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knowledge by agreement をメモしておく。   ④証言のグローバルな正当化

Ch4: The Global Justification of Testimony

 

Reductionism

ある所与のタイプの知識にたいして一般的な正当化をあたえるにはどうしたらよいか。

⇒還元主義者の答えはシンプルだ。「ほかのより安全でより基礎的な知識形態によって正当化すればよい」。

外的世界についての知識は、心的状態についての知識によって正当化され、他人の証言による知識は、知覚・推論・記憶のような他のより安全な知的源泉によって正当化される。

 

*証言の還元主義=基礎付け主義

さて、「基礎付け主義者」というものがいる。彼らは「正当化の終点は、我々はこれ以上正当化を必要としない信念にいきついたときである」と主張する。すべての還元主義者が基礎付け主義者であるわけではないが、議論のために、証言にかんしての還元主義を基礎づけ主義的形態をもった立場として理解しても問題はないだろう。

 

  • ラジカルな証言還元主義:我々の証言的信念は、知覚・推論・記憶によって正当化されなくてはいけない。還元主義者は以下のチェックポイントを挙げている。
  • 他人の報告の知覚(の記憶)が、事態の知覚(の記憶)とマッチしているか。つまり、他人の報告として我々が知覚した内容が、世界内のことの事態や出来事として我々が知覚した内容とマッチしているか。
  • 「拡張的ampliative帰納推論」を用いて過去から現在・未来への推論をする。つまり、過去における報告と事実との合致に注目して、未来における報告と事実も合致するであろうと枚挙的帰納によって推論する。このことが、他人からpと聞いたさいの我々のpという信念にライセンスを与える。

 

  • 但し、上記プロセスにおける「我々」とは「グループとしての我々」ではなく「我々はそれぞれ個々人として」といういみであることに注意。
  • 認識論的にresponsibleであるためには、各個人は、自身について還元的正当化を実施しなくてはいけない。他人であるあなたについての報告と事実の合致を、私が請け負うわけにはいけないのである。
  • すると、あなたが発見したことがらを私に報告したとして、私が知りうることは、あなたがそのようなことをしたのだということのみである。かつ、もしも私が自身について還元的正当化ができていないのなら、私はあなたを信頼する資格さえないことになる。
  • つまり、還元主義はきわめて個人主義的な出発点を持っている。他人のジャッジは、私の知覚と記憶とによってなされるのであるから。

 

⇔同時に、これは基礎付け主義でもある。

  • 還元主義者は、我々の信念を認識論的に安全な基礎的なもの(知覚・記憶・推論に基づく)と、認識論的に安全ではなく正当化されていないもの(証言に基づく)とに分離する。
  • また、認識論的に安全ではない信念は、認識論的に基礎的な信念にコネクトされることによって安全化されるとする。

⇒個々人の知覚・記憶・推論は、証言ベースの個々人の信念のための基盤として機能している。

 

  • 還元主義者ヒューム

Enquiryⅹ,§1は証言についての還元主義の古典とみなされている。いか以下のようにヒューム見解を再構成してみよう。

  • 過去・現在・未来において他人からの知識として供給される(であろう)情報断片のすべてについて考えてみる。
  • そのうちのいくらかについては、あなた自身に搭載されている知識源泉(知覚・記憶・推論)の基盤によってファーストハンドな知識でもありうるだろう。
  • あなたは3つに情報断片を分離することができる。
  1. あなたのファーストハンドな知識によって確証された報告
  2. あなたのファーストハンドな知識と対立する報告
  3. あなたがファーストハンドなチェックを全く持っていないような報告
  • (B)よりは(A)のほうが数において優るであろうから、この割合が(C)についても適用されるであろうと想定することは理にかなっている。
  • 従って、一見して、新しい報告を信頼することは理にかなっている。

 

だが、この議論は、かんたんに反論できる。

  • 自身で確証できる報告のほうが、自身と対立する報告よりも数の上で多いのは、たしかにそうかもしれないが、自身で確証される報告と反証される報告を合わせても、自身がファーストハンドなチェックができない報告よりも数の上で少ないのではないか。
  • この方向の一般化は、あなたが私の著作に関心をもっているのだから、すべての人間が私の著作に関心をもつはずだ、というのと同じく悪い一般化である。

