「集団的信念と受容」をメモしておく。その2

3.

 

  • 集団的信念の変更
  • ギルバートが「集団的信念」と呼ぶものは、じっさいには受容を指しているということを示すには、集団的信念の変更の場面を考えるのがよい。
  • 信念は、典型的には、信念主体の、信じている事柄が真であることへの感覚的傾向性が壊れることによって変化する。たいていの場合、これは彼の信念が偽であることを提示するような証拠の供給によって起こる。
  • だが、複数的主体の場合、当該の見解が偽であることが明らかであっても、それを許容することがありうる。複数的主体の見解を変化させようとする者は、集団がその見解を受容しなくてはいけないという義務を持つことがいかに不適切なのかを示さなくてはいけない。
  • このことは、集団的に受容された見解が偽であることを示すような証拠の挙示も含まれうるが、必要なのはそれだけではない。もっと他の種類の、実践的、倫理的な観点にも配慮した訴え、そして、受容された見解は、その複数的主体がもつ目的や利害関心を救うことがないということを示さなくてはいけない。
  • 複数的主体の見解を変化させようとする個人は、その見解の真偽を超えた考察に訴えることができる。また複数的主体は、真偽を担わないようなファクターについての考察を基盤にして見解を変更することがありうる。(しばしばこれは不合理なふるまいのようにも見える。)これは、見解を変更する複数的主体が真偽を担うようなたぐいの考察とは異なる範囲のものへと開かれていることを示す。

 

EX.)実験室の事例;

  • ある実験チームがもつ彼らの領域が価値ある洞察であるという「集団的信念」は、そのような研究はもはや有効ではないということを示す有意義なソースの挙示によって変更されるかもしれない。

⇒このソースは、この領域の洞察が価値がないということを示すものではない。

⇒つまり、これはこの洞察についての認識的利点を掘り崩すものではなく、この分野においてこの研究を継続することが賢明ではないということを示すものである。だが、実験チームの集団的信念の変更のためには、このようなソースでじゅうぶんであろう。真理についての言及は必要ない。

 

 

  • 認識的正当化についてのSchmmitt1994見解との相違
  • シュミットによると、「チャーターされた」集団(ある特定の共同行為を遂行することへのコミットメントをもつ集団)は、「ある特殊な認識論的正当化の基準、その集団の社会的役割に応じた基準、に従わなくてはいけない」。

⇔本稿の見解は、認識論的正当化には言及しないものである。

  • 複数的主体が受容する見解は、認識論的基準によってではなく、実践的基準によって判断されるのが一般的である。複数的主体は、個人が何を信じるかを決定するときの理由とは異なる理由で見解を受容するのだ。

*ただし、重要な例外があることを次節で論じる。

ある種の集団は、認識論的目的を持っている。とくに、研究者集団、実験チームといった集団である。彼らは、認識論的目的と実践的目的の両方を持っていると考えられる。

 

 

4.

 

  • ギルバート自身、「集団的信念」という概念をScientific changeの説明に使用している(2000)が、本節では「集団的受容」概念が、科学哲学に対して、社会構成主義によって提示された見解を広めるのに必要な概念的リソースを与えることを示そうと思う。『実験室生活』は科学実践についてのわれわれの理解を深化させたが、しかし、彼らの研究は確立されたものとはいえない。

 

  • 『実験室生活』路線
  • 科学者は仮説の受容を決定するさいに認識論的考察のみによって動機付けられるのではない。
  • 科学は、よき理由・証拠のみによって進歩するという合理的科学観への反例。科学者は非認識的考察によって度々動機付けられる。

⇒社会構成主義的科学観:

  • いかにして社会的プロセスとしての交渉が関係者の利害関心や彼らの力関係に影響され、そして科学者がいかに言明を事実へと変化させ、事実を構成しているか。

Goldman1999;LWの見解においては、科学者の信念の決定にさいして自然が役割を果たすことが許されていない。

 

  • 社会的構成から自然を救う
  • まずは、実験室で科学者に影響を与える様々なタイプの考察を区別することから。

LWが対象としていたのは、実験チームの一部分であるので、その点からすると彼らは「複数的主体」といえる。彼らの交渉の目的のひとつは、この複数的主体の見解がいかなるものかを決定することであろう。(⇒「事実のミクロプロセシング」)

EX.

