を形成している心的行為は、原因と結果をもつが、これらはその行為の内容、つまり論理法則には移行されない。心理主義者は、心的行為の性質がその作用の内容ないし対象に移行されるのだと誤って想定している。§22
  • また、ある実体内部の物理的プロセス・操作について記述した法則は、その特殊な物理的プロセス・操作を記述しているのであり、その実体それじたいの確証を含まない。つまり、計算機は数学的法則を確証するが、この確証は数学的にというよりは物理的になされなくてはいけない。(機能と実現基盤の関係のような話か。)同じように、論理法則は、人間が論理法則を確証するさいの心的プロセスの記述ではない。

 

H4.3:第三帰結:論理学法則が心理学法則であるならば、それらは心理学的実体を指示する。反証:論理学法則は心理学実体を指示しない。それゆえ、論理学法則は心理学法則ではない。

 

  • 論理学を心理学的に解釈するなら、心理学的実体へのコミットメントも含意するはずだが、モダス・ポネンスなどの論理法則はなんの存在論的コミットメントも含まない。自然法則はすべて事実問題の存在論を含意する。(もっとも、より抽象的なメカニズム法則、光学とか天文学など、直接的な存在措定を行わない自然法則の可能性も否定しない。)§23

 

  • 上記3つの反証を、次のヴァージョンの心理主義に当てはめてみる。これによると、我々は自身の個人的な心的経験を反省することによって法則に到達するので、論理学法則は心理学法則である。この反省の結果であるゆえ、法則は直接的で必然的に自明である。
  • ①これは推論からの帰結ではない。論理学法則が反省によって知られるとしても、そこから、これら法則が心理学的であるとか、我々の経験が心理学法則による因果的帰結であるとかいったことが帰結するわけではない。②このヴァージョンに限ったことではないが、心理主義は真理が永続的なものであることを見落としている。真理は永続的であるので、論理学法則はことの事態についてのものではない。⇒これを帰謬法で示す。

*)を論理学法則とする。

*)すべての真理αに対して、その矛盾対当¬αは真理ではない。

A)事態についての法則は、事態の経過、そのようになることについての法則である。

B)(*)は真である。

C)(*)は真理についての法則である。

D)真理についての法則は、事態についての法則である。

以下の2つの帰結が導かれる(パラドクス)

E)真理についての法則は、真理の経過、そのようになることについての法則である。

F)真理についての法則は、真理についての法則の経過、そのようになることについての法則である。§24

 

H5:論理学の心理学的解釈は、これらの原則をゆがめる。

 

  • 心理主義者によるPNC(相矛盾する命題は両者とも真ではありえない)の再定式化批判。
  • スペンサーによるPNC定式化:意識の肯定的様式の現れは、相関的な否定的様式の解明なしには現われえず、否定的様式は相関的な肯定的様式の解明なしには起こりえない。
  • スペンサーの上記見解はトートロジーである。肯定的/否定的様式はすでに矛盾対当の対であるので。しかし、PNCはトートロジーではない。§26

 

H6:すべての経験主義は懐疑主義であり、それゆえ不合理である。

 

  • 極extreme経験主義とヒュームの経験主義が検討される。
  • 極限経験主義によると、論理学的原則の直知が否定される。これは論理原則を正当化できないため相対主義を導く。この立場で、論理原則を正当化しようとすると、循環論証になるか、無限後退になる。また、この立場は論理原則を日常的な習性によって基礎づけるという選択肢もあるようにみえるが、この場合、習性は心理学的に理解されるが、心理学そのものには論理原則を使用するため、やはり循環を招く。
  • ヒューム経験主義によれば、論理学と数学がアプリオリであることは認められるが、事実判断が合理的に正当化されることは否定される。となると、事実判断は心理学的に正当化されるしかないが、するとヒュームの理論じたいも合理的には正当化されえず、ただ心理学的に説明されるだけである。§25-26

 

H7:三段論法の法則は、心理学的解釈を与えられ得ない。

 

