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knowledge by agreement をメモしておく。   ⑥M.Welbourne見解について。

Testimony and the Community of Knowledge

 

Michael Welbourne, The Community of Knowledge[1993]

  • Welの著作『知識の共同体』では、認識論的コミュニタリアニズムは、個々人が他人に認識論的に依存しなくてはいけないということの観察によって基付けられるものではなく、他人と語るさいに創出される規範的コミットメントから認識論的コミュニタリアニズムが生じるという路線を採る。

 

  • 知識可能なソースの獲得についての「フォーク・エピステモロジー」
  • 話し手から聞き手への知識の伝送についての民間認識論は以下のような手続きを想定している。

①話し手は当該知識を持っており、かつ正直である。

②話し手は聞き手に適切な言語行為を通じて当該知識を伝達する。

③聞き手は話し手を信じており理解している。つまり、話し手が言語行為を通じて何かを伝えようとしているということを信じており、話し手の言語の意味を理解している。

→知識は、その源泉から切り離されることなしに伝達されると想定されている。話し手は他人に伝送した知識を所持し続ける。

→聞き手は、話し手に対してある態度、話し手を信じ理解するという態度が求められる。

 

  • 知識と信念
  • 哲学者が考えているような形で知識と信念がむずびついているとは、常識的には考えられていない。知識が、たとえば「正当化された真なる信念」というように信念種であるとされるのは哲学のなかだけの常識である。
  • 知識の伝送は、信念の伝送ではない。
  • だが、信念は以下の2つの仕方で知識伝送にかかわる。まず、話者を信じることは、彼から知識を受け取ることへの必要条件である。そして、信じることは、何らかの事柄を真であるとする態度である。人びとは知識にむけてこの態度をとっている。だが、だからといって、この態度が知識を定義づけたり構成したりするというわけではない。
  • 例えば、10セント札を貨幣であると信じてなくても、彼が、他人がそれを10セント札であるとする社会で生活しているなら、それは貨幣である。知識も同じことだ。pということを信じずに、pという知識を所持することはできる。他人がそれを知識であると我々に対してクレジットすればじゅうぶんである。

 

  • だが、Welbourne自身は、彼のフォーク認識論のなかで、知識の伝送とともに信念の伝送も行われるという可能性まで否定しているわけではない。だが、フォーク認識論は、知識伝統が失敗した場合の、信念の拡張についてしか述べていない。知識伝送条件が充たされなかったときに(たとえば、話者がその話題についてはコンピテントがない)、たんなる信念の伝送だけが起こる。ここでの信念伝送は、知識ではないような何らかのものの伝送である。

 

 

  • 証言についての「エビデンス・セオリー/証拠説」の拒絶
  • Welbourneは証言の「証拠説」というものを拒絶している。(1993;31)証言の証拠説によれば、証言からの知識は、以下の出来事の連鎖を通じて帰結する。①話者が、ある知識片を所持している。②話者が彼の知識片をコトバにして言い表す。③受け手はそのコトバを聞き、その内容を理解する。④聞き手は、その内容を、信念形成のプロセス上のひとつのインプットとして捉える。⑤聞き手は、その知識を所持する。このときの知識片は、話者によって所持されていた知識片と同一のものである。
  • この説は、フォーク認識論と相容れないものがある。

「知識の伝送が語られるときに、このような仕方はありふれている。だが、「証拠説」による描写は、誤っている。聞き手には、新しい知識が開始されている。知識の伝送は、話者が所持していた知識が、聞き手によっても利用可能なものとなり、知識として受け取られるということではない。証拠説によれば、世界は無数のバラバラの信念者を含むものであるが、しかし、いかなる知識共同体も含まない。」(1993;34)

 

  • 証言についての「オーソリティー・セオリー/権威説」
  • フォーク認識論見解が描くのは、証言の権威説である。知識は、あれこれと語られたことによって伝送されうる。
  • 権威説と証拠説は、討議の目的について異なる見解を持っている。

