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knowledge by agreement をメモしておく。   ③推論的か直接的か。

Ch3: Inferentialism  Pro and Contra

  • この章では、「証言に基づく我々の信念の採用は、「直接的」か「推論的」か?」という問題について検討する。
  • 証言ベースの信念の採用は、証言者のコンピタンスと正直さにかんしての前提をもった推論が含まれているのか。
  • それとも、証言的信念受容はダイレクトになされるのか。つまり、何らかの推論や前提なしに、採用が起こるのだろうか。
  • 私自身は、私に語られた事柄を受容することによって証言的知識を獲得しうるのだろうか。

⇒4つのレベルの問題圏に分類しておこう。

現象学(ここでは、きわめて一般的ないみでこのタームを使用している)

我々が証言的信念を採用するさいの我々の内的・内観的経験とはどんなものだろうか。

認知心理学

証言的信念の採用が含まれている意識的ないし無意識的メカニズムとはいかなるものか。

③規範的認識論

理想的な認知者knowerはいかにして証言的信念を採用しうるか。

④プラグマティクス

証言的信念の採用を、我々はいかに語りいかに正当化しているか。

⇒これまでの論争が混乱していたのは、上記の問題区分をしないまま議論していたからであろう。加えて、従来の論争形態における2つの問題点を指摘しておく。どちらも認識論的個人主義にまつわる問題である。

 

  • 「心理学的具象化」と「社会的希薄化」

推論主義の陣営にいる論者は、たいていこの2つの立場にコミットしたうえで議論をすすめようとしている。

  • Psychological reification:外的(言語的)ふるまいの静的パターンを、内的経験のパターンに従わせようとする傾向。この傾向をもつ認識論者は、証言の「現象学」ないし証言の「内的経験」にのみ言及しがちである。
  • Social dilution:社会的生活の多様性にかんする不十分な扱い。証言がなされ受容されるさいの条件について考慮しない傾向。

 

  • これら2つの傾向をもつ論者のひとつの系統。「現象学的問題圏における推論主義」

彼らにとっては、証言の直接的VS推論的論争は、徹頭徹尾現象学的な水準のものとみなされがちである。

例えば、標準的知覚の場合には、(現象主義によれば、)知覚は直接的であるとされる。

 

私は青い空を知覚しているように思える

私は私の視覚が私を欺いているということの理由をもたない

ゆえに、私は青い空をみている

 

といった推論は、標準的知覚の場合にはなされないとされる。推論が含まれるのは、たとえば、私に色盲などの視覚障害があるとか窓枠に写真が貼ってあるとかいった例外的ケースのみである。

  • この文脈上で、「証言は、知覚の例外ケースなのだろうか。それとも、知覚同様、直接的に受容されるのだろうか。」という問題設定が生まれる。

 

  • 私があなたに電話で、私の目は青色であると語ったとしよう。

推論主義者によれば、このときあなたの心の中には以下のような推論プロセスが生じるとされる。

  • あなたは、私の「私の目は青色だ」とあなたに語るという言語行為を受容する。そして、以下の信念を形成する。
  • 信念1:MKは彼の目が青色であると主張した

⇒信念1は知覚的信念であって証言的信念ではない。これは、私の目が青色であるということについての信念ではなくて、私が私の目が青色であると主張したことについての信念であるからである。推論主義者によれば、信念1はダイレクトに受容される。言語行為の把握ないし理解は直接的知覚の問題であるからである。(我々はまず、言葉と音声とをきいて、それからしかじかの言語行為であったことを推論するのではなくて、言語行為についてそれがなんであるかを直接に聴くのだという点に注意。)

  • 信念2:MKの目は青色である
  • ⇒信念2は信念1からの推論によって得られるとされるが、そのさいに我々はすくなくともこの場合には、証言者の正直さと色の判断能力とについての付加的前提が必要であるとされる。

 

Fricker[1994]は「証言主義」の代表的見解であるが、ここで彼女は、話者の信頼可能性を判断するための「心理学的理論」というものを提出している。これによると、