  • ①三段論法が思考の心理学的法則であれば、我々は誤謬にコミットできない。だが、明らかに人間は誤謬にコミットすることがある。
  • ②心理学的解釈だと、なぜいくつかの推論が妥当で、いくつかは妥当でないのかを説明できない。Heymansの心理主義解釈(妥当な推論とは、人間が誤謬にコミットしないような「適切な心理学的条件」である)は、トリヴィアルであるか曖昧である。
  • 推論規則の真なる内容は、イデアルな非両立性によって表現されるべきである。たとえば、「すべてのmはxである」と「mであるpはない」という2つの文は、「いくつかのxはpではない」形式の文が真であるのでなければ、真ではない、というような。§31

 

H8:心理主義のすべてのヴァリアントは、相対主義を含意しているか、相対主義である。相対主義とはいわゆる人類学主義である。相対主義は不合理な教義である。

 

 

H8.1:プロタゴラス相対主義は非合理な教義である。

 

  • ①このテーゼ自体の正当性を主張すると自己論駁的になる。
  • ②PNCは真理の意味の一部であり、ひとつの同一の文がある人物にとっては真であり、他の人物にとっては偽であることはこれに反する。
  • ③「真理は相対的である」という判断は単なる相対的真理でしかありえない。
  • これらの議論はしかし、相対主義者を納得させるものではない。プロタゴラス相対主義者は「標準的ディスポジション」を欠いているので、反論にたいするレベルをもっていない。§31

 

H8.2:種相対主義(と人類学主義)は、非合理な教義である。

 

  • 真理が種ごとに異なるという見解にたいして6つの反論がなされる。
  • ①真理が種ごとに異なるならば、ひとつの判断が種ごとに真であったり偽であったりする。だが、これは真理の意味に反する。PNCは真理の意味のひとつである。
  • ②上の反論にたいして、異なる真理概念をもつ種の存在を挙げても相対主義は擁護できない。そのような種は、同一の概念をもっており、したがってPNCと結合した概念をもっているか、あるいは端的に異なる概念をもっており、したがってそれは「真理」とはまったく呼べないような概念をもっているかのいずれかである。
  • ③種相対主義を認めると、真理は時間空間にたいして相対的になるが、真理は永続的なものである。
  • ④存在しない種についての真理の可能性を許容することになる。つまり、ある種S1を構成し、S1にとって、S1が存在しないことが真であるという想定が成立するが、これは不合理。いったいこの判断を誰がしていることになるのか?
  • ⑤S1を構成し、S1にとってS1が存在することが真であるというのが、相対主義の前提であるから、「S1が存在する」という判断は、S1がS1が存在するという信念を生んだということの構成をもっているという理由によってのみ真ということになるが、これは不合理。
  • ⑥種相対主義を認めると、すべての事実的真理のイデアルなシステムの相関としてのこの世界、という世界像は覆される。唯一の世界という世界像は採れないし、もしもすべての種がひとつの世界についての信念をもつことをしなかったなら、世界は存在しないことになる。§36

 

H8.3:心理主義のすべての形式化は、相対主義的である。

 

  • ミル、べイン、ヴント、シグヴァルト、エルトマン、リップスらはすべて種相対主義者とみなされる§38。エルトマンとシグヴァルドについて詳細に検討される。
  • シグヴァルトのテーゼとそれに対しての5つの反論§39;
  • ①どの知的主体もこの判断を思考しなかったとしても、この判断は真でありうるという想定は虚偽である。批判:重力法則は誰にも思考されていなくとも、それが真であることは重力法則の意味の一部である。誰にも把握されていない真理も、純粋イデアの領域に残っている。これはイデアルな可能性の領域。
  • ②私があらゆる状況下で真をみなすことを確信しているときのみ、その判断は客観的に必然的に真である。批判:同一の種の個々人のあいだの事実的判断は、論理学法則のような客観的な必然的真理という理念性に達しない。
  • ③我々が知らない論理学的根拠、というのは、厳しく言うと矛盾した言い方である。批判:発見というタームについての日常的使用による矛盾である。日常的に、我々は公理の発見を、それに従属する数学的定理から発見するので。
  • ④すべての論理的必然性は、その本性がそのように考えるような存在が考えていることを前提している。また肯定的判断と証明による必然的判断とのあいだに本質的差異はない。したがって、意識に生じるすべての肯定はある意味では必然的なものだ。批判:主観的心理学的必然性と、証明による必然性とを混同している。証明的必然性は、我々の論理学的法則の把握における「構成そのもの」である。彼はまた、証明的必然的法則と、その相関物である証明的必然性的意識とを混同している。
  • ⑤ライプニツの「理性の真理と事実の真理」の区別は曖昧である。理性の真理が必然的なのは、その理性の真理が表現されたさいの語彙の理解があるときのみであるから。批判:心理学的必然性と論理学的必然性の混同。理性の真理を信じることの必然性は、理性の真理それじたいの必然性とは異なる。

