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socializing metaphysicsのch1?が途中までメモしてあった。

Socializing Metaphysics: An Introduction(2006)

F.F.Schmitt

 

パラ(1)

Socialityの形而上学:ここ10年ほどで注目度が拡大

・社会関係、社会的実体、社会性、社会的ノルム、規約、規則、役割…などの本性とは?

・collectivitiesの本性とは?社会集団、アソシエーション、コーポレーション…

・知識の社会関係への依存性、集団的責任、集団の権利…

 

パラ(2)

社会性の形而上学における問いとは、

「いかに個々人が社会的関係や集団性をなすようになるのか?」

⇒keyQ:

社会的関係とは、個々人が関係しているような非社会的関係と性質以上の何らかのものなのだろうか?また、集団性とは、非社会的関係にあるような個々のメンバー以上の何らかのものなのだろうか?

・本書のいくつかの章は、以下の2つの立場のあいだの論争を扱っている。

  • Individualists:

社会的関係・集団性が、個々人の集まりとか非社会的関係の集まり以上のものであることを否定。

  • HolistないしCollectivists:

社会的関係・集団性は、個々人や非社会的関係の集まり以上の何らかのものである。

 

⇔論争の基盤;Wittgenstein、P.Winch(1990)が、以下の想定を疑問視したことにはじまる。

Assumption「我々は個々人としての人間を社会関係から独立に理解することが可能である」

思考する、行為する、言葉を話す、といったことをなすことにおいてすでに、人間は社会関係や集団性と結びついている、と考えると、上の想定は否定される。

・本書のなかの2つの章が、人間の行為や言語行為・思考は社会関係や集団性と独立に理解しうるのか、を考察している。

 

パラ(3)

上の論争は、以下の想定と結びつきがちである。

Assumption「我々が何らかの事柄を社会的であるかそうでないかを分類する仕方は、素朴なものであれ、大体においてうまくいってon trackいる」

・だが、社会構成主義者は、世界のいくつかの側面のうち、ナイーブには非社会的であると思われているもの、人種、ジェンダーなどは、社会的に構成されていると主張する。

→明らかに非社会的であるような世界のいったいどこまで社会性を拡張できるだろうか?

社会構成主義者のこれら現象についての説明は、自然主義的説明と両立するものなのだろうか?

・本書のなかの2つの章が社会構成主義の諸問題を扱っている。

 

パラ(4)

このイントロダクションは、社会性の形而上学にまつわる重要な問題の構造をレヴューすることが目的である。社会的関係および集団性は、個々人とその非社会的関係以上のものを世界に加えているのか否か。まずここから考えていこう。

 

 

ONTOLOGICAL INDIVIDUALISM

パラ(1)スーパーヴィーンによる定義:

以下のような意味で、社会的関係および集団性は、個々人とその非社会的性質によって決定されている、との主張はおおむね問題ないとする。

・社会的関係および集団性は、個々人の非社会的性質にスーパーヴィーンする。

・それはグローバルなスーパーヴィーン関係である。つまり、任意の2つの可能世界において、そこで個々人が同一の非社会的性質(とそれらの諸関係)を持っていた場合、2つの世界においては同一の個々人間の社会的関係と同一の集団性が展開exhibitするだろう。

・ここで、「非社会的性質」と言われているのは、個々人の物理的・生物的性質と、個々人の単称的な非集団的行為や態度のこと以上のものではない。

 

パラ(2)

存在論的個人主義

  • 諸個人と、その非社会的性質、そしてそれらの許容された構成物(admissible composities)のみが存在する。

・Xsの許容された構成物という概念は、ここでは、Xs以上の何らかのものという概念の反対概念である。諸個人の性質の連言、あるいは諸個人の集合ないしメレオロジカルサムが、ここでは許容された構成物として想定されている。

⇒*存在論的個人主義の2つのヴァージョン

  • reductive ontological individualism:

社会的関係ないし集団性(グループのような)は諸個々人と、その非社会的性質、それらの許容された構成物、と同一であるとする立場。

  • eliminative ontological individualism:

何らかの社会的関係ないし集団性が存在することじたいを否定する立場。

 

パラ(3)還元的存在論的個人主義

社会的関係は個々人の非社会的性質の許容された構成物である。

集団性は、個々人とその非社会的性質の許容された構成物である。

・非社会的性質には、伝統的な心理学主義的理論における個々人の動機、欲望、志向性などによって理解される性質が含まれる。

EX.)

