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「集団的信念と受容」をメモしておく。その1

Collective Belief and Acceptance

  1. Brad Wray

 

Collective Belief and Acceptance

  1. Brad Wray

Synthese Vol. 129, No. 3 (Dec., 2001), pp. 319-333

 

  • M・Gilbertは、日常的に起こる集団に対する信念の帰属について言及している。ギルバートはこの種の現象を「集団的信念collective belief」、この種の信念が帰属される共同体を「複数的主体plural subject」と呼ぶ。
  • 本稿は、「集団的信念」と言われるものは、信念の一種ではなく「受容acceptance」の一種であることを論じる。信念とは異なって、集団的親縁は集団によってその集団の目標の実現の集団として採用されるものである。

 

 

1.

  • Singularism批判

ギルバートによる集団的信念の分析は、「単一主義singularism」を批判するというより大きな企図のもとになされている。(Gilbert1989;12)

単一主義⇒「我々の日常的集団的概念は、一人のエージェントについての概念的図式によって説明可能である」

  • ギルバートによれば、「誰でも、彼自身の目標のもとで行為する限りは、彼は単一のエージェントとして行為しているといえる」。だが、我々は必ずしも我々自身の目標のもとで行為してはいない。
  • 「原則的に、ひとは、彼自身の望みが何かには触れずに、彼が属する集団の目標は何かということについての彼の理解によって動機づけられうる。」
  • ある集団がある集団的信念を採用したなら、その集団の個々のメンバーは彼ら自身のものではないような信念のもとで表現ないし行為をする。

 

  • 集団的信念帰属の日常的事例
  • 詩についての討論グループにおいてある特定の詩についてのある解釈が生まれるとき、いかにその詩が解釈されるかについての信念は、このグループをひとつの単位にして所持されている。(1989;288)
  • あるクラスにおいて継続的に討論やテストを行うような教師によって何らかのことが教えられるときに、そのクラスを一単位にした集団的信念が生じる。たとえば、あるクラスは教師によって、現代科学は男性優位主義的に偏向していると教えられているとすると、その課程が終わるころには、クラスはこれについての集団的信念をもつことになる。(1994;237)
  • 科学者集団が、ある特定の下位区分領域におけるあるプロジェクトについて、実験室においてともに働く場合、彼らはこの下位区分領域が洞察に値するような主題であることを集団的に信じている。(1994;237)
  • 自分たちの子供が夜のこの時間までに帰宅すべきであると決定した両親は、どちらの親も、子供はこの時間に帰宅すべきであると個々には信じていないかもしれないにもかかわらず、この信念を2人で一単位として所持している。(1994;249)

 

 

  • 複数的主体の成員としての個々人の義務
  • 上記の事例においては、信念の「複数的主体」が形成されている。複数的主体を構成している個々人の間の関係を記述するために、ギルバートは「共同的にコミットしたjointly committed」という句を使用している。
  • 信念の複数的主体となるような多様な個々人は、集団的帰結が彼らが複数的主体であると同意していると信じている単位集団と整合するように、彼ら自身の行為を調整する。
  • 彼らはまるで何らかのことが真であるかのように、集団的に行為するために共同的にコミットする。

「集団的信念の結果生まれる信念主体は、信念という概念と、「一体としてXしている」という概念によって担われている。参与者たちは彼ら自身に「私とほかの人々がpを一体として信じるということのために私は何をする必要があるのか」と尋ね、そしてそれに従って行為する、といった具合である」(1994;252)

⇒複数的主体の成員は彼らの行為をたがいに説明可能でなくてはいけない。

  • いったん集団的信念を与えられたら、意見の相違は非難されがち。(1994;240)複数的主体の成員は、他の成員によって、彼らが同意していると信じているかのように複数的主体が行為することを保証することの一部となることを合法的に強要されうる。
  • 集団的信念は「偽であるかもしれない信念のせいで、ひとりの人物が他人へ圧力をかけることさえ正当化する」。非難は、「彼や彼女にかんしてのある特定の明らかに非認識的な事実のもとで、話者に直接向けられる」。あるひとが非難されるのは、彼が何か偽なることや認識的に正当化されていないことを語ったからではなくて、義務に違反したからである。(1989;292)

 

  • 複数的主体の成員の義務の特徴
  • 誰かが、何かについて他の人々と「集団的に信じる」と決定したなら、「彼は彼自身「他人と共通の前提」にコミットしているか、あるいは当該の見解の真なることを共同で前提している。(1989;301)
  • 「pについて共同的に受容している参与者は、pが真であるという仮定について集団の成員のあいだでなされるなんらかの共同の努力について彼がなしうることをする義務を受け入れている。」(1989;306)
  • 共同的に受容された信念は妥当な他人とのあいだでの継続的な推論と討論における仮定としての地位をもっている。ゆえに、共同的に受容された信念は、集合する一団に対して、行為のための理由を与える。(1994;247)

 

  • 集団的信念形成の条件
  • 明確な同意がなくても、ひとは複数的主体の成員になることがありうる。あるグループは意識的な達成目標を持たなくても、信念を持つことがありうる。(1989;293)
  • 「集団的信念帰属のための論理的な必要-十分条件は、集団のすべてないし大部分の成員が、その集団の見解を「代表する」ある見解をもつことについての肯定的感覚を表現していることである。」(1989;289)
  • 「その集団の見解を代表するある特定の見解をもつleting」≒「一体として受容することへの共同的コミットメント」

 

