knowledge by agreement をメモしておく。    ⑦共同知の生成

Perfprmatives and the Communitarian Epistemology of Testimony

 

  • HardwigとWelbourneの分析は、証言が知識の発生的generativeソースであることを示唆している。Hardwigは知識の対象に注目していた。証拠の集積が、いかにしてチームに世界についてより多くのことを知らせることになるのか。Welbourneは知識の主体に注目していた。証言はいかにして、知識主体をある特定のコミットメントとエンタイトルのもとに構成するのか。ここでKuschがなすことは、このObject面とSubject面を統合する理論を提示することである。
  • 新しい共同的な知識主体の共同体主義的な発生/生成は、知識対象を発生/生成させるプロセスと同一のタイプであると言いたい。以下で、「知識」一般の社会的ステイタスの発生と、ある特定の環境下でのステイタスの賦課とを、証言がいかにして結合させているのかいついて明確に述べる。以下の議論で下敷きになっているのは、Barnes、Bloor、そしてSearleのものである。
  • 先に、議論の構造を示しておく。議論は5段階になっている。

①ステップ1:行為遂行的証言が知識の発生的ソースであることについて述べる。

②ステップ2:「共同的行為遂行的」概念の導入。共同的な「我々」によってなされるような行為遂行的な発話というものが存在する。それは、「我々はいま、このディスクを硬貨とする」というような形式のものだ。共同的行為遂行的概念は、いかにして社会制度とか社会的ステイタスが構成されるのかについての我々の理解を助けるだろう。ここで、むろん「共同的行為遂行的」はフィクション的な概念であることを明記しておかねばならない。じっさいには、共同的行為遂行は、断片的に広く分配された形態で存在している。そして、共同的行為遂行の断片は、証言の他の形態によって実行される。

③ステップ3:ここまでの見解から自然に帰結する主張、証言はすべて社会的制度を構成するなかに含まれている、について検討する。

④ステップ4:「知識」はそれじたい社会的ステイタスであるという主張を確立する。知識の自然種アプローチと、知識の人工種アプローチとの比較をする。ここで、「知識」というステイタスが、いかにしてある特定の主張に(のみ)賦課されるのかについて明確に述べる。そして、そのような賦課・分配のプロセスのなかで合意が占める役割についても述べる。

⑤ステップ5:我々が所属する認識的共同体のなかで、証言者の選択をインフォームする仕方を提示する。そして、いかにして、また、なにゆえ、我々は話者の「正直さtruthfulness」とか「信頼性trustworthiness」を「修正repair」しようとするのかを説明する。

⇒これらの議論を通じて、「証言」と言う語は、「我々が(そこから)習得しうる発話utterances we can learn from」のいみで使用することにする。

 

 

(1) Performative Testimony

  • 行為遂行的言語行為は、証言というカテゴリーの内部にうまく取り込み可能である。この主張を擁護するために、行為遂行的言語行為が日常生活のなかで非常にありふれているということ、そして、「行為遂行的にあれこれ語ること」が証言としてカウントされたなら、証言は知識の発生的ソースとなることを示そう。

 

  • 従来的な証言モデル

行為遂行的証言モデルの骨格をよりみえやすくするために、伝統的認識論による証言モデルと対比させてみる。

 

〈従来モデル〉

                                    時刻t

pの成立 →続く

    aはpということを

知っている  →続く

              aがbに

                pということを語る

                      Bはpということを知っている →続く

 

  • ある過去の時点t1において、ある事態pが成立するobtain。
  • pについての証言者になることになるある人物aは、時刻t2において、この知識を得る。
  • 時刻t3において、aは別の人物bにpということを語る。
  • このことに基づいてbはpということを知る。

 

⇒ここで、

  • pの成立とpと語る(伝える)こととは、独立の出来事である。
  • 人物aの知ること(知るようになること)と、人物bの知ること(知るようになること)とは、完全に独立とはいえない。なぜなら、bが知ることは、aが知ることのおかげだからである。
  • だが、このリンクは外的ないし偶然的なものである。人物bはpということを他の仕方で知ることもできたかもしれない。じっさい、伝統的認識論の考え方では、人物bは、直接、自力でpと知ったほうが、認識論的には望ましいとされる。
  • 加えて、人物aがbにpということを伝えたあとには、彼らの関係は終わる。証言がなされる前にも後にも、なんらかの義務とか権利とかいった結びつきは、彼らのあいだに存在しないのが伝統的モデルの考え方である。
  • そして、このモデルが明らかに示唆していることは、証言が発生的ソースではないとうことである。人物aは、人物bにpということを伝えるけれども、何の新しい知識もそこで創造されることはない。
  • その理由のひとつは、「知識」がsingulare tantumと見なされているからだろう。一つ以上の瓶に注いだところで水の総量は変わらないのと同じく、知識の総量は、それを一人以上の心に注いだところで増えることはないというわけだろう。