・社会的関係のひとつである「友情」は、性質の連言である。ある特定の仕方において行為することと、彼の友人やその他の人物に対してある特定の思考を持っていることの傾向性の存在。

⇒存在論的個人主義によって主張されている同一性は、それ自体では、どのような条件下にあるものがグループであるのかについての説明を提供できていない。

 

パラ(4)集団性について考えてみる

ここで、社会的関係というよりも、集団性について考えてみる必要があるのではなかろうか。その理由としては、

  • すべてでないにしろ、多くの社会的関係は集団性を含んでいる。

・いまAとBが友人であれば、彼らは共同活動をする場合にペアつまり集団性の形式において活動することになる。Aが市長であることは、Aが市長であるような地方自治体が存在するということを含意しており、かつ地方自治体はひとつの集団性である。

・したがって、もしも集団性が個々人のメンバーと、その非社会的性質と、それらの許容された構成物以上の何らかのものであるのなら、社会的関係は非社会的関係と非社会的性質以上の何らかのものでなくてはいけない。

・言い換えると、もしも存在論的個人主義が社会的関係を支持するのであれば、それは集団性を支持することに他ならない。だとすると、社会関係についての存在論的個人主義は、集団性についての存在論的個人主義よりも妥当であるとはとても言えまい。

  • 上と同様の問題が、社会関係と、集団性についての個人主義において生じる。つまり、集団性についての問題は、社会的関係についての問題のあるところ、どこでも生じる。

 

パラ(5)

  • 集団性とは、人種、民族、宗教、階級といったような共通の性質をもつ諸個人のpopulationsではない。

・集団性と、たんなる諸個人の全住民とは、その行為のキャパシティによって区別される。この区別は問題含みである。

・というのも、あるレベルでの人間のふるまいの説明において、行為者性agencyは中心的役割を果たしている。理論的利害関心の多くの一般化は個々人としてのエージェントについて一般化を行う。集団性を扱う場合には、集団性のパラダイムとしての社会集団(social group)について述べた論者に従うことになろう。「社会集団」ということで意味しているのは、協働、連帯といった行為を可能にするような集団性のことである。

 

パラ(6)社会集団にとって存在論的個人主義は妥当だろうか?

・グループの存在論について論じている多くの論者は、グループを、そのメンバーを一緒に結びつけるような統一性をもつものとして考えている。(この想定にはさらなる以下のような想定が働いている。すなわち、この統一性が、グループのメンバーを単一のエンティティ、すなわちひとつのグループに結びつけている。)

⇒存在論的個人主義が直面する最も基本的な問題:

存在論的個人主義は、グループの統一性を把握しうるか否か?

←統一性についての個人主義者による説明は、グループの説明と同一である。つまり、グループはそのメンバーに他ならない。(Baxter2001.2002

→あるグループはひとりのメンバーも持たないかもしれない。ゆえに、個人主義者の説明は、ひとつのアイテム、つまりグループを、いくつかに分割可能な各アイテムと同一視しており整合的ではない。

←グループの各メンバーは、他の各メンバーと同一視される。(ただし、あるアイテムが他の区別される各アイテムと同一となりうるということは、不可識別者同一性原理と衝突する。)

 

パラ(7)グループを複数性を指示するものと解釈する誤り。

・もうひとつの策としては、「グループ」the groupをそのメンバーの複数性を指示するものとして解する道がある。

例)文「ラッセルとホワイトヘッドは『プリンキピア・マテマティカ』を書いた」の「らラッセルとホワイトヘッド」という語は、この語のうちのラッセル部分がラッセルを、ホワイトヘッド部分がホワイトヘッドを指示している、という訳でもないし、ひとつのラッセルとホワイトヘッドというエンティティを指示しているのでもない。「ラッセルとホワイトヘッド」は2人の個人ラッセルとホワイトヘッドを、2人の個人として指示している。つまり、ラッセルとホワイトヘッドを複数性として指示している。/「貿易ユニオン」は、そのメンバーを複数性として指示しており、ひとつのエンティティを指示しているのではない。

→この路線だと、グループをメンバー各個人と同一視するということを回避できる。

 

パラ(8)グループの統一性の問題はどうなる?

