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knowledge by agreement をメモしておく。   ⑤Hardwig見解について。

Ch5 Testimony in Communitarian Epistemology

  • 証言をめぐる推論主義論争、還元主義論争をここまでみてきた。どちらの論争も、我々の知識の4源泉の関係についての抽象的な理論化に端を発しており、日常生活や科学における証言の役割に直接注目する発想は持っていなかった。ここでは、科学実践と日常生活における共同体的認識論の先駆といえるHardwigとWelbourneの見解をとりあげてそれぞれ検討したのち、本書が提起する理論を描きだすことにする。

 

Teams, Trust, and Testimony

 

  • Hardwig[1985]:
  • 個人主義的な認識論上での「証拠」概念は、科学実践の現状にそぐわない。個人主義的想定によれば、私が信念pの良い理由を持っているのは、私がそのための証拠を持っているときのみである。このとき「証拠」とはpが真であることを確立するようなものでなくてはならない。
  • たとえば、私が掛り付け医にある病気にかかっていると診断されたとして、医者は私がその病気であることについて信じる良い理由をもっており、私は医者が良い理由のもとでそう診断したことを信じる良い理由があるとする。このとき、私は、私がその病気であることを信じる良い理由をもっているといえるだろうか。
  • 明らかに、私はその病気であることが真であることを確立するようなものはもっていない(そのようなものとして何がありうるかもわかっていない)。だから、個人主義的想定の下では、私は証拠を持っていないことになる。つまり、医者への信頼によって、医者が持っている良い理由が私にも転移されるということはない。
  • 従って個人主義的想定の下では、私は、私がその病気であることについて信じるか否かにかんして、医者に診断される前と後とで、なんら条件が変わっていないことになる。(診断を受けた後も、私は私がその病気であると信じることについての良い理由ないし証拠をもっているわけではないので。)

⇒だが、このようなことは、常識的事態に反する。日常生活においては、大部分の信念は上のようなセカンド‐ハンドの証拠しか持たないようなものであるから。じっさい、我々は数えきれないほどの事柄を信じているが、それらの大部分について自身でチェックやテストをせずに信じており、かつチェックするための能力もたいていの場合欠いているはずである。

⇒Hardwigによれば、もしもこのような信念の大部分を占めるセカンド‐ハンド信念を非合理なものであるとすると、合理的な信念などほとんどないことになってしまう。

  • 専門家を信じることは認識的権利であるばかりでなく義務でさえある。他の条件が等しければ、病気のときには医者の判断を信じることが義務である。
  • 何らかの懸案事項があれば、むろん専門家の主張を拒絶することもできるが、確たる条件がない限り専門家の主張に従うのが「合理的従属」といえる。

 

  • Haedwigによれば、権威に訴える/専門家に従うことに基づくことが「合理的信念」であるというだけではなく、知識についてもこのような基盤が必要である。

「証言に基づく信念は非証言的に直接獲得された信念よりも認識的に優れている。というのは、人物bのpと信じる理由は、他の人物aが自力で信じるようになることよりも認識的に優れていることがあるから。もしpと信じるための最良の理由が第一義的に証言的理由であり、知ることが信じることのための最良の理由を必要とすることであり、pが知られうるのであれば、知識というものは証言に依存しているといえるだろう。」(1991)

 

  • Hardwigは上記の抽象的な主張を支持するものとしてに、現代の科学研究の事例(SLA)を挙げる。科学者は「チーム」で働いており、チームは証言と信頼とを基盤として成立している。
  • スタンフォード線形加速器SLA)実験では、1980年代はじめでも年間約50人の物理学者が実験・観測データ収集に従事していた。別の施設ではデータ解析に40人の物理学者が従事しており、この研究のペーパーは99人の連名で提出されている。
  • このような実験はひとりではできないことは明らかである。どの物理学者も、彼の証言ベースの知識を知覚ベースのものには置き換えられない。そのようなことをしているほど人生は長くない。

⇒「認識的依存epistemic dependence 」

現代物理学に固有の事態ではない。数学でもよくある。

 

  • 連名研究ペーパーの実験結果を、知っているのは誰であるというべきなのだろうか。

①厳密な個人主義:知識は個人所有のものであり、個人の「搭載リソース」に基づく証拠を持たなくてはいけない。⇒誰も実験結果を知らない。

②柔軟な個人主義:個人が「代理で」知ることを容認する。知っている事柄の真であることの証拠をもつことなしに、何を知っているのかについての理解なしに知ることを、代理的に認める。⇒物理学者たちは代理的に知っている。

