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knowledge by agreement をメモしておく。    その①

Introduction:

  • 本書があつかう2つのコンセプトは、「認識論」と「コミュニタリアニズム」である。「認識論」についてはおなじみだろうが、「コミュニタリアニズム」というと政治哲学のひとつの立場を連想される方が多いだろう。
  • Communitarianは、説明のために、個人よりも共同体を第一義的なものと措定する。これによると、たとえば、道徳的な個々人であるのは、道徳的な共同体に属することにおいてのみ、そうなのである。

⇒「コミュニタリアン・エピステモロジー」は、認識論上のひとつの立場である。

①「知識」という語、および「知識主体」、「知ること」といった語を、たとえば「デパートに雇用されている」というのと同じような「社会的ステイタス」として位置づけるとき。(これにより、知識の存在は、共同体の存在に依存することになる。)

②社会的ステイタスとしての「知識」は典型的には、人々の集団・グループに賦与されるとき。

  • つまり、知識は二重の意味で社会的である。知識は、社会的ステイタスであるといういみと、個々人ではなく集団に賦与されるといういみにおいて「社会的」だといえる。
  • 但し「典型的には」と書き添えたことにはいみがある。①は例外なく主張されるのに対して、②は典型的な場合には、あるいは知識の中心的な事例の場合には当てはまるということである。つまり、②には例外を認めてよく、ある場合には個人に知識が賦与されることもありうる。

 

  • 共同体的認識論は、ある種の伝統的認識論および現代の主要認識論と好対照をなす。
  • 共同体的認識論と競合するある認識論によれば、知識は「自然種」であるとされる(コーンブリス)。また別の競合認識論によれば、知識は「人工種/機能」であるとされる(ポパー)。
  • これら競合理論に欠けている洞察は、「知識が社会的ステイタスとして理解されうる」という点であり、また知識の第一義的所有者を集団ではなく個人と設定している点である。
  • このような想定のもとでは、知識の「社会性」は、たんに個々人間の知識の伝達によってしか定式化できないだろう。

 

 

  • 共同体的認識論は「社会認識論Social epistemology」異なるプログラムである。社会認識論には、以下の2系統があるが、いずれとも異なる。

(1)「科学政策プログラム」としての社会的認識論:

科学をより民主的かつアカウンタブルな決定様式に従わせようとする試み。フラーが典型的。異なる種類の諸知識にかんしての我々の選択能力を改善・改良を目指す。ひとは科学的知識の集合的産物に対して、科学的共同体の社会的組織化を操作することによって影響を与えうるということが前提となっている。社会的組織を変化させれば、生まれてくる知識も変化するはずだというわけだ。

⇔共同体的認識論は、「科学政策」ではない。そのゴールは、認識的共同体についての変化ではなく「理解」である。

  • とはいえ、科学政策プログラムにもある種の重要性は認める。認識論と政策とは、伝統的な認識論が想定していたよりも、ずっと親密であることを共同体認識論は認めている。
  • かつ、認識的共同体の理解のためには、その社会的‐政治的構造の理解が欠かせないこともまた認めている。

(2)「補完的プログラム」としての社会認識論:

伝統的認識論の決定を補ういみで、社会性を取り入れる認識論。典型的にはゴールドマン。知識についての個人的側面と社会的側面とを切り分けたうえで、伝統的認識論は個人についての側面しか扱ってこなかったと批判する。すなわち、個人的側面に加えて、社会的側面についての分析することで、伝統的認識論の欠点は補われるというわけだ。

⇔共同体的認識論はもっとラジカルな主張をする。伝統的認識論はたしかに知識の社会的側面を無視してきた。だが、伝統的認識論の欠点はそれだけではない。それは、個人的な孤立した知る人(knower)というカテゴリーを持っている点で誤っている。そのようなKnowerは共同体的認識論においては、端的に存在しない。

 

  • 対話的戦略
  • 独白的な仕方とは、まず彼女が、これまでの見解についてとる態度を表明し、そして彼女の立場を明確化していく、という道筋をとる。だが、これだと読者は、古い見解を捨て新しい見解へと移ることにかんして説得されることがあまりないかもしれない。
  • 本書は対話的な仕方を採りたい。私は共同体的認識論を、他の論者との連側的な議論のうちに打ち立てていくことにする。つまり、一連の議論のなかで問われる問題にたいして、共同体的認識論が最もすぐれた答えを与えうることを順を追って示していくということである。

 

  • 本書は、共同体的認識論を「組織化/体系化」するというよりは「入門/導入」するということに主眼がある。
  • むろん、CEがこれまでの認識論におけるすべての問題をクリアしているなどと主張したいわけではない。その代りに以下の2点に焦点を当てたいのだ。

①証言の本性

②経験的信念の合理性

  • CEの強みは、これらの論点においてもっとも明らかであろう。(つまり、これら論点において潜在的弱点ももっともみえやすくなるだろうけれども。)

 

 