 

 

〈行為遂行的証言モデル〉

 

時刻

AがBにpということを語る

↑↓

pの成立

↑↓

AとBがpということを

知ることによる共同体の形成

↑↓

Aはpということを知っている

↑↓

Bはpということを知っている

 

  • 行為遂行モデルは、pの成立、証言伝達を、分離した、連続的な、独立した出来事とみなすことを許さない。
  • 戸籍官吏Aが、カップルBにたいして、彼らは今から法的に婚姻関係を結んだと語るばあいには、AがBへそのように語ったことによって、またAが語った事柄についてのBの理解によって、官吏Aは彼らBを法的婚姻関係にあるものとするのである。
  • 官吏Aの行為が成功したことによって、カップルは、Aのあれこれというコトバを通じて、彼ら自身が結婚したのだということを知ることになる。このとき、Aの語り行為がそのような効果をもつということを彼らBは知っている必要がある。
  • さらに、このとき、AとBとは、pにとって、pはそれが獲得されるために本質的であるということへの共同的な知り方によって、知識共同体を形成する。つまり、AとBは、エンタイトルメントとコミットメントの結びつきに参入し、この結び目は、彼らのうちのそれぞれがpという主張にエンタイトルを与えることを示している。
  • 官吏Aはある特定の公式(「カリフォルニア州によって私に与えられた権限により・・・」)を使用しなくてはいけない。また、新郎と新婦は、彼ら自身をある特定の表現(たいていは「イエス」と言えばよいが)に制限しなくてはいけない。そして、pを後続の事実として指示することについて、各々が相手にコミットし、相手にエンタイトルを与えなくてはいけない。
  • より正確にいえば、「結婚する」と言う行為は、一人の人間が独力でなしうることではなく(またたんにパートナーがいればできるということでもなく)、「我々」によって第一義的に行為遂行されるような行為なのである。
  • 証言的行為遂行とは、pということが語られること以外に、受け手がpということを発見する仕方がないという場合である。結婚のばあい、行政官によって結婚を宣言してもらうほかには、何の手段もないだろう。行為遂行的語りを経由してのみ、ひとは婚姻関係下に入れるのである。
  • 行為遂行的証言とは、したがって、知識の発生的ソースである。pという知識は、語り以前には存在しないのだから。

 

⇒行為遂行的モデルのポイント

①行為遂行的言語行為は、自己言及的で自己妥当化的self-validatingな発話である。

  • 「私はいま宣言する」とかいった発話は、そのアナウンスがいまなされているそれである限りで、その発話それじたいを指示している。宣誓の以前に、宣誓されることはない。「私はいま宣誓する」というフレーズを使用することによって、宣誓することがなされ、その宣誓されたことがあなたに語られるのである。
  • また、適切な環境下では、行為遂行的発話は自己妥当化をなす。行為遂行的発話が、発話に先立つ独立した実在の真理ではないとしても、その発話じたいが創造するような実在の真理ではある。それゆえ、実施され成功した行為遂行的発話は、それじたいを真にする。

*自己言及性と自己妥当化は、行為遂行的証言がいかにして発生的であるかについての説明として機能する。

 

 

 

(2)共同体的行為遂行的証言

  • 上の事例では、行政官の証言が、新しい社会的事実:新郎新婦が「法的に婚姻関係にある」という社会的ステイタスを獲得した、をもたらす。ここで、行政官は、この社会的ステイタスを、新郎新婦に、彼のあれこれの行為遂行によって、「課している」。行為遂行的証言によって彼らに課される社会的ステイタスを所持するということは、この事例だけではない。すべての社会的ステイタス、社会的制度は、行為遂行的証言に依存している。

 

  • より複雑にはなるが、その存在が個人のあれこれの行為遂行に依存しているのではない事例を考えてみよう。制度やステイタスは、ひとりの個人の言語行為によって作られなくてはいけないわけではない。共同体の言語行為によってつくられることもありうる。
  • それは例えば、「我々は、このようにして、知り合いにあいさつをすることを表明する」という形式をもつ言語行為である。個人的主体が、共同体に置き換えられている。
  • ただし、ここでの共同体はむろんフィクショナルなものである。共同的な制度創造的な行為遂行的証言は、典型的には、他の言語行為にひろく分配され、断片化している。
  • 共同的な行為遂行は、決して明示的になされるのではない。それは、暗黙的にあるいは間接的になされる。
  • 共同的な行為遂行は、他のことをしている人びとによっても、実施されている。たとえば、通勤中に同僚にあいさつすることについて語っているときとか、じっさいに同僚にあいさつしているときとか、あいさつを返さないことを非難するときとかに、それらのすべてが、妥当な共同的行為遂行の部分を実施している。