共同体主義:共同体を知識所有者としてとる。この場合には99人のチームが知識主体。知識主体は直接的な証拠を持たなくてはいけないということを保持するが、知識主体が個人でなくてはいけないという仮定を捨てる。⇒チーム全体が知っている。

 

*Hardwig自身の見解がどれなのかは、この論文中でははっきりとしないのだが、方向性としては共同体主義にシンパシーを持っているように思える。(1985;349)

 

「おそらく、[個々人としてのグループの成員]は、「私はpを知っている」という資格はなく、「我々はpを知っている」と言えるのみであろう。この共同体は、個々人のクラスには還元できず、どのひとりの個人も、個々人としてpと知っているわけではない。この路線を採れば、我々は知識主体は彼が知っている事柄が真であることを理解し、そのエビデンスを持たねばならないという見解は保持することができる。そうすることで、知識主体は常に個人か個々人のクラスであるという見解は否定することにはなるが。…だが、後者のほうが認識論的には好ましいだろう。なぜなら、この見解を採れば、命題を知ることは。その命題を理解しその真理のためのエビデンスを所持することだという古く重要なアイデアを保存することができるのだから。」

 

  • Hardwigは、ここから、たんに証言の認識論という範囲におさまらない主張を展開したいようである。彼によれば、証言は、認識論と倫理学とが出会う場所である。
  • 専門家によるpという報告がpを信じることへのよい理由を与えることは、専門家の証言への聞き手の信頼可能性の知覚に依存しているか否かにかかわらず、とにかく、よい理由を与えることは、専門家のキャラクターのアセスメントに依存しているとはいえる。(1991;700)
  • 専門家は、その分野における情報の発展をキープするに十分な責任をもつためには、ある認識的キャラクターだけではなく、道徳的キャラクターも充たさなくてはいけない。

「倫理的主張が認識論的規準に出会うということは真であろう。我々の知識の大部分が証言者の道徳的キャラクターへの信頼にかかっているのであれば、知識は道徳性と、倫理学を要請するような認識論に依存していることになる。知識と資格づけられるためには、多くの認識論的主張が倫理的規準を充たさなくてはいけない。倫理的規準を充たせなければ、それは認識論的規準もパスすることはないのだ。」(1991;708)

 

  • Hardwigの評価:

証言の認識論へのいくつかの貢献が指摘できる。

個人主義的な認識論は我々が持つ「知識」という直感にそぐわない。とくに、科学的知識についての直感と相容れない。

②哲学的認識論の2つの問題と可能性を指摘している。まず、個人主義的主体概念をゆるめて認識主体として「チーム」を採り、かつ、彼ら自身が証拠を所持しているという条件を維持する路線。もうひとつは、個人主義の証拠概念のほうをゆるめて、個人としての知識主体が直接の証拠を所持せずに知識を獲得しうるという路線。

③科学的知識を証言の認識論の考察の対象にしたこと。科学的知識の認識論も、個人主義の神話に毒されてきたが、じっさい科学的実践は、証言に信頼を置くことで成り立っている。科学者共同体のなかでの信頼と証言について焦点をあてることは、証言の認識論者にとって必須の課題であろう。

  • 科学論において、集団研究研究はかなりの蓄積を誇っている。ガリソンによる高エネルギー物理学研究(Galison1997)、クノール=セティナによる物理学研究(Knorr Cetina1995;1999)シェファーとシェピンによる17世紀の空気ポンプの研究などがある。
  • また、数学の証明にかんしても、マッケンジーが4色問題の証明における数学者間のコラボレーションについて研究している(MacKenzie1999)。

 

⇒これらの現代科学についての経験的研究が、Generativeな知識ソースとしての証言のステイタスを示している。

  • 証言が単なる知識の伝送であるのは、単純な一対一の交換の事例に限られる。たとえば、バスの運転手に、ある目的地に停車するかと尋ねるような場合だけだ。
  • だが、議論の終点のないサイクルを考えれば、例えば、CERNのような場所での情報交換について考えた時、証言は発生的ではないというテーゼはその妥当性を失う。他のチームからの報告、自分のチームでの成果、そして自分自身の仕事がタイトに絡み合っているような状況下では、他人によるインプットとか自分の所持信念とか、どれをスタート地点に、何をゴール地点にしてよいかわからない。