  • 知的先祖についてひとこと。
  • CEはより直接的には4人の科学的知識の社会学者(知識社会学者)に負うている。すなわち、バリー・バーンズ、デイビッド・ブルア、ハリー・コリンズ、スティーブン・シェーピンの4人である。本書は、彼らの洞察を、認識論の言葉に翻訳したものといってもよい。その翻訳の帰結は本書のなかにある種の緊張として現れているかもしれない。
  • だが、それにもかかわらずこの翻訳は実り多いものであるといいたい。第一に、本書は、「科学的」知識のみに特定の分析ではない。これは、少なくとも基本的な「社会性」にかんしてならば、科学的知識も日常的知識も差異がないないという私の信念の表明である。
  • 第二に、本書の試みは知識社会学の枠組みを超えた一般的な射程を持つ。本書における私の分析は、ケース・スタディの提示と考察による議論ではないという点で、本書の著者としての私は知識社会学者ではないといいたい。
  • 本書は、個人主義的認識論について、その不整合性、自己論駁的性格、日常的経験とのギャップ、概念的混乱を明らかにすることで示すという極めて哲学的試みである。かつ、私は、単なる「直感に反する」という仕方の反論を超えて、これらの反論を提示できていることを望んでいる。
  • むろん、知識社会学者たちも、マリー・ヘッセ、ヒューム、ウィトゲンシュタインといった哲学者たちにおおくを負っている。その程度は計り知れない。
  • しかし、哲学的見解と知識社会学者たちのあいだにある距離を軽視しないためにも、知識論者と知識社会学者とのあいだの距離はやはり存在するのだとここで強調しておきたい。
  • その距離は、だが、本書のような試み、または社会学と哲学との融合としてのフェミニズム認識論などの試みによって幾分か減少することだろう。
  • フェミニズム認識論は、CEが扱うテーマについて、すでに約20年前から議論してきている。私の試みも、これら議論から偉大な財産を得たことをここで記しておこう。
  • 私は、フェミニズム認識論について詳細に述べることは本書においてはしないが、それは我々の観点が非常に近しいものであるから、むしろ共同体的な立場の利点を明確化することが、フェミニズム認識論にとっても有益であろうと考えるからにすぎない。

 

  • 本書は、認識論者と社会学者に向けて書かれた。私のこの試みが、両方のフィールドの論者にアクセス可能となるように、私は広い概念について説明しようと努力した。広く行き渡った直感に反する立場というものはどんなものであれ、学科領域におけるメインストリームにとって受け入れ難いものだ。おそらく本書で提示される立場も、そのようであるに違いない。

 

 

 

 

Ch1:Questions and Positions

  • まず、証言について考えることから始めるのがよいだろう。というのは、古き認識論も現代の主要認識論も「証言」を典型的な「知識の社会的側面をカバーするターム」として捉えているからである。
  • 伝統的認識論は「証言」をある個人から別の個人への「知識の伝達」のためのメカニズムとして捉えた。
  • たとえば、もしあなたが正直な報告者からケンブリッジの冬の寒さについて聞いたならば、あなたはケンブリッジの冬は寒いということを知っている、という具合である。
  • いまのところは、証言を他の「知識の源泉」と区分するという問題はわきにおいておこう。
  • 1980年代くらいから証言についての認識論は急速に発展を遂げる。この成長の要因はおそらく知識社会学の台頭と科学哲学に対してのフェミニズム認識論による批判あたりにありそうだ。この発展経路のすべてを詳述することはできないのだが、手みじかに問題の分類を行っておくことは有益だろう。
  • 言語の使用法と直観にまつわる諸問題:

我々はいかに他人から受け取った知識について語るだろうか。そして、我々のその語り方に基づいて再構成されうるような証言についての「常識的」理論とはいかなるものか。

我々が個々人として、他人から聞いたことを採用したり拒絶したりするさいの心理学的メカニズムとはいかなるものだろうか。これらのメカニズムは、知覚・記憶・推論といった他のメカニズムとどのように比較されうるだろうか。

  • 社会的生活にまつわる諸問題:

どの証言に合意するかという厳しさは社会的文脈に応じて変化するのか。社会的生活における証言の一般的な役割とはどのようなものか。社会的な言語制度一般を統括している規範ないし規約とはいかなるものであるのか。また「ものごとがどうなっているか教える」という個別の場面における規範ないし規約とはいかなるものか。

  • 科学における証言と信頼にまつわる諸問題:

自然科学、社会科学における証言の役割とはいかなるものか。彼らの同僚の仕事について評価するさいに科学者はいかに批判的あるいは騙されやすいか。科学者はある証言が受容可能であることをどのように決めるのだろう。証言の受容や拒絶にかんしては、どのような社会的‐政治的影響が働くだろうか。

  • 規範的諸問題:

しょうg我々は証言についてどの程度広く、またはせまく定義すべきだろうか。我々の一般的な証言への信頼は正当化されうるのか。もし正当化されるのであれば、いかなる種類の正当化が望まれるだろう。知識にかんするかぎり、我々はどの程度他人を信頼すべきだろうか。我々は他人の能力や正直さをいかに評価すべきか。これらの問いに対しての答えのいくつかは、我々が持っている知識観の変革の理由になるだろうか。我々の持っている知識観にとって証言はいかなる中心的論点をもちうるのだろうか。