「ふたつの説の違いは、討議deliberationの目的についての見解の相違に現れている。権威説では、話者を信じるか否かが討議される。つまり、彼の発話が真正に知識を担っているのか、あるいはたんにそれを目指しているだけなのか、そもそも目指してもいないのか、いかなるものとしてみなすかと言う点が討議の的である。証拠説では、話者のpという発話は、pということが証拠によって保証された結論dふぇあるのかについて考慮するさいの一連の証拠のたんなる一片である。その発話が、話者に所持されている限りで知識を表しているという結論に達したとしても、自分自身は、それを知る以前に、その知識を得ることへのさらなる正当化が必要である。」(1993;35)

 

  • 「知識の共同体」

Welbourneの見解のうち、もっとも重要であるのが「知識の共同体」概念であろう。知識の伝送は、一人の人物から他人への「知識の原始的共同体」の構築であるとされる。「原始的共同体は、同一の事柄を知っており、互いにその知識を共有していることを理解しあっている2人の人物からなる。だから、それぞれは、もう一人に対してその知識を前提にして行為できるし、彼らは協働的に行為することもできる」(1993;25)。

  • もしも、2人の人物AとBが、あるアイテムpをもとに共同体をつくったとしたら、pと言えば、それぞれがpを知っており、もう片方もpということを知っているとそれぞれが知っており、もう片方もpということを知っているということを自分が知っているということももう片方は知っているとそれぞれが知っていることになる。
  • また、共同体は、「ダイナミックな性格」を持っている。AとBとの共同体は、AとBとによって、コミュニケーションの行為の産物として理解されている。さらに、AとBとは、彼ら自身がこの知識を「共有しているもの」として捉えており、また、彼ら自身がpということを事実として、真理として語ることにコミットしていることを理解している。そして、AとBとは、彼らが後にpということについての判断に失敗したならば、批判されうるのだということも受け入れている。こうして、pは、彼ら共同体における知られたことという地位を獲得する。そして、この段階において、pは「外的な客観的な観点」をしるしづけられることになる。(1993;52)

 

  • 知識の共同体と信念の共同体

Welbourneは、知識の共同体と、信念の共同体とを区別している。(1993;26)

  • 信念の共同体のメンバーは、彼らの信念の内容によって偶然的にのみ結びついている。
  • 例えば、今朝私が乗ったバスに乗っていた人びとは、みな、バスがある目的地に着くということを信じている。だが、彼らはみな、その目的地についてそれぞれ他の乗客とは独立に自分で信念を形成したのであり、他の乗客に自身の信念をパスするということにはコミットしていない。
  • Welbourneは、「知識」、「知識伝送」、「知識の共同体」の3つはそれぞれ区別されなくてはいけないとしている。
  • 知識は、他人に伝送される限りにおいて、つまり知識の共同体を創設し、拡大する限りにおいて、知識である。ここから、少なくともプロトタイプなケース以外では、知識とは孤立した個人が所有したり、個人が持つ性質などではない。それは、実際の、あるいは可能的な知識共同体のメンバーのもつ性質なのである。
  • だから、ある人がなにがしかを語ったとしてそれが知識として誰にも受容されていないならば、その彼は知識主体ではない。

 