 

  • エルトマン批判は、彼の「論理的法則は、これまで生きてきた人間種のメンバーにとってのみ必然的であるので、したがって仮説的必然性にすぎない」というテーゼへの批判である。エルトマンは、人間が他の論理学を考ええないのは、逆に種相対主義の証拠であると述べている。もしも人間の論理学が不変で他の代替可能性がなければ、これは絶対的なものとみなしてもよいが、このことは事実問題であるから、オープンな問題である。したがって、客観的真理はなんら確実なものではない。§40
  • フッサールによればエルトマンの議論の前提となるのは以下の2つ。

A)論理学が種に対して相対的であれば、人間は異なる論理学を受け入れることはできない。

B)人間は異なる論理学を受け入れられない。

従って、

C)論理学は人間種に相対的である。

⇒これは、後件肯定の誤謬推論。A)がB)を説明していることを示すべきである。

  • ②A)は端的に偽であるので受容できない。与えられた種のあるメンバーがこの種の構成している部分に属する思考法則を否定する可能性はある。
  • ③もしもエルトマンの言うように、論理学法則が、人間の思考についての自然法則であるのなら、それは経験的法則であり、実在の内容についてのものとなるが(存在論的コミットメントを含意するから)、これは誤り。
  • ④心理学的様相と論理学的様相とを混同している。

A)論理的法則は真ではないということは論理的に可能である

B)人間が論理的法則を否定することは心理学的に可能である

Aは自己論駁的だが、Bは自己論駁的ではない。エルトマンはBの可能性も否定するために、AとBの区別ごと無視している。

  • ⑤もしも論理学法則が実在的で自然的な心理学法則であるのなら、エルトマンに反して、オルタナティブ論理学が想像可能である。我々は常に、経験法則にたいしてはその代替可能性としてのものを想像可能であるのだから。
  • ⑥我々の思考はラジカルに変化するので、現在の論理学法則も妥当ではなくなることがあるとされる。だが、変化可能で例外をもつのは心理学的法則、経験的法則のみであり、論理学的法則は例外なく不変である。また、なぜエルトマンは、民族相対主義でなく種相対主義をとるのか説明しなくてはいけない。
  • ⑦人類学主義は、論理の唯一独自性の証拠が必然的自明であることによって自説を擁護することはできない。もしもここで、必然的自明性についての信念をすてると、それは単に絶対的懐疑主義でしかない。
  • ⑧真理を合意に還元するのは誤りである。真理の構成にあたって、我々は決してどの肯定が真理であるかは知ることができない。また、真理のコンセンサス理論は無限後退を招く。ある判断pが客観的真理なのは、pがすべてのひとにとって妥当であるときであるとされるが、このような普遍的合意のための問いはオーダーが一階上がっている。これを続けていくと無限後退に陥る。

 

H9:心理主義は3つの偏見に基礎をもっている。3つすべてが反証される。

H9.1:第一の偏見:心理学的出来事を規制する指令は、心理学的に基礎づけられていなくてはいけない。反証:この見解は以下の重要な区分を見落としている。A)いかにして知識を獲得するかについての規範をセッティングするために使用されうる法則、B)いかにして知識を獲得するかについての規範である法則。

  