 

  • 上記の点は、証言の認識論にとって重要なことだ。過去時制の証言であれ、また、CERNの物理学者たちであろうが、バスドライバーであろうが、同じように、それは行為遂行の一部である。
  • ほぼすべての証言は、共同的行為遂行にひろく分配されたものの一部として実施されている。ほぼすべての証言は、部分的には行為遂行的である。だから、ほぼすべての証言は、知識発生的である。そして、ほぼすべての証言は、社会的制度の構成のなかに含まれている。

 

  • 「社会制度social institution」

共同的行為遂行に広く分配されていることによって創造され維持されているものは何であれ、社会制度として考えられうる。

  • 「社会制度」の外延は、家族とか、国家、教会などももちろん含むが、権威、規則、分類法、知識主体、そして知識というカテゴリーそれじたいも、含む。

 

  • 共同的行為遂行が、他の言語行為にもひろく分配され断片化しているという事実は、行為遂行的言語行為が自己言及的で、自己妥当化的であるという事実を変更するものではない。
  • 社会的制度をつくるのは、共同的行為遂行的言語行為である。広く分配された遂行行為として、それじたいは、社会制度への指示の全範囲を通じて、またはその内部で、実施されている。
  • だが、この指示の全範囲は、それじたい以外になんの指示も持たない。あるひとつの共同的行為遂行的言語行為「我々は、このように、知り合いに正しく挨拶するということとして、表明する」は、その共同的行為遂行的行為を自己指示しており、自己妥当化している。
  • このことは、共同的行為遂行的言語行為のすべての断片が、完全に自己言及的で自己妥当化をなすということではない。どの断片も、制度の全体を構成しはしない。断片は、みなそれぞれ、社会的制度を、「ほぼ」ないし「準」独立な実体として指示している。

 

(3)行為遂行的証言としての陳述証言

  • 種の種類

社会種:貨幣、結婚

自然種:バラ、トラ

人工種:タイプライター、テーブル

  • 3つとも、その存在は、広く分配された共同的行為遂行的言語行為に負っているが、これらのあいだには、重要な違いがある。社会種として指示されること、それについて語ることをやめると、社会種は存在しなくなる。社会種は、究極的には、指示それ自体なのだから当然であろう。
  • 自然種はそうではない。語るのをやめれば、「トラ」というカテゴリーは消滅する。我々の共同体が、生後化し維持している動物の分類法が消滅し、トラとはどんなものかについての我々のイグザンプルとプロトタイプとが消滅する。だが、そうだとしても、我々がかつて「トラ」で指示していたものは、そこに存在し続けている。
  • 人工種の場合は、我々が語ることや行為遂行的言語行為をやめれば、タイプライターとしてタイプライターが存在することはなくなる。だが、それは、物理的世界に変化を加えたことではない。

 

  • 行為遂行的証言は、上の3つの種類のエンティティのすべてに含まれている。社会制度、(貨幣、結婚など)共同的に制度化され維持されている分類法とイグザンプラ(トラなど)、共同的に制度化され物理的に制作されている人工物(タイプライターなど)、すべてが、その構成について行為遂行的証言を必要としている。
  • 結婚についての行為遂行的ないし陳述的証言は、社会的制度としての結婚の構成に含まれている。
  • 同様に、トラや象についての陳述的証言のすべては、象とかトラといったカテゴリーを構成している共同的な行為遂行的言語行為の部分として実施されている。また、そのような実施によって、このカテゴリーの境界付けの規約的仕方を再強化re-enforceし、規約的イグザンプラーの囲い込みを助けている。
  • 同様に、タイプライターやペンについての陳述的証言のすべては、タイプライターやペンというカテゴリーを構成している共同的な行為遂行的言語行為を支えている。

 

⇒陳述的証言と、行為遂行的証言との関係は、複雑に絡み合っている。

  • 一方では、陳述は、共同的行為遂行を前提としている。我々が、結婚とか象、タイプライターについて何らかの主張をなすとことができるのは、我々の共同的行為遂行が、そのような主張をなすための制度化された分類法とイグザンプラを持っていることによる。
  • 他方、陳述は共同的行為遂行をパフォームする。陳述は、広く分配された共同的行為遂行にの断片として働く。