 

  • 証言を知覚へと還元しようという戦略の可能性に対しては、他の反論もありうる。知覚はつねに証言「負荷的」であるというものである。
  • もしも我々が世界について知覚するその仕方が、相当程度他人から学習したカテゴリーや概念によって形作られているのなら、いったいどのようにして証言を知覚に還元することができるだろうか。

⇒この論点は、知覚への還元主義戦略を危うくするだけではなく、そもそも知覚が基礎的信念なのかどうかという点までも危うくする。

この可能性はStrowson[1994]がすでに指摘している。「もし証言から導出される知識が知覚に依存しているといいたいなら、同様に、知覚から導出される知識は証言に依存しているとも言わなくてはいけないのではなかろうか。」

 

  • ヒューム還元主義への最も影響力のある批判はコエディによるものである。

①ヒュームの還元戦略は曖昧である。

彼は一貫して一人称的極から思弁しているのに、証言の信頼可能性の決定はまるで共同プロジェクトであるかのようにも書いている。これは循環である。証言についての還元主義は、いかにして知覚的報告が実在にフィットするかについての「報告」によって証言的信念が正当化されるという可能性を許容できないはずだからである。

 

②報告と対象との「フィット」にかんしての問題

  • 「報告種」と「対象種」という2つの項があるということについては明確なのだが、しかしいったい「報告種」の解釈とはいかに支持されるものなのか。(つまり、どんな種類の報告なのかをいかに判断するのか、ということだろう。)
  • もしも、異なる「報告種」の定義は異なる「報告種」によってなされるとするなら、結局のところ還元主義的な正当化とは以下のようなものとなってしまう。「我々が証言に依存するのは、我々が各々個人的に観察した専門的ないし権威的報告と多くの事例において報告された状況種とのあいだの相関関係を持っているからだ。」
  • だが、いったい「誰が専門家であるのか」を知らずに、「何が専門的報告なのか」をどうやって特定しうるというのか。結局、また循環である。
  • とすると、我々が誰かを専門家であると決定するのは、誰の報告が事実とのフィット率が高いかをチェックすることによってなされるより他ない。だが、これも循環である。どの専門家の証言が事実と彼の報告とのあいだのフィット率が高いかをチェックすることによって、我々は自身の証言への信頼可能性を求めるとしたら、まず我々は専門家を特定しなくてはいけないはずであるからである。

 

⇒では、誰が専門家か(誰の証言か)ではなくて、「報告の内容」を定義することによって、いかなる報告種であるかを決定すればよいのではないか。

つまり、太陽の光についてのどの報告が、太陽が輝いているということの私の知覚にフィットするか、ということである。だが、コエディによれば、これもダメなのである。

  • 「ヒュームは、人々(他人)が世界にかんしてなした報告を孤立させて、現実世界の事態についての個人的観察と比較することによって、それらのあいだの相関関係が高いとか低いとかいったことが判明する、ということが可能であると想定している。だが、この提案をいかに理解すればよいのかは明確ではない。極端な話、まったくもって報告と個人的観察事実とが合致しないような世界を考えることもできる。このような世界においては、その報告が報告であることについていったいいかなる証拠がありうるというのだろう。」1992;85

 

⇒この議論からの自然な結論はこうだ。「もしも証言が全面的に偽であるなら、そこには言語の共有は存在しない。」話者の発話のすべてが偽であったら、解釈者は話者の音声と世界についての性質とのあいだについての仮説的リンクを、何一つ立て始められないだろう。

 

⇒けっきょく、コエディによる論点は以下の論証としてまとめることができる。

①証言の全面的誤りは自己論駁的である。

②ヒュームの戦略は、証言の全面的誤りの可能性を前提としている。

③ゆえに、ヒュームの還元主義的戦略は自己論駁的である。

 