  • A)はモダス・ポネンスのような法則。「pならばpである。⇒qである。したがってq」
  • B)は「pであると判断し、かつpならばqであると判断するものは誰でも、qであると判断しなくてはいけない/すべきである」のような法則。§41
  • どのような個別科学の理論文も、AとBのような法則が使用されるから、規範のセッティングに使用されるすべての理論的文が心理学の一部であるのではない。よって偏見1は反証される。
  • 論理学の本質は知識獲得の規制化であるという心理主義的固執は、Aのようなタイプの論理的法則の働きを見落としている。

 

  • 学科としての論理学と心理学との正しい関係とは、
  • 論理的実践的‐規範的学科の規則の唯一の部分集合が、心理主義的正当化を必要とする。この部分集合は、知識の生産と批判のための方法論的「人類学的」§43指令であるが、明確に人間の心の限界と源泉に基礎づけられている§41。この規則集合は、上のAとBの法則とはまた別のものである。
  • 論理学学科は一般的ノルムを探究するのであり、任意の個別科学の理論文からの規範的文の導出には関心を持たない。この一般性の獲得のために、論理学科は、任意の科学・理論のイデアルな可能性の条件についての理論文(法則)からそのノルムを導出してくる。これは言いかえれば、「純粋論理学」からそのノルムを導出してくることである。§42
  • 科学的探究には2つの観点がある。人間の特定の種の活動の探究と、理論的客観的内容すなわち組織的な相互関係的真理の探究とである。純粋論理学の仕事は、この内容の形式ないし形式的側面の研究である。純粋論理学によって達成されうるイデアルな法則はB法則に再定式化される。しかし、B法則は経験的法則なのではなく、イデアルな法則である。したがって、これは「人類学的」指令からは厳しく区分されなくてはいけない。⇒とすると、先に定式化しておいた規範的反心理主義は改訂される必要が生じる。
  • 以前のVerは自然法則と「標準的法則」(指令)との対立を強調しすぎていたことによって、自然法則とイデアルな法則というより根本的な対立を見落としていた。§43
  • また、以前のVerは心理学において「真」と「偽」の対立の余地はないと主張したが、真理は知識獲得プロセスにおいえ把握されるのであり、このプロセスは心理学によって洞察されるのであるから、先の主張は誤りである。§43
  • さいごに、心理主義は証明において循環すると述べたが、心理学的法則からの論理学的法則の導出には、これらの論理学的法則は前提としては使用されていないのだから、これは循環ではない。先に指摘したような循環は、「反省的循環」(心理学法則からの論理学法則の導出がそれら論理学法則を導出規則として使用している場合)と呼ぶべきものである。心理学法則は反省的循環をおかしているが、純粋論理学はおかしていない。
  • 純粋論理学のうちでは、導出規則として与えられた演繹の前提であるような文は、同一の当該演繹の内部では証明されえない。このような文は公理として措定されるのであり、証明はされない。

 

H9.2:第二の偏見:論理学は、観念・判断・推論・証明にかかわるものであり、これらすべては心理学的現象である。それゆえ、論理学は心理学に基礎をもたなくてはいけない。反証:もしもこれが真であれば、同一の推論によって数学も心理学になってしまう。だが、この見解はすでに反証されている。

 

  • ロッツェ路線の数学は論理学の一部であるというテーゼと、フッサールの数学は心理学の一部ではないというテーゼから、論理学は心理学の一部ではないというテーゼを引き出す。§45
  • 算術について考える。数えること、たすことなどが心的行為だとしても、数の純粋理論は心理学の一部ではない。数学的対象は、ある特定の種類の心的行為のなかに発見されるか「同定される/理念化される」。心理学はこの心的行為を研究し、算術は理念的種としての1,2,3などを研究する。算術の法則は、この真正の「数」のイデアルな本性に基礎をもつ。
  • 上記のラインは論理学にも適用できる。純粋論理学はすなわち、ある特定の心的行為のなかから理念化されたものとしてのクラスを研究する。学科としての論理学と心理学は、これらの心的経験のクラスを研究する。この区別は見落とされてきたが、心的経験の種としての判断と、イデアルな意味と文の統一としての判断とは区別されなくてはいけない。