⇒ここで、陳述的証言の「ほぼすべての」ものが、なんらかの行動的行為遂行や何やらを支持すると述べたが、ここで、「ほぼ」と言っているのは、証言が拒絶される可能性があるからである。

あるケースにおいては、拒絶される証言は共同的行為遂行の部分ではないことをリーズナブルに想定できるだろう。もし誰かが、彼女の仲間が「象」と言っているものを「サイ」と呼んでいるのなら、彼女の語りは、象というカテゴリーの囲い込みに貢献しない。証言は、それが受け手によって受容されたときのみ、「妻」とか「象」とかいったステイタスを構成するのである。

 

 

(4)社会制度としての知識

  • どのような種類のものについての証言も、行為遂行的な側面を持つ。ゆえに、証言は、その指示について発生的であり、その指示についての知識について発生的である。そして、「知識」という概念そのものについても、そのステイタスは、証言的に発生的である。

⇒「知識」は、自然種か、それとも社会種か、あるいは人工種か?

*ここでは、証言的な知識に的を絞る。動物とか社会的に孤立している主体についての考察は、ここでは無視する。

 

①知識は、「象」のようなものだ。我々がなにを知識として取り上げたとしても、もしも我々が(「象であること」のイグザンプルと動物の分類法を制度化している)共同的行為遂行を維持することをやめても、そのなにかは(知識としてではないが)存在し続ける。

 

②知識は「貨幣」や「結婚」のようなものだ。知識の社会的制度は、共同的行為遂行が消滅したなら、消滅する。

 

③知識は「タイプライター」のようなものだ。我々が生産して「知識」ラベルづけをした物理的または心的プロセスは、我々が(「タイプライターであること」についての妥当な分類法を制度化している)共同的行為遂行をやめても、(そのようなラベルづけはなくなるが)存在し続ける。

 

⇒②が、ここでの分析には適合するだろう。だが、仮に我々が知識を自然種とみなしたがったとしても、我々は、共同的行為遂行的言語行為のもとで知識を理解しなくてはいけない。象というカテゴリーが、その共同的に制度化され維持されているイグザンプルとモデルをもつのを同じように、知識というカテゴリーも、同様のそれらを持っているからだ。

 

⇒だから、知識は、社会的ステイタスが、それは共同的行為遂行によって制度化される。「我々はこのようにして、ユニークで、真理の共有的な所持の存在を表明し、これをもって「知識」と呼ぶ。」

  • 知識は、それについての指示によって制作された社会的指示である。そして、それら指示は、証言によって発生する。
  • それは、なにかが知識であるという主張とか、知識ではないという主張とか、知識として証明しようとすることとか、知識を疑うということとか、そのような可能な指示の全範囲を通じて、発生している。
  • 証言によってステイタスを帰属される知識は、証言を通じて制度化されている。

 

  • むろん、このような知識としてのステイタスは、一般的に与えられるのではなく、個々の主張と結びついて与えられる。では、我々は、個々の主張に対して知識ステイタスを与えることについて、いかに考えることができるか。

⇒証言の事例は、「知識」ステイタスは、認識的コミットメントとエンタイトルメントの結び目において、証言者が共同化するために、獲得されるのであった。つまり、「知識」ステイタスは、「知識の共同体」に証言者をジョインさせることによって、獲得されるのだ。

 

  • 証言による知識の共同体形成

時間

 
   

 

 

pの獲得

AはBにpということを

確信させることができると思う

AがBにpであると語る

 

BはAとともにpに同意する

     

AとBとはpということを

知っているということによって

共同体を形成する

 

Aはpということを知っている

 

Bはpということを知っている

 

 

 

 

  • AからBに報告される事態pは、Aの語り以前に成立している。
  • 次の段階は、Aはpということを知っているではなく、AはpということをBに確信させることができると思う、ということだ。こでは、個々人は、孤立した状態でも社会的ステイタスについての主張をなすことができるが、個々の彼らは、現実にこのステイタスを課すことはできない。さらに、この第二段階はオプショナルである。証言にとっては、この段階は可能である必要はなくてもいい。
  • 第三段階で、AはBにpということを語り、次の段階でAとBは知識の共同体を制度化する。
  • 第四段階は、行為遂行が議論に入る段階である。PがAとBとを知識共同体として制度化するか否かについて、BがAに同意するかどうかという段階だ。この共同体形成は、共同的行為遂行をイニシエートし、共同的行為遂行「我々はこのようにして、我々自身を、pの認識的主体とし、それゆえ、知識の一般的制度が提案する仕方でpを使用することにコミットしエンタイトルを持っている」を維持する。
  • むそん、現実的には、この共同的行為遂行は、AとBがそのような行為と発話をなすことにおいてpを使用するという指示のすべてにわたって断片化され分配されている。