 

⇒また、Hardwig見解は、認識論と倫理学のつながりを指摘した点でも重要だ。

  • 規範的共同体主義的認識論は、認識論と倫理学とを、そして規範的政治哲学とを結びつけるだろう。(記述的共同体的認識論は、社会学と人類学と結びつく。)
  • 結局、証言の問題は、専門家と、信頼との関係が、権力と権威とにかかわっていることを示している。社会において力のないものは、いくら多くの情報を供給しようとも、信頼されない。

 

⇔認識論と倫理学とを結びつけるHardwig見解にはいくつかの批判がある。

  • Blaisは科学における信頼は、モラルよりもPrudentialであるとしている。ふつうの科学者が、嘘をつくよりは正直な態度をもち、よいデータの産出を目指すのは、他の科学者とのあいだの恒久的な協働関係を保ちたいからである。よいデータを伝達することに失敗すれば、未来における協働は望めなくなる。不正をしないのも、科学者共同体から排除されないためである。「道徳的信頼は、知識の累積の信頼性にとっての必要な基礎ではない。知識は、協働的な科学的洞察の方法によってアフォードされるのだ」。(1990;374)
  • Blaisの見解が機能するためには、第一に、科学者は、彼らの同僚のなかでの非協働的行動というものを検知できなくてはいけない。第二に、非協働的行動への刑罰が、抑止力としてじゅうぶんに働いていなくてはいけない。Hardwigはどちらの条件についても懐疑的である。科学者は、同僚の実験の追試をほとんどしないし、科学者共同体からの排除は、よほどの重大な不正でなくては行使されていない。

 

  • Hardwig見解の問題点
  • まず、彼の結論は、高エネルギー物理学と数学の事例から引き出されている。だから、厳格な個人主義の拒否という結論は、現代科学に限って適用されるものだ。我々は、たしかに、物理学のチーム研究とか、生物学の実験チームなどを探し出してくることができる。だが、これによって、バスの運転手に行き先を尋ねるような場合にも、我々は「チームで」想定されなくてはいけないのだという一般的な結論は主張できない
  • 彼の認識的共同体の規準は不十分なものにとどまっている。彼の規準は、共同体は、ある与えられた、または形式的に企図された、主張された、主張ないし信念について、その真理を確立するために必要とされる証拠を所持しているもの、である。この規準だと、バスの運転手の事例は入らないし、物理学チームの場合には、どこからどこまでがチームなのかの境界があいまいである。
  • 何より、Hardwig自身は、緩められた個人主義共同体主義のどちらを採用するのかについて明確でない。ふたつは大きな違いである。
  • また、彼は、知識について、それを証拠に基づいた真なる信念であるというアイデアにかなり依存している。彼はこのアイデアを、厳密な個人主義への拒絶のモチベーションにしている。まず、個人が十分な証拠をもちうるのは、証言的証拠を許容するときのみだとする。そして、十分な直接的な証拠をもちうるのは、チームのみである、と結論する。この第二のステップは問題がある。いっぽうで、所与の科学者チームが、いくつかの主張にかんして、他のチームの証拠に依存しているとされる。だが、他方、チームによって所持された証拠は、なんらかの「非証言的」な合成的証拠である。
  • だが、チームが所持する非証言的証拠は、個人が持ちうる非証言的証拠とは異なる種類のものではないのか。少なくとも、チームは、彼ら自身の心的状態というものは持たないのだから。
  • けっきょく、Hardwigは、証拠に基づく真なる信念としての知識観というものに深刻な懐疑は抱いていないわけだが、これはいまでは少々時代遅れでもある。現代の認識論者は、知識について、「正当化された真なる信念」とか「証拠に基づく真なる信念」ではないものとして扱うことに慣れてきた。信頼性主義がこの代表であり、彼らの見解では、あなたがなんとかしてなにかを「知っている」ためには、あなた自身がその信念についての証拠や正当化を与えられていなくても、あなたの真なる信念が、なんらかの認識論的に「好ましい」プロセス、例えば知覚や記憶、によって産出されているならば、それでよい。
  • Hardwigは信頼性主義的に自説を構築することもできるだろう。だが、信頼性主義と共同体主義とは両立しない。