 

H9.3:第三の偏見:ある判断が真であるとみなされるのは、ある経験がそれを自明とするときである。しかし自明性は心理学的現象である。それゆえ、論理学は、このような感情の生起についての心理学的条件について研究しなくてはいけない。つまり、この感情に先立つか共存する心的出来事の生起についての心理学的法則を発見しなくてはいけない。反証:純粋論理学の文は自明性とその条件については何も述べない。

 

  • 論理学法則と自明性との関係は、イデアルで間接的なものである。だが、学科としての論理学はこの心理学的条件を探究すべき。
  • 純粋論理学が自明性と関連するのは以下の2つの文が同値のときのみ。(むろん、同値ではない)

A)αは真である

B)αであるということが自明であるという誰かの判断は可能である

またBは心理学的文ではない。この可能性は論理的またはイデアルな可能性であるので。「誰か」は心理学的主体ではなく、「すべての可能的知性の集合のなかのなんらかの知性」ということ。§50

  • 「標準的状態下で、判断の真理が明らかであるという感情」という自明性理解はよくない。標準的状態がどんなことなのか明らかでないし、なぜ自明性の感情を信用すべきなのかがまず不明である。
  • 自明性についての理解を改訂する。①自明性は、真理の規準ではなく、真理の経験である。自明性は、経験になんの付加も加えない。②真理はイデアルな性質である。これは人間の自明性主張とは独立の性質である。③誰かがpは自明であると主張し、別の誰かが¬pは自明であると主張したとしても、そのどちらか一方が間違っている。真理は自明性に先立つ性質である。§51

 

H10:論理学や認識論への生物学的正当化は、心理学的正当化よりもよりよいということはない。

 

  • アヴェナリス、マッハ、コルネリウスらの生物学的路線、「思考経済」への反論。
  • 「有機体はその環境の効率性を採用すべく探究する」という基本的前提は健全である。経験の領域における効率性の探究は、科学においても当てはまるところがある。§53思考経済的戦略は、純粋に導出的方法論の役目として使用されるべきである。§54
  • だが、純粋論理学は思考経済によっては正当化されえない。人間にとってのサバイバルとか利便性とかいった価値に言及することによって、論理学法則が正当化されることはない。
  • 生物学的進化論的思潮に訴えることは、すでに論理的理念に訴えていることになるため、このような議論は「不当仮定の虚偽」である。合理性とか統一とかいった理念がすでに思考経済には前提されているから、思考経済によってそれらを説明することはできないのである。§56
  • 59-61ではフッサールが自身の先駆者とみなすものたち(カント、ヘルバルト、ロッツェ、ライプニツ、ランゲ、ボルツァーノ)についての詳述がなされている。

 

 

【純粋論理学のアウトライン】

  • 序説の最後は、「新しい論理学」としての「純粋論理学」の概説にあてられている。純粋論理学は、科学の可能性のイデアルな条件についての学である。

 

  • 科学は、客観的でイデアルな統一体であり、相関関係のシステムである。
  • 相関関係とは、イデアル/リアルなものmatter(事実)の関係であり、真理の関係でもある。
  • ものの事実(matter of facts)は真理と切り離しがたく相関している。すべてのものは、真正の「それじたいの存在being as such」のもとにあり、すべての真理は真正の「それじたいの真理」のもとにある。ものと真理は同一ではない。真理についての真理はものいついての真理ではないからである。§62

 

  • 「抽象的」科学と、「具体的」科学との区別
  • 抽象的科学:法則論的、説明的諸科学。組織的に完全な理論の統一をもつ。これら諸科学の法則は、ひとつの基本的法則のセットから導出可能になっている。
  • 具体的科学:存在論的、記述的科学。上記のような統一性を欠く。この種の科学の真理は「非本質的に」統一されている。それらが同一のもの(地学であれば、地球についてとか)に言及しているとか、基本的ノルムや価値において統一されているとか。§64

 