・複数性戦略は、グループの統一性について何の説明も与えない。

・また、「the group」の指示(複数性理解での)はグループそれ自体ではありえない。「そのグループ」の私の使用法がメタ言語上で複数性として理解されていたとしても。なぜなら、異なるグループが同一のメンバーを持ちうるので。

例)「図書委員会」と「食物委員会」のメンバーがまったく同一であった場合、複数性指示説によると2つは同一のグループということになってしまう。

・これは、複数性説が、じっさいには「グループ」という語によってグループを指示していないことによる。この欠陥から複数性説を救う策はおそらくないため、この立場は端的に誤りであるように思われる。

 

パラ(9)セットセオリー見解(グループはそのメンバーの集合と同一視される)の問題点

・異なるグループが同一のメンバーをもちうるが、集合はそのメンバーによって個別化されるため、同一のメンバーをもつ集合は同一の集合である。

・グループは活動をするが、集合は抽象的な実体であり因果的に非活性であるゆえ活動しない。

・グループは、そのメンバーの集合とは異なる反事実的存在条件をもつ。個々人の集合は、個人が存在するときのみ存在するが、グループはメンバーが存在しなくても存在する。

・グループはいま現にメンバーであるものとは異なるメンバーをもちうるが、メンバーの集合は集合がいま現にもつメンバーと異なるメンバーはもちえない。

 

パラ(10)メレオロジカル見解(グループはそのメンバーのメレオロジカルサムである)の問題点

*個々人の全員のメレオロジカルサムとは、メンバー全員のすべての部分と、それら部分のすべてのメレオロジカルサムをもつようなひとつのアイテムである。

・異なるグループは同一のメンバーをもちうるが、同一の個々人のメレオロジカルサムは同一である。個人AとBのメレオロジカルサムは、AがCと同一で、BがDと同一であるときには、CとDのメレオロジカルサムと同一である。

・グループはメンバーの総入れ替えが可能であるが、メレオロジカルサムは少なくともいくつかのメンバー部分は持たなくてはいけない。

・グループはグループである必要があるが、メレオロジカルサムはそうである必要がない。もし現実世界においてそのグループのメンバーであるような個々人が存在するとき、これら個々人はグループを形成していなくても、それらのメレオロジカルサムは存在する。

 

パラ(11)メレオロジカルサムの問題点(Ruben1985)

もしAが貿易ユニオンのメンバーであれば、メレオロジカル見解によれば、Aは貿易ユニオンの一部分である。なぜなら貿易ユニオンはそのメンバーのメレオロジカルサムであるので。だが、貿易ユニオンは、その起源からすると、貿易ユニオンコングレスのメンバーである。したがって、メレオロジカル見解によると、貿易ユニオンは、貿易ユニオンコングレスの一部分である、だが、関係の「部分」は推移的である。よって、ここから、以下のことが成り立つ。Aは貿易ユニオンコングレスの部分である。だが、これはおかしい。Aは貿易ユニオンコングレスのメンバーではないからだ。

⇔メレオロジカル見解を採る場合には、したがって、関係の推移性を否定するか、Aが貿易ユニオンコングレスのメンバーであるという反直観的見解を受け入れるかのいずれかを認めなくてはいけない。

 

パラ(12)Structuralist見解(グループは、個々のメンバーが構成している構造のひとつの例証である。)

・たとえば、あるグループは個人が果たす役割についての機能的構造であるとされる。→だが、この立場においてもグループが活動するということを説明できない。(構造に還元する場合には個々人に還元しようとする立場よりも、この問題の処理が難しい)

・構造の例証は、しかし、個々人からの許容される構成物であるといえるだろうか。構造主義は、還元的存在論的個人主義の範疇を超えている立場であるように思える。

・(心の哲学における機能主義は、非物理的還元主義と考えられている。たしかに心の哲学の機能主義は、物理的・神経生理学的に理解されたものに何かを加えたものが心であるとは主張しないが、心がなんらかの物理的性質・物理的アイテムより以上の性質を持っている特殊な構成物であることは主張する。)

 

パラ(13)消去的存在論的個人主義(グループが存在することを否定する)

還元の見込みが薄いことは、存在論的個人主義者をラジカルな方向に走らせる。(心の哲学と同じだ)

・存在するのは、諸個々人と、その非社会的性質と、それらの許容される構成のみ。

・この立場をとると、グループについてのわれわれの因果的語りが文字通り真であるという見解は捨てなくてはいけない。「貿易ユニオンは1900年から1910年に存在した」とかいった文は、真偽値をもちうる因果的主張ではなくなる。

  • 個々人にコミットする以上のなんらかのコミットの対象としてのグループの存在は妥当か?
  • もしも我々が集合性の概念について説明・予測能力を拡張させるのであれば、それらについての語りは文字通り真でなくてはいけないのか?