信念1:MKは彼の目が青色であると主張した

補助的情報(MKについての心理学的理論にもとづく):MKは、このとき、能力があり正直である

信念2:MKの目は青い

・・という推論によって、我々は証言的信念を獲得することになる。フリッカーによれば、我々はデフォルトで証言者を信頼するようになっているが、話者の不誠実さ、無能力さは常にモニターしているとされる。

(とはいえ、このような設定は、少し考えてみただけでも、穴がありそうな気がするが・・・・)

 

認知心理学」という言葉で私が指しているのは、証言の現象学ではとらえられない意識的ないし潜在意識的心理学的メカニズムである。

フリッカーは彼女の「心理学的理論」は、常に話者の潜在意識に位置を占めており、証言的信念のための推論も潜在的になされると主張している。だが、じっさいのところ、彼女のこの主張は、現象学的に読解するよりもいい方法があるだろう。とはいえ、彼女にとっては、これを現象学的に解釈したい理由(つまり、証言と知覚との対照を保持しておきたいという理由)があるのだけど。

 

フリッカーは規範的認識論とプラグマティクスにかんしての区分に意識的ではないのだが、これは、彼女が自身の規範的認識論を我々の認識的実践における批判的反省から導出しようとしていることによる。

規範的認識論の領域における、直接的VS推論的の区分は彼女によれば以下のようになる。

  • 我々があるタイプの与えられた信念を直接的に採用する資格を持つのは、我々がそのタイプの信念の源泉にたいして信頼する「仮定的権利presumptive right」を持つときである。
  • 信念ソースに対してこの権利をもっていれば、それを直接的に信念として採用してよい。もし持たないならば、信念採用をなんらかの推論的プロセスを介してなされなくてはいけない。

 

証言についてのPRテーゼ:証言にかんするいかなるケースにおいても、聞き手は、証拠なしに、話者の信頼性を想定する認識的権利を持つ。つまり、この想定を欺くようななんらかの特別の状況が存在しない限り、聞き手は話者の語る事柄が真理であると想定する認識的権利を持つということである。(ゆえに、聞き手は、ディフィート条件を持たない限り、話者の主張を信じる認識的権利をもつ。)Fricker[1994;125]

 

⇒だが、フリッカー自身、言語や人間の心理についての見地から、合理的な人物ならPRテーゼをそのまま採用することはないだろうとしている。そして、PRテーゼのオルタナティブとして3つ括りのポリシーを提示している。

①話者の語りの不誠実性・無能力をモニターする

②誰が信頼できるかに関しての一般的見地

③もしも、何の否定条件も判明しない場合には、話者を誠実であるとみなすといういみでのデフォルト条件。(つまり、話者の誠実性については積極的証明によるのではない。)

 

  • ここまで、フリッカーの見解を簡単に見てきたが、これは「推論主義者」の見解を明確にしようということもあったが、むしろその失敗が「直接主義」の知的材料となっていることを示したかったのである。

 

  • Coadyによる推論主義批判

直接主義には、コエディのほか、マクダウェル、ダメット、ストローソンなどがいるが、ここではコエディ見解をみていくことにする。

  • コエディ自身による、証言についての推論主義の規範的説明に反対する現象主義水準の批判:推論主義の説明は、学習の現象学にそぐわない。
  • 我々は日常的に、他人から情報を集めようとするときに、彼らの信頼性とか能力、確からしさなどについての推論とか前提とかを立てて彼らを扱っているわけではない。かつ、そのような推論を展開するさいに、信頼性の前提をどこまで広げるのか、その証言にかかわるすべてを推論にいれこむのは端的に不可能だろう。

⇒ここから、コエディの規範的見解は、むしろフリッカーのPR条件にきわめて近いものになる。⇒「もしも信頼できないという理由をもっていれば、信念を差し控えなくてはいけないだろうが、しかし、そうでなければ、話者の語りの誠実さや能力をモニターする義務は我々にはない。」

 

 