⇔しかし、ヒュームの還元主義が全面的誤りの可能性を含意しているかどうかは議論の余地があるだろう。リプトンによればヒュームがコミットしているのは以下の事柄のみであるとされる。Lipton[1998;18-21]

  すべての個々の報告は、ひとつひとつとしては、偽であると判明するかもしれない

これは、

  すべての報告が全部まとめて偽であると判明するかもしれない

ということとは異なる。

 

⇒たしかに、ヒュームは「すべての報告が全部まとめて偽である」という可能性にはコミットしていないかもしれない。しかし、このように弱められても、やはりコエディの批判はヒットしそうである。

  • コエディが、ヒューム派に「すべての証言が全部まとめて偽でありうるか否か」と尋ねたとして、ヒューム派はいったいいかなる否定的回答が可能なのだろうか。
  • たとえば、「言語学習は大部分真であるような証言を前提としているから」とか「一般的な不誠実さはまさに証言という概念そのものを成り立たせないことになるから」とか「大部分の証言が真でなくていけない概念的理由がある」とかいうのは、ヒュームにとってはおかしなことだろう。
  • これらに訴えることは、証言のグローバルな正当化に訴えることであるから。つまり、ヒューム派が証言のグローバルな誤りの可能性を排除することができるためには、証言のグローバルな正当化も供給しなくてはいけないのである。
  • いいかえると、証言のための帰納的なグローバルな議論へのコミットメントは、グローバルな誤りの可能性に反対する議論を提出しないのであれば、根拠がない、ということである。

 

  • グローバルな正当化は無理そうだ…

じっさい、現代の認識論者の多くは、我々の証言への信頼を個々人に搭載された源泉によってグローバルに正当化することは不可能であろうという見解を共有している。

だが、もっと切り詰められた正当化ならどうだろうか?

  • リプトンは「規則‐還元主義」なるミニマルな還元主義を提案している。Lipton1998
  • 知覚、記憶、証言といった、異なる「モダリティ」に共通の信念形成メカニズムを探す。⇒「仮説的帰納」メカニズム。(つまり、証言から別の源泉への還元ではなくて、各モダリティに共通の信念形成規則に還元することで、証言を正当化しようということだろう。)
  • この路線は、(これが還元主義と言えるのかどうかは置くとして)割合受け入れられているようである。
  • フリッカーのミニマル還元主義は、もっと議論含みである。
  • 我々個々人は証言を知識の源泉として信頼しなくてはいけない。なぜなら、証言的報告の大部分について、我々がそれらを獲得し、我々がすでに所有している信念システムに適用する(または「整合する」)ということは、古い信念がそれじたい証言の基盤になっているのかとか、他の源泉による知識が基盤となっているのか、とかいったことにはまったく依存しないからである。
  • 言いかえれば、証言のグローバルな正当化は、「内的正当化vindication」という形態を採るということである。

⇒「内的正当化」は明らかに循環している。

  • 我々が証言をグローバルに信頼すると仮定するのは、証言的信念が我々の以前の証言的/非証言的信念と整合する多くの事例のおかげである、という主張は循環している。
  • だが、この主張はもっと深刻なレベルでの循環も招く。我々はいったいいつ、信念のあいだの理にかなったレベルの整合なり適応なりを決定する規準や基準を獲得するのだろうか。そしていかにしてそのような規準を適用していると知ることができるのだろうか。
  • このような規準はそれじたい、おそらく他人から学習するものであろう。つまり証言に依存している。結局、内的正当化は、証言を、証言によって供給された基準に基づいてテストしているということになる。これは、余りにも、循環しすぎているように思える。

 

フリッカーは、グローバル還元主義の個人主義的背景にとらわれすぎているように思える。つまり、各個人は、彼ら自身の信念システムによって、その証言が信頼できるソースであることを確立しなくてはいけないという想定に固執している。

結局、この想定は次の古典的な問いに戻ることになる。

「なぜ、私は、知識にかんして、他人を信頼すべきなのか?」

これこそ、認識論のあまりに個人主義的な傾向が生み出してしまった深い深い問いであると私なら思うけれども。

 