  • Welbourne見解の問題点

彼の見解は、認識論の大きな文脈から考えるといくつか物足りない点がある。

  • まず、Welbourneの認識論は、フォーク認識論の再構成である。それは、知識とその伝送についての我々の語り方のパターンである。彼は、この日常的な知識理解を改訂しようとはせず、この常識的理解をメインストリームの認識論に対して打ち立てて見せている。もしも、認識論が我々の知識についての前理論的直感にそぐわないならば、その認識論は失敗しているというわけである。
  • ここで、メインストリーム認識論が、孤立した主体ベースの個人主義を採り、フォーク認識論が知識共同体ベースの共同体主義を採っているということは興味深い。このことは、ある歴史的な疑問を喚起する。フォーク認識論の直感を正当化しようとする試みは、個人主義に対していかにして屈してきたのか。また、彼の見解は、共同体主義的認識論がふたたび打ち立てられる契機となる。
  • また、信念ベースの知識観に反対した論者は、Craig、Popper、Radford、Vendlerなどがいるが、Welbourneの立場は、どの程度、決定的なものなのか疑わしい。
  • 彼の提案は、信念は知識に対するある態度である(なにかを真理とする態度)というものだ。これはワンサイドな見解であろう。我々が信念を、ある対象としてみなす事実(私はこの信念を長年抱き続けてきた)に対して何らかの抗弁が必要だ。また、我々は知識について、なんらかの態度とみなすこともある。(彼女がここにいることを私は知っている)
  • また「知ること」は、構文論的構造にのみ許容されて、「信じること」には共有されない。この点は、伝統的論者からするとよくわからない点であろう。信念と知識とのあいだの差異にかんして、Welbourneは表層的なところがある。

 

  • おそらく最も重要な貢献は、共同体を知識概念の中心にすえた点であろう。他人と共有された知識を語ることは、結局、それらに対してのエンタイトルメントとコミットメントを共有することである。
  • エンタイトルメントは、この知識を議論における前提とすること、そして、この知識を他人もそれを知識として判断するものとしての客観的で外部的な規準として指示することを含む。
  • コミットメントは、他人のエンタイトルメントに応えることを含む。この知識を打ち立てて、関心を持つ他の人びとに知識の新しいアイテムを広めようとすることである。

 

  • 共同体形成による新しい知識の発生
  • 知識の共有は、新しい主題の知識をつくるという点を指摘することで、我々はWelbourne見解の先を行くことができる。
  • そして、いったんこの共同体が形成されたなら、それは個々人よりも認識論的に先行する。なぜなら、共同体の成員としての個々人が、この共同体のメンバーシップから導出されたこの知識を主張することに対してエンタイトルメントとコミットメントをもつからだ。
  • 「我々のなかのひとり」として知っている個々人は、「カップルのうちの片方」として結婚するとか、「チームの一員」としてサッカーをするとかいったものと同じありかたをしている。
  • だが、Welbourneは共同体主義について部分的にしか擁護していない。とくに個人主義的見解のオルタナティヴについてはあまり詳しく述べるということはしていない。
  • おそらく個人主義的見解を持つ人びとは、Welbourneによる孤立した知識主体は知ることができないという主張に納得しないだろう。彼は、貨幣というものを使用しない共同体のなかにいる10ドル札を持った人物を、孤立した主体の直感的例として挙げている。しかし、これは直感的にも広く受け入れられるような例とは思えない。
  • なぜフライデー合流以前のクルーソーが島の動物相を知るようになると言ってはいけないのか。また、機械とか動物といった社会的ではない主体にも、知識を帰属することを我々は頻繁にしているようにも思える。だが、Welbourneはこれらの直感的な反例に応えようとはしていない。(これらの問題については、本書第二部にて議論する。)

 

  • 証拠説と権威説の違いとは?
  • また、Welbourneは、証拠説と権威説との区別にかんしてあまり明確ではない。彼は、「話者を信じるか否かについての対話」が、話者が語ったことを受容するか否かを決定することと同じであるのかどうかを明確化しなくてはいけないだろう。
  • おそらく違いは、対話のスコープにあるのだろう。権威説では、我々は個々の与えられた証拠について対話するわけではない。ある人物に対して我々の権威を与えることに決定したら、その人物が語る事柄【のすべて】を信用することになる、というのが権威説の筋書きである。
  • 証拠説は、そのような手続きは受け入れがたいとする。ある主張は、それぞれトークンとして、そのメリットを検討されなくてはいけないはずである。
  • 【証拠説は、トークンレベルで個々の発言に対して、その証拠・受容のための理由を検討する。権威説は、証言者が信頼に値すると決定されたら、その証言者の語ることはすべて受容される。ここで「対話」とは、証言者の信頼性についてのものであり、個々の証言の受容理由についてのものではない。】

 