  • 純粋論理学の基本的問いは、経験の可能性のイデアルな条件の問いである。
  • 純粋論理学は科学の抽象的理論の可能性のイデアルな条件を探究するのだが、これら条件は、「主観的」ないみと「客観的」ないみとがある。§65
  • 主観的ないみでは、純粋論理学は、任意の知性にかんして、それが知識を獲得するさいにみたされなくてはいけない条件について研究する。§65
  • 客観的いみでは、純粋論理学は、理論的知識の可能性のイデアルな条件と同値である。つまり、「理論それじたい」の本質を探究する。§66
  • 純粋論理学の仕事は以下の3つである。

①理論内部の概念の明確化。対象、もの、単一性、多元性といった形式的抽象的概念、結合の要素的形式などを明確化する。§67

②これら概念に基づく法則の探究。これら概念から構成された理論的ユニットの客観的妥当性にかんしての法則。この探究は、推論の理論、多数の理論、数の理論などの探究も生む。§68

③理論形成の可能性を発展させる。このゴールは、理論という形式の種を同定することに等しい。§69

このようなプロジェクトは、数学における純粋多様体の理論における拡張のようなものと類比的である。§70

 

  • 数学と純粋論理学の関係
  • 推論についての科学的取扱いには、数学が最も適切である。哲学はこの仕事には適さない。ただし、数学者は理論本性についての洞察なしではたんなる技術者である。このような究極的洞察に達するのは哲学者である。§71
  • このようにして純粋論理学は、一般的経験科学における可能性のイデアルな条件へと拡張される。この研究は、確率についてのイデアを解明するだろう。§72

 

 

フレーゲフッサール対応表】

 

F1 ―――― H4‐9

F2 ―――― H4.1

F3 ―――― H9.2

F4 ―――― H4.2

F6 ―――― H9.2

F7 ―――― H2、H9.3

F8 ―――― H1、H3、H9.3

F9 ―――― H1、H3、H9.3

F10 ―――― H4、H4.3、H5、H7、H9

F11 ―――― H8

F13 ―――― H6、H9

F15 ―――― H8.3

 

  • F9とH1、H3、3の対応は、論理学法則が第一義的には記述的または一義的指令的であるかいなかにかかわる。フレーゲを規範的反心理主義者として解釈したばあいにはこの対応は見えなくなる。両者とも、論理学を記述的、指令的部分を分割するものとして捉えているが、記述的部分が第一義的であることは認めている。
  • 対応がない部分から、両者の違いがみえてくる。

①用語的差異:フッサールは、論理学・認識論を、心理学的に解釈する立場を「心理主義」とよんで、これを攻撃している。フレーゲは「心理主義的論理学」と「心理主義的論理学者」を攻撃しているのであって、「心理主義」も「心理主義者」も攻撃していない。

②両者とも心理主義を攻撃しているが、決定的議論を与えたと思っているのはフッサールだけである。フレーゲは自身の議論がノックアウト論証になっているとは思っていない。フレーゲは論理的論証は演繹によってのみなされうると確信していたので、相対主義的論理学(別の論理学)を提唱する論者にむけて、論理的論証は与えられないと考えたようである。

フレーゲ心理主義を観念論・独我論に還元したのにたいして、フッサール心理主義をラジカルな経験主義として攻撃した。

・これは現在のフレーゲ解釈においてホットな点である。ダメットは、フレーゲ実在論的傾向からこのようにしたのだと解釈し、Slugaはフレーゲ反自然主義的傾向が現れているとしている。だが、この方向性は用語にまどわされている。

フッサールフレーゲも、心理主義相対主義懐疑主義として読んでいるのである。心理主義は、第一領域と第三領域の否定を導くが、第一領域の否定が経験主義、加えて第三領域も否定すると観念論(独我論)になる。フッサールは、第一領域の否定に焦点をあてて経験主義として心理主義を攻撃したが、フレーゲはもう一歩すすんで心理主義を観念論として読んだ。ともあれ、両者とも、心理主義の帰結が相対主義懐疑論に行きつく点は同意していた。

 

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