*筆者(Schmitt)は、消去的存在論的個人主義者である。したがって、本書において、上の2つの問のどちらについても否定的見解を展開するだろう。

 

パラ(14)

*筆者の考えでは、消去的存在論的個人主義は、「グループ」を推定的指示タームとして扱い、このタームが何らかのものを指示しているのに成功しているということを否定する立場である。

・複数性解釈は、「グループ」は推定的指示タームで、かつ、なんらかの単一の実体を指示しているのではないが、個々人の複数性を指示しているがゆえに、指示に成功しているという立場。

*非指示的消去的存在論的個人主義という路線もある。この立場は、「グループ」が推定的指示タームであることも否定する。おそらくこの立場は、グループの性質やそれについての語りは、そのメンバーについてのそれらに分析されるという立場(概念的個人主義)と親和的。非指示的消去主義は、複数性説についてのグループについての語りにかんする問題点には免疫があると思われる。

 

 

Conceptual Individualism

パラ(1)概念的個人主義

*グループについての語りは、個々人や、その非社会的性質、それらからの許容構成についての語りとして分析される。概念的個人主義は、存在論的個人主義のすべてのヴァージョンと整合的である。つまり、概念的個人主義は、存在論的個人主義を含意している。

・グループについての語りが、諸個々人と構成物の語りとして分析されるのであれば、グループは(もしそれが存在するのであれば)諸個々人と構成物である。ただし、逆は成り立たない。存在論的個人主義は、グループについての語りが個々人についての語りではなかったとしても真でありうる。

・概念的個人主義は、「グループ」という語が推定的に指示するか否か、指示が成功しているか否か、単一なものを指示しているのか複数性を指示しているのか、という問いとは独立。これらの問いのどのような答えとも両立する。

 

パラ(2)概念的個人主義は妥当な立場か?共同行為を考える。

Seumas Miller2001:共同行為は、特定の種類の共通の目的(集団的目的)下において、独立のパーソン間の諸行為によって構成される。

「Aの個人的行為xとBの個人的行為yが共同行為を構成するのは以下のときのみである。;xがyに依存しており、yがxに依存している;AとBは各行為の遂行にとっての共通の目的をもつ;この目的は片方の行為なしでもう一方の行為のみでは実現されない。」

・上で述べている依存/独立関係とは、反事実的依存/独立である。Aが行為しなかったら、Bも行為しない。逆もしかり。

・この説明だと、個々人の独立の行為がそれぞれ同じ目的のためのものであれば、xとyは共同行為を構成することになる。AとBはxとyが共同行為を構成していることに意識的でなくてもよい。

 

パラ(3)

・だが、いつ共同行為が開始されるのか?

・何が、行為の結合を構成しているのか。とくに、結合行為のために許容される条件あるいは反事実的存在条件とは何か。

・共同行為は時間を通じて変化しないのか。現実には変化するが、それをいかに説明するか。

・どのような行為者の行為が結合行為に参加しているとされるのか。

 

パラ(4)

結合行為に参加しているのはどの個々人か?

・10人の人間と一緒に歩いているとする。

・我々は、同じ会社の少なくとも10人の人間と、一緒に新鮮な空気を吸うという共通の目的を持っている。散歩の終わりのほうでは、我々は12人になっている。

・想定:我々の散歩の記述は、我々がはじめた散歩が、12人目の人間が加わっても継続するものであることを想定している。この想定が正しいものであれば、散歩のはじめから12人であっても、それは同一の散歩であっただろう。さらに、いかなる12人目の人物も我々の散歩に終わりのほうで加わりうるだろうし、したがって、いかなる12人目の人物もはじめから加わりえただろう。

・だが、共通の目的をもったいかなる参加者も生起しうるという説明によっては、共通の目的をもっていることが、この散歩にとって必然的であるということを明らかにしない。この散歩であることの特徴づけは、共通の目的と同じくらいに重要である。我々は、異なる目的をもちつつ同じ散歩に参加するかもしれない。上の説明ではこのケースを処理できない。

 

 

Conceptual Nonindividualism

パラ(1)概念的非個人主義

*この立場によると、グループや共同行為についての語りは、個人とその構成によっては分析しえない。

 

 

 

 途中。