  • 個人が複数的主体の成員になることに同意する理由(1989;253)
    • 集団的信念を採用することによって、個々人の集団は徐々に、あるタスクの達成と情報収集を妨げるような対立を解決し避けるようになる。
    • 複数的主体は、個々人では達成不可能であるようなタスク、たとえば、ある種の発明や開発、ある種の財の獲得など、を成し遂げることができる。
    • 集団的信念は個々人に他人との統一感あるいは共同体感覚を与える。このような感覚は道具的価値をもつものというよりも、それじたいが目的である。

 

  • “summative accounts”はなぜ不適切なのか?
  • ギルバートによれば、彼女の説明は、複数的主体の各々の成員が当該信念を個々に持つ(A・Quintonによれば、「総体的説明」と言われる説明。)というものではない。

総体的説明⇒集団Gがpを信じているというためには、Gのすべてあるいは大部分の成員がpを信じているということが論理的に必要である。

  • ギルバートは、集団的信念についての総体的説明を2つに分類し、それらを否定している。

     集団的信念は以下のものと同一ではない。

(a)ある特定の共同体において広まっている信念

(b)ある特定の信念が広まっているということについて共同体が共有している知識

  • 総体的説明が否定される理由
  • 上記のa、bのどちらの場合においても、共同体の成員が共同体によって保持された信念への裏切りを表現するような行為が、許容されうる非難にあたらない。(1994;243)

共同体は、その成員にたいして、彼らがその何らかの広まった見解を信じるか、あるいはその見解が真であることを信じているかのように行為することを強要するだろうが、このような強要は複数的主体の布陣において正当化されえない。非同意を表明する成員は当該の信念の受容へのコミットメントを形成していないから。

⇒許容されうる強制という概念が重要なのは、日常的な集団的信念帰属において、「ひとは確証されていないがゆえに、非難されるわけではない」ことが多々あるからである。

  • 「pを一体として信じること」への参与は「個人的にpを信じること」を必要としない。(1994;251)

我々の日常的な集団的信念帰属は、その集団のすべての成員が個人的に共同的に信じられている事柄を信じていることを必要としない。

  • 総体的説明においては、「ある集団に含まれている事実が、その集団に起こっていることにとって重要な役割を果たす」ということが説明できない。(1987;189)

総体的説明では、なぜ2つの外延をともにする集団が同一の信念をもたないのかを説明できない。

 

 

  • 「集団的信念について」(1994)において、ギルバートは「pを信じる」と「pを受容すること」を区別はしているが互いに交換可能な概念として扱っている。

⇔だが、「集団的信念」現象の説明にとって、「信じる」と「受容する」との相違は大きな意味をもつものと思われる。

  • 適切な信念とは異なり、複数的主体によって採用された見解は集団の目標を実現する手段として採用されている。
  • 複数的主体の見解が変化を考察するために必要なものは、個々人の信念の変化についての考察とは異なるものである。この相違を理解することは「集団的信念」の理解にとって本質的である。

 

  • 「信念」と「受容」

チャーチランドズなどの消去主義者は、信念なるものの存在、および常識心理学は科学によって置き換えられるだろうと主張している。本稿は、信念を人間のある種の認知状態として扱うが、消去可能性については深入りしない。ここで示したいのは、信念と受容という2つのタイプの認知的態度があるということだけである。

 

  • 我々は信じていないことも受容しうるが…
  • Stalnaker1984;信念はある種の受容となりうるものに限られる。
  • Van Fraassen1980;受容は信念とは区別される認知状態である。受容は、形而上学から導出される点で信念と異なる。
  • Cohen1989、1992;pであることを受容することは、pであると思うこと、措定すること、仮定することのポリシーを所持あるいは採用すること。pであることを信じるのは、pであることが真であると感じる傾向性である。受容にさいしてはこのような傾向性は必要ない。受容は、意志的になされ、意志的に撤回可能であるが、信念はそうではない。
  • まとめると・・・
    • ひとは信じていない事柄を受容できるが、受容していない事柄を信じることはできない。
    • 受容は、彼の目的についての熟考から帰結することが多々ある。つまり、特定の目的のためのポリシーの採用から帰結するのが受容である。
    • 信念は感じることから帰結する。とくに、なんらかのことが真であるという感覚から帰結する。
    • 信念は意志的にはなされないが受容は意志的になされる。

*最も重要な点は、受容は目的に照らしてなされるが、信念はそうではないという点であろう。

⇒ギルバートの「集団的信念」は、信念ではなく、受容について語っているように思える。

 

EX.)

  • 子供の帰宅時間について両親が持つ集団的信念の事例:

両親が一単位となるのは、ある目的を念頭に置いているから。彼らの「集団的信念」を決定するのは彼らの集団的目的であろう。この目的のために、彼らは、個々人として持つ選好や信念とは異なる見解でも採用することがあるのである。

  • 詩の研究会の事例;

この集団は、ある詩をいかに解釈するかを措定することによって、彼らのセッションを終わらせようというポリシー(おそらくは暗黙のポリシー)を持っているはずである。このポリシーは、この集団による読解としての研究のもとでのこの詩の解釈の措定を導くものであり、つまりこの集団は、彼らの目的の実現の集団としてある見解を採用しているといえる。

(他の事例についても同様に分析可能)

⇒どの事例においても、複数的主体が集団的に保持された見解が真であるということへの感覚的傾向性を所持することは必要とされない。したがって、複数的主体という見解は、それらに対する信念帰属なしに確定できるものであり、適切に特徴づけられるならば、それは受容の事例なのである。