  • おそらく、証言にかんして、どちらも理解し損ねている。どちらも社会的実践を心理学的具象化しようとしている点で誤っているのである。
  • つまり、証言についての知覚の現象学という戦略は、架空の公的正当化から構成されており(それを内的経験化しているということだろう)、じっさいの公的設定とはかけ離れているのだ。
  • この解釈の傍証として、なぜ推論主義者が「潜在意識」に言及しなくてはいけないのかを考えてみよう。端的に、もしも、我々の現象学がモニターできなければ、それは潜在意識において生じているのでなくてはいけないからである。そして、もしもそれがどこで生じているのか知っているなら、それはモニターされるであろうから。
  • フリッカーの議論の出発点は、知覚はダイレクトに知識を与えるが、証言をベースとした知識は推論による、という対照にある。しかし、このコントラストが検知されないので、彼女は自身のストーリーに潜在意識という舞台を必要としたのである。だが、証言の評価を含む推論が潜在意識的なものであれば、証言は知覚もそれと同じ位置にあることになりかねない。たとえば、ヘルムホルツ知覚推論説のような、知覚は無意識的な推論を含むという考え方もありうる。

 

 

  • 「モニターする義務」という中心的論点

フリッカーもコエディも、議論のコアにあるのは「モニターする義務」という観点である。

  • フリッカーの場合には、聞き手は話者の証言をベースにした信念の採用を正当化するために話者をモニターしなくてはいけない。
  • コエディの場合には、聞き手は必ずしも話者をモニターする必要はない。聞き手が正当化されるのに必要なのは、彼女自身がなんらかの疑いをもっていないということのみである。
  • フリッカーは、我々が何らかのことをモニターできるのは、我々がそれをアクティブにモニターしているときであると想定している。たしかに、世の中にはそれをアクティヴにモニターしないと検知できない事態も存在する。たとえば、私が時速100キロで走っていることは、速度メーターをみないと検知できないように。
  • だが、アクティヴなモニターによらずとも検知できる事柄も存在する。たとえば、頬杖をつこうとして私の頬についてアクティヴにモニターする必要はないし、殴られるときにはパッシヴなモニターが働いているから、それがわかるのだろう。
  • 証言に適用してみるとこうなる。誰かが我々によって頼られることに検知ないし注目することは、その可能性についてアクティヴにモニターしているという前提を含んではいない。

⇒我々が見聞きした事柄のうちの何らかのものは、我々がもっているそれら事柄についての他の信念や、状況・話者についての信念と、フィットしないことがある、ということで十分である。我々の第一義的信念は、我々に語られた事柄のためのフィルターの役割を持つが、このフィルターはアクティブなモニター装置ではなくて、パッシヴなものなのである。

 

  • 「社会的希薄化」:証言の認識論の適用範囲について
  • フリッカーもコエディも、我々が話者の多様な種類を多様に取り扱っているという事実をくみ取ろうとはしている。だが、この事実からは、「いかなる証言のモデルでも、ローカルな適用可能性しかもたない」という結論を引き出さなくてはいけない。両者ともこれを見逃している。
  • 彼らは、自身が提出したノルムが、どのような自然的故郷をもつ言語ゲームなのかを特定しなくてはいけないし、いつどのようにして我々が話者のモニターに失敗するのかを特定しなくてはいけないし、、、、といったように証言評価のための規範の束について、それが位置を占めている社会的生活を指摘しなくてはいけない。我々はそれぞれの文脈で、その文脈のノルムに従っているのだから。
  • 彼らの間違いは、証言受容の思弁的モデルにすべての事例を還元しようとした点にある。フリッカーは事例の多様性を自身のモデルの緩和条件として理解しようとしたし、コエディは準典型的な事例の要請を強めることで多様性を緩和しようとした。どちらにしても有効な手口ではない。

 

*ここまで、証言の現象学的プロジェクトはよい方向性ではないことが分かったと思う。証言の認識論は、潜在的プロセスについての心理学的思弁に従事していても先行きは暗い。証言受容が置かれている社会の多様性にもっと目を向けなくてはいけない。