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knowledge by agreement をメモしておく。   ②証言をめぐるいくつかの立場

ch2: The Limits of Testimony

  • 「証言」の領域

最小→法廷における証言

最大→「認識的相互依存」:我々はみな互いに他人の知識に依存しあっている

中間→他人の過去・現在における物言いによって獲得された知識

  • 統一的な見解というものはないが、証言一般を法廷証言まで切り詰めようとする路線と、その逆に証言一般は認識的相互依存にいたるという路線とがある。

 

  • 伝統的な知識の4源泉

「証言」という語がここまでインフレ化するのは伝統的な哲学における、その取扱に起因するかもしれない。

  • 伝統的に認識論者は、知識の源泉として、「知覚」、「理性」、「記憶」、「証言」の4つを挙げてきた。このうち、先の3つまでは「(個人に)搭載されたonboard源泉」であるが、証言だけは知識の社会的側面にかかわる。
  • かつ、認識論者は、証言を、他人の「直接的なindicativeこれこれという物言い」から獲得した知識としてきた。
  • この4つに知識の源泉を絞ると、模倣による学習や慣習の習得、名づけ定義などは知識の源泉ではないことになる。
  • とはいえ、他の知覚や記憶に比して、証言が哲学者の議論の俎上に上がることは非常にまれであったし、言及されたさいも非常にそっけない扱いだったのである。たとえば…

「他人の理解していることがらを知るために、その他人の目でもって見てみたいと望むことは理にかなっているかもしれない。我々が自身で真理と理性とを考察しその能力をもっていなければ、我々はリアルな真の知識を所有できないのだから。自分の脳のなかに他人の意見を置いてみれば、それら意見が真となり、真なる知識が増えるなどということではない。」Locke1975,Ⅰ.ⅳ,23

 

⇒それにしても、なぜ多くの認識論者は、「証言」と「認識的相互依存」とを同じものであると考えるようになっていったのだろうか。2つの理由がある。

(1)哲学者の概念的保守主義の傾向が、知識の源泉をこの4つ以上に増やしたくないという方向に働いた結果、あまりに多くの意味合いを「証言」のカテゴリーに入れこむ結果になった。たとえば、模倣による学習を「ジェスチャー的証言」と呼び、言語習得を「直示的証言」と呼んだりするのは、このおかげだろう。

(2)哲学者の知的保守主義の傾向が、直接的発言による知識と認識的相互依存とを同じものとみなし、認識的相互依存が個々人間のやりとりのシナリオに尽きない深みをもっていることを見逃させた。

 

  • それにしても、哲学者の「証言」についての見解は、いまだに「法廷証言」の直観にフィットしている。「証言は新しい知識の産出ではなく、せいぜい話者の知識を聴き手に移送するだけである」などは、法廷における目撃者証言のイメージにからめとられている。たしかに、目撃者が知識をねつ造するのは困るだろうから。しかし、法定証言は、証言のひとつの事例にすぎないのだが…。

 

 

  • 行為遂行的行為としての証言

だが、法廷の内部においても、目撃証言は、「述定的言語行為」であるとされるのに対して、裁判官の発言は「行為遂行的言語行為」であるとみなされる。

  • 行為遂行的言語行為が成功するのは、世界が発話内容とフィットするようになることであるから、たとえば裁判官の「あなたがたを妻と夫とする」という発話行為は新しい社会的事実を作りだしていることなる。
  • だとすれば、「行為遂行的証言」は知識の産出的源泉でありうるはずであるが、哲学者はこのことをあまり真剣に考察してこなかった。
  • そのうえ、哲学者は、「証言」という語の意味の囲い込みにももう疲れてしまって、「認識的相互依存」でもって証言の広い領域をカバーしておくことにしたようだ。
  • 対して、「コミュニケーション」は、概して言語学的文脈においては、知識の移送と創出のための語として用いられている。

⇒だが、異論は多いとは思うが、ここで私は「証言」は「コミュニケーション(からの学習)」と同義語であると主張したい。