チームの一員であるスミスは別の実験室におけるイギリスの研究者による主張を確証する追加実験をする時間がない。(LW1986;158)ラボメンバーとしての彼は、大きな責任を持っており、ラボが一丸となって目的を達成するためにより労力を注がなくてはいけない。スミスはそのイギリス人の発見に疑いをもっているが、彼の時間をその検証に費やすのは気が進まない。チームの成員として、彼は集合的にある特定の目的と見解とを受容しているのである。そしてこのコミットメントのせいで、彼は個人的心配を抑制している。

 

  • だが、この実験チームは、認識論的目的も持っている。この観点からは、彼らは証拠の考察によっても動機づけられることになる。

EX.

スミスはイギリス人研究者の追試をする時間がないと同僚のウィルソンに不満をもらす。するとウィルソンは、あのイギリス人の実験は、構造同定にかんして時期尚早な主張をしているのではないのかという。(1986;159)

⇒これはその実験の基礎についての疑問であるので、認識論的考察である。スミスは、ウィルソンとの会話がチームの実践的問題ではなくて認識論的問題であると理解して、そのうえでイギリス人研究者によると「豚と羊とのあいだにアミノ酸分析法では導出できない配列の違いがある」というのだが、という懸念をウィルソンに語る。彼らの交渉は、事実の構成を目的とするものではなく、彼らの個人的認識論的懸念がこの集団の行為の方向性を変化させるようなものでありうるかについてのものである。もしもイギリス人の実験帰結が信頼できるものであることを集団が受け入れることを決定したとしても、彼ら個人の懸念は続くだろう。認識論的説明はLWが想定しているよりも取り除きがたいものである。

 

  • 構成主義モデルの問題点
  • 実験室で働く科学者たちが、社会的考察と認識論的考察の両者によって動機づけられている事実を見逃している。
  • 科学者が、個々人としてのエージェントであるとともに、複数的主体の一員でもある事実を見逃している。
  • LWは「無数の異なるタイプの利害関心と先入見が科学者の討論のなかに混在している」と語るが、参与者がすべきことは、どの種の考察がその時顕著であるのかの特定、ひとりの人物の行為の許容範囲の特定、個人として行為するのか複数的主体の一員として行為するのかの特定であろう。

 

  • 科学者や技術者は、競合仮説の認識的利点への考察と、そのチームがコミットしている研究路線への考察という2つのタイプの考察のあいだで行き来し、そしてこの2つのタイプの考察は第二の自然として役割を果たす。片方の目的の実現は他方の実現を犠牲にすることもある。
  • 合理主義者も社会構成主義者も、科学の成功について説明するさいに、片方の考察にしか言及してこなかった。そしてどちらも、複数的主体としてのエージェンシーに注目することはなかった。

 

5.

 

本稿が達成したこと

  • ギルバートによる「集団的信念」を概説した。
  • 「集団的信念」という現象は信念についてのものではなく「受容」についてのものであることを示した。
  • 信念と受容を区別することで、集団がたびたび不合理な見解の変更を行うことが理解できる。複数的主体が見解を変化させるのは、その見解が偽であることが判明したからではなく、むしろ集団の目標の実現に反しているからである。個人が、集団の見解を変化させようともくろむ場合にも、彼は認識的証拠ではなく、実践的妥当性に訴える必要がある。
  • 個人としてのふるまいと、複数的主体の成員としてのふるまいを区別することは、「サイエンス・ウォーズ」において描写されたような交渉場面を合理的に説明することにも役立つ。

 おわり。