フリッカーは、基礎付け主義的なグローバル還元主義の失敗から誤った結論を導き出してしまった。つまり、ラジカルな基礎付け主義を捨ててもっと穏健な還元主義のみちを探るべきなのだと彼女は思ったのだが、これが循環の始まりであった。

  • グローバルな還元主義の誤りは基礎付け主義的傾向ではない。証言の整合主義的正当化も誤っているのである。
  • 還元主義の悪いところは、正当化全般にたいする態度なのだ。証言は、正当化の規準をシフトさせるのである。だから、証言のグローバルな正当化(同一の規準でもってすべての証言を正当化しようとする戦略それじたい)は不可能なのである。

 

Fundamentalism

  • 本書の主要テーゼであるところの、「正当化基準のコミュニケーションによるシフト」、すなわち「コミュニケーションによって生成・維持される社会制度としての正当化基準」はこの時点では導入されていない。だが、もしこれらテーゼが正しいものであるのなら、証言の正当化については、QuietismとContextualismを採るしかない。

静観主義Quietism:正当化のグローバルな正当化は不可能である。

文脈主義:すべての正当化はローカルかつ文脈依存的である。

 

  • 基礎付け主義者の見解とは。
  • 共同体的認識論の立場は、証言についての還元主義を拒絶するだけではなく、非還元主義も拒絶する。
  • たとえば、トマス・リード、プランティンガー、コアディら非還元主義的基礎付け主義者は、証言が他の3源泉に還元できないものであり、他の3源泉同様の基礎的源泉であるとしている。だが、話はここで終わらない。彼らは、還元ではない形で証言を正当化しようとする。

 

  • トマス・リード:the wise and beneficent Author of Nature

自然の作者は、我々が社会的生物であるべきであり、他人からの情報による知識を重要な部分として受容するべきであると我々に勧告している・・・(Reid

1966;Ⅵ.ⅹⅹⅳ)

  • Coedy[1992]:フリッカーによる「証言の内的正当化vindication」に近い路線での非還元主義的基礎付け
  • 我々の信念は2つのレベルで形成される。第一レベルで、単一の信念が形成される。ここで4つの情報的ルートがひとつの信念へと「結合cohesion」する。
  • 第二のレベルでは、第一レベルで形成された個々の信念間の「整合coherence」がはかられる。

⇒このコエディ見解は、フリッカーへの批判と同じものがヒットするだろう。証言は、我々の正当化のフレームワークの構成にとってあまりに中心的であるので、フレームワーク内部で証言を正当化することは不可能なのである。

フリッカーは還元主義者、コエディは非還元主義者であるが、両者とも整合主義的正当化見解を共有している。そして、整合主義による正当化は、結局のところ我々に、内部搭載型のonboard源泉として証言を使用することを勧める立場であり個人主義的モデルのひとつなのである。

 