 

 

  • 本書の目的は、認識論にコミュニタリアニズムを導入することである。それは、なぜ個々人は、認識的共同体のメンバーであるかぎりにおいて、知りうるのか、ということを説明することに他ならない。

⇒認識論的個人主義を特定し、除去しなくてはいけない。こと証言に関する限り、認識論的個人主義は以下の2つの点にあからさまに現れている。

(1)証言への長らくの無視・無関心

(2)証言の定義の仕方、限定の仕方。

  • 認識論者は、証言の領域をできるだけ小さくしようと努めてきた。だが、過去の報告や、無時間的事実の報告以外にも知識の社会的次元というものは多くあるはずである。
  • 認識論者は、狭く見積もった証言の領域の内部においても誤りを犯してきた。過去の事実は彼らが想定するよりも、より複雑な社会的実践である。それはある個人から別の個人へのたんなる知識の伝達というものではないのだ。
  • 伝統的認識論は、他の知識の源泉と証言とを比較して、証言は余剰であるとか、他の源泉に依存しているとかいった分析をしてきたが、むろんこれも誤りである。

⇒これらすべての点は、伝統的認識論の個人主義的性格に端を発するものであると思われる。だが、なぜこれらが誤っているのだろうか。

 

  • 証言が無視されてきたことについては説明はいらないだろう。二点目に絞って論じたい。すなわち、証言についての個人主義的認識論がもつ誤った性格についてである。詳細な議論はしかし追ってなされるだろうから、まずは個人主義共同体主義とを比較対照させておくことが有益であろう。
  • 証言の個人主義的見解:
  • 知識の社会的側面は証言で尽くされる。
  • 証言は知識の産出的源泉ではない。証言は共同体やステイタスを構成することはない。
  • 証言は、ある知識項目(すでに存在している知識項目)の完全な、ある個人から別の個人への伝達に他ならない。(完全な、というのは、半分だけ伝達するとかいったことがない、ということだろう。)
  • この知識項目は証言者の知覚、理由、記憶から導出されている。
  • 証言者と受け取り手は、同一のグループに所属している必要はない。同一のグループに所属しているといった社会的現象は、証言の理解にとってレリバントなパラメーターではない。
  • 証言者と受け取り手とは、最小限の社会的知識のみを所有している。証言者の場合に要求される社会的知識は、たとえば、誰がその証言を理解できるかについての知識である。受け取り手の場合には、詐欺師の識別とか、異なる種類の人々に応じた信頼性などである。
  • 受け取り手による(意識的にしろ無意識的にしろ)証言者への信頼度の計算は、ある基準にもとづいて普遍的になされる。

 

 

  • 証言の共同体的見解
  • 証言は、知識の社会的側面のひとつである。
  • 証言は、知識項目のフルな個々人間の伝達ではない。
  • 証言は、常に産出的知識であり、認識的共同体、認識的行為主体、社会的ステイタス、制度、分類法を構成し、知識それじたいのカテゴリーを構成する。
  • 証言者と受け取り手とは、単数でも複数でもよい。
  • 通常の場合には、どちらも同じ共同体内部のメンバーであり、彼らはゴールと関心とを共有している。
  • 同一グループのメンバーシップは彼らの相互作用の問題である。彼らが同一グループのメンバーであることは、彼らの正直さ、能力、騙されやすさについて互いに規範的見積もりがなされることによる。
  • 完全な受け取り手となるためには、証言者の信頼性にかんする自身の評価を公共的に正当化可能でなくてはいけない。
  • だが評価の基準は常にローカルなものである。

 

  • 第一部の内容

ch2:証言のスコープにかんする従来的な哲学的見解。これは、我々の認識的な相互依存関係を考えただけでも、あまりに狭いものである。

ch3:証言者からの証言に基づいてその内容を信じるさいには、証言者の正直さや能力といった前提条件が必要かいなか。この問題について認識論者たちは二分してきたが、どちらも個人主義的前提に基づいているかぎりダメだ。

ch4:他人の言葉を信頼することはなぜ合理的だといえるのか。還元主義者は、証言による知識は他の知識源泉に還元されなくてはいけないとし、非還元主義者は証言はそれはそれで何物にも還元されないものであるとする。どちらもやはりダメだろう。私は、静寂主義と文脈主義とに解決を求めたい。証言が一般的な正当化を求められるものであるとする見解それじたいが個人主義的なのだ。我々が正当化可能であることのすべては高々、個々の情報に対して我々がもつ信頼可能性くらいである。したがって、個人主義者は、証言というまさにその概念に対して、すでに無理な要求をしているにすぎない。

ch5:共同体的認識論の定義と動機付けについて、より直接的に論じる。2人の認識論者を取り上げて、彼ら先駆者が個人主義から共同体主義への移行を示唆していることをみていく。