  • トランスミッション
  • Welbourneは、すでにあることを知っている個人が、彼女の知識を別の人物に移送するという例を主に考えている。だが、これだと結局、共同体の知識よりも、個人の知識のほうが先立っているように思えてしまう。
  • だが、10ドル札が法的に貨幣であるのは、他人がそのように受け入れいているからであろう。その受容よりも先だって通貨が構成されているということはない。同様に、ある主張が、適切な仕方で、受容者によって受容されていること以前には、知識として構成されているということはない。
  • Welbourneの知識伝送についての2人シナリオは、別の観点からも誤っているように思える。まず、ある主張が最初に知識ステイタスを獲得することと、すでに知識としてクレジットされたものをパスすることとの区別がなされていない。また、彼は、知識共同体が形成されない場合の背景の説明に失敗している。この2つの問題点は結びついている。
  • なにかが知識として伝送されるときには、話者と受容者はすでに規範的文脈のなかに立っている。教師‐生徒関係のように。
  • 教師による生徒への知識伝送が、彼らのあいだに新しいコミットメントを創造する(また、彼らが知識共同体であると言ってもよい)一方で、このコミットメントと共同体は先行するエンタイトルメントとコミットメントの結びつき全体にビルドオンしている。
  • 教師が知識として伝送する主張は何であれ知識には違いないけれども、それら主張は、生徒の同意agreementがあってはじめて知識になったわけではない。生徒を教えるにあたって、教師は、知識共同体を(新しく)創造しているというよりは、拡大・増補enlargeしているのである。生徒はたいてい教師とのあいだにすでに先行する知識共同体を共有しているから、教師は生徒をこの共同体に引き入れることができる。
  • Welbourneは、この知識伝送の背景に関心がないから、彼の「話者を信じる」という概念はどこか薄っぺらいものになっている。じっさい、彼の分析のなかで、この概念は原始概念とされている。
  • でも、どの話者を信じているのかを、我々はどうやって知るのだろうか。また、「なにかを信じる」のではなく「誰かを信じる」という態度とは、どんな種類の態度なのか。
  • まず、どの話者を信じるのかだが、多くの場合、最も信じるべきひとは、「知識を共有している」ひとだ。つまり、権威的ソースについての知識は、それら権威によるある種の知識伝送のプロセスから帰結する。これは、知識共同体の形成は、先行する知識共同体を前提とするということを示している。
  • 次に「誰かを信じる」ということについて。おそらく、「信用」とか「参与スタンス」とかいったことを表現するためのコトバとして「誰かを信じる」態度というものを使うのはあまりよいやり方ではないだろう。
  • ある人物のコトバへの信用trustは、単なる信頼reliance以上のものだ。人びとへの信用は、道徳的性質のものだ。Richard Holtonによれば

「トラストとリライアンスの違いは、トラストが、信用を置く相手に対しての何らかの参与的スタンスparticipant stanceのようなものを含むという点にある。あなたが誰かについてなにかをすることを信用しているときには、あなたは彼らがそのことをするということに依存しており、ある仕方でリライアンスしている。それがなされなかったときの裏切りとか、なされたときの感謝とかいた感情についてあなたは準備がある。車が故障したときには、我々は起こるだろうけれど、友人が我々をがっかりさせたときには、我々は裏切られたと感じるだろう。誰かをトラストするということは、彼らをパースンとして扱うということなのである。」(1994;67)

  • つまり、「参与スタンス」は「対象スタンス」(つまり、パースンを、共同主体としてではなくて交渉の対象としてのみ扱う態度)と対峙させられている。

 

  • さて、Welbourneの分析は、彼自身はたじろぐかもしれないある自然な結論を導くと思う。それは、「知識」は貨幣のような社会的ステイタスであり、それだから、我々がステイタスを課すようなアイテムが存在してはじめて、知識が存在するといえる。
  • そして、ステイタスの集合的な賦課は、ローカルなトランスミッションを通じて、生じる。最初は、知識‐主張のトランスミッション、それから、知識アイテムとしてクレジットされたもののトランスミッション