  • Coady[1992]:ディヴィトソン路線の非還元主義的な証言の正当化
  • 他人を理解する可能性の条件という概念を使用する。
  • ステップ1:我々の言語的ふるまいがうまくいっていることには2つの原因がある。ひとつは、特定の音声が特定の意味を運ぶこと。もうひとつは我々が信念をもっていることである。なぜフィンランド人が犬の前で「tama on koira」という音を発するのか?彼の目の前に犬がいるということを彼が信じていることが起こるときに、彼がそうする、つまり「tama~」は「犬がいる」を意味する、ということにはもっともらしさがある。
  • ステップ2:いかにして対話者の信念がいかなるものかが判明するのか。彼に尋ねればよい。対話者はたいてい我々がするのと同じように同じ言語を使用するであろうから、彼は彼の信念がどのようなものかを我々に教えてくれるだろう。
  • ステップ3:もしも、我々が誰かの信念がどんなものかは知っているのだが、彼の口から発せられる音声に意味を付与できない、つまり彼が使用する言語を知らないときはどうなるだろう。たとえば、スペイン語と英語が話せる友人がいて、彼と私は普段から英語でスペイン絵画について話をしている。彼と私がスペインを訪れたさい、彼のスペイン人の友人が彼をスペイン語で絵画について話をしているのを私は見ている。私は、彼の発するスペイン語はわからないが、彼がその絵画について何を話しているのかを、おそらくうまく推測できるだろう。
  • ステップ4:とすると、もしも我々が相手の言語を知っていれば、我々は相手の信念を決定するある仕方を持っていることになる。そして我々が相手の信念を知っているときには、相手の発する音声の意味を理解する仕方を持っていることになる。デイヴィトソンによれば、どちらも持っていないときでも根元的解釈は可能である。「寛容原理」によって、未知の人間にも我々と同じような信念システム(もしも犬が目の前にいたら「犬がいる」と信じるような)を帰属させてやれば、もしも犬が彼の前にいるときに彼が「…」と発することが繰り返されたなら、彼は我々に目の前に犬がいることを伝えるという意図を帰属させてやれる。ここでのポイントは、真なる信念の帰属である。つまり我々が真であると思うことを彼らにも帰属させるのである。我々のそれと同じような信念システムを帰属させない限り、彼らの言語/非言語的ふるまいに意味をもたせることはできないだろう。
  • ステップ5:根元的解釈と同じ形態のことは、程度の差はあれ日常でも起こっている。我々は他人が発した言葉のすべてを常にフォローできるわけではないし、自分が知らない専門用語や流行語に出会うこともある。このとき、我々は、相手の信念からその意味を推測するというルートは使えないから、根元的解釈とおなじような形で相手に自分と同じような信念システムを帰属させることで、相手の言語の意味を推測するしかない。
  • ステップ6:まとめるとこうだ。もしも他人の言葉を解釈したいのであれば、我々は相手に我々のよい信念をよく帰属させることである。信念における合意が、それら信念についての真理を導くのである。この規定がないと、信念における合意はすべての信念(偽なる信念も含む)と両立してしまう。つまり、ディヴィトソンによれば、解釈の不可能・全面的失敗(話者と解釈者が合意に達するが、まったく真理には達していないという状況)は不可能なのである。

⇒ここから証言の信頼性がどのように導けるのか。

⇒もしもデイヴィトソンの議論が正しければ、大部分の人々は大部分の場合に真なる信念を持っていなくてはいけない。もしそうであれば、彼らの証言の大部分もまた真でなくてはいけないだろう。

 

  • ディヴィトソン見解の問題
  • 真である信念を大部分持っていることは、真であることを大部分語ることを含意するだろうか。もしも全知の解釈者がいれば、我々の信念の大部分は真であるだろう、という想定による、合意から真理への議論は、我々の信念の大部分が事実的に真であるということの正当化ではない。
  • 「全知の解釈者」という想定そのものがおかしい。解釈が必要であるのは、知識を得ることができない部分に対してであるから、全知であれば解釈は必要ないだろう。
  • 共同体的認識論の観点からも「全知の解釈者」という概念はおかしい。共同体的認識論上である信念や言明を「知識」と呼ぶときには、それらに正当化・交換・議論などの社会的ネットワークの内部でのある特定の地位を帰属させたことと同じである。この枠組みでは「全知」という概念は位置づけようがない。

 

⇒コエディはデイヴィトソン見解を多少穏健化した立場を採っている。

  • 「信念システム」の代わりに「構成的共同的一致communality of constitution」
  • 共同的一致とともに差異性も重視する。
  • コエディの場合、この共同体的一致が、証言の信頼性における信念を下支えしている。つまり、コエディはステップ6の合意から真理への議論には乗らずに、信念における合意を「共同的一致」に置き換えるのだが、常識的な共同的構成が本当に「信念と関心の共同体」を導くのかは、じっさいのところよくわからないままである。

 

Quietism and Contextualism

ここまでの証言の正当化プランは、還元主義ないし基礎付け主義のバリアントか、基礎付け主義ないし整合主義のバリアントであった。どちらにしても認識論的個人主義には変わりがない。ここから、共同体的静観主義へと移行しなくてはいけない。