⇒AないしBがpを知っていることは、彼ないし彼女が我々とおして制度かされた共同的知識のメンバーである限りにおいて、そうである。Aが知っているのは、彼がWe内部の社会的ステイタスを持っているからだ。そして、彼は、彼ひとりでは、このステイタスを獲得できない。

  • むろん、Aの主張がすでに知識ステイタスを持っており、BがAとすでに共同体を形成している場合もある。そのような、例えば教師‐生徒関係などの文脈においては、pは「事実として考えられていること」である。
  • 自然なケースでは、知識は、知識共同体のメンバーではない誰かに帰属される。AとBは、Cが単に推測しているだけで、自分になんの能力もないと思っているときでさえ、Cが明日の天気についての信頼可能な証言者/知識主体であると決定するかもしれない。そのようなときには、エンタイトルメントとコミットメントは、AとBのみによって実施されている。

 

(5)バックグランド・コミュニティ

  • 証言者への同意が、明確な形式をもっていないことを許容すると、証言者への態度として多様な可能性があることになる。それは、証言者の批判的吟味から、証言者の無批判な受容まで、様々であろう。
  • 異なる状況・異なる主張、それぞれに応じて、異なる態度がありうる。その文脈においてどのような態度が適切であるかは、我々の大部分が、異なるタイプの人びとや状況についての我々の経験を基盤にして知っているようななにかである。
  • 証言者の社会的ステイタスは、我々に、どのような態度が適切なのかを示唆するだろう。あるいは、我々の社会化は、いかに証言を評価するかについてのマキシムの教育を含むのかもしれない。たとえば、そのようなマキシムの一つの例として、シェイピンは、17世紀の事例から以下のようなものを引き出している。

 

「(1)証言について、それが妥当Plausibleであるかを評価する。(2)証言について、それがMultipleであるかを評価する。(多様なソースを持つか否か)(3)証言について、それが一貫しているかを評価する。(4)証言について、それをimmediateであるかを評価する。(報告された出来事のはるか後に与えられたのではなく)(5)証言について、それを知りうるものか、熟練したソースかを評価する。(6)証言について、それが確信をもった仕方で与えられたかを評価する。(7)証言について、そのソースが定評のある統一性と偏向のなさをもつかを評価する。」(1994;232)

 

⇒このような規則が広く受容されているなら、これら規則じたいも社会的制度となるだろう。このようにして、規則は影響を与えると同時に作られているような社会制度なのだ。つまり、規則は、証言の生産と、証言受容への影響(評価)の両方をなしている。

 

  • このような規則のもとでの知識は、唯一のものではない。上の七つの規則は、どれも互いに独立である。それらは、それぞれ異なる仕方で優先性を持つことが可能であり、その適用について避けがたい循環も起しうる。我々の社会化によって我々に獲得される社会的世界の知識は、よくいって、「暗黙のスキル」としての性格をもつという事実を避けることはできない。我々は、だいたいにおいて正しくものごとを得るが、どのくらい我々が正しくそれをなしているかを知るすべはない。

 

  • 我々が知っているか否か、誰を信頼すると決定するか、という問題は確かに厄介である。思うに、ウェルボーンは、この問題に頭を悩ませていたから、証言が共同体を作成する仕方にばかり注目して、証言が共同体を前提としている仕方について無関心だったのだろう。
  • すべての証言は、分類法とかイグザンプルとかいった以前の社会的制度の存在を前提としている。だが、以前のものに対して、証言が前提し共同体を含んでいるような別の仕方を導入するだろうことも結論してよいだろう。
  • 社会的制度は、いちどにすべてが作成されるわけではない。その時間を通じた維持は、参与者のコンスタントな相互作用に依存している。「コンスタントな相互作用」は、むろん、ある一面であるが。
  • つまり、参与者が語っていることにおいて、繰り返しの、持続的な指示が必要であるということがポイントだ。だが、そのような一般化は、社会的制度一般と、証言の社会的制度について、なにかを見失うことにつながる。それは、共同体において構成される「修復」の役割を見失うことになる。
  • 修復は、社会的制度を、共同体のメンバーが、その機能を中断したり、壊したりしないための理由を与えることによって、社会制度を保護することである。