knowledge by agreement をメモしておく。    ⑧二部に入る。

Ch7 Questions about Rationality

第二部では、経験的知識一般の認識論として共同体認識論を提示したい。つまり、第一部の議論の一般化を行うことになる。

 

  • 経験的知識の認識論における問いの階

チェスをしているとして、

合理性についての一階の問い

「ゲームのこの段階においてこの動きをすることは合理的か非合理的か?」

⇒その時点の盤面、特定のプレイヤー、プレイヤーの能力に応じて判断される。

 

合理性についての二階の問い

「チェスの手については、なぜ「合理的か非合理的か」の二元論があるのか?、なんらかの手を合理的としなんらかの手を非合理的とする制限はなにか?、チェスの動きは、合理的に制限されているのか?、合理的な手をそうではない手を区分することが可能である領域の境界線は存在するのか?、この境界線は何に制限されているのか?」

⇒チェスゲームの一般的性質に言及しそれを説明しないと答えにならない。勝敗の決め方の規則、駒の動きの規則、戦略的なもの、心理的戦略、など。

 

  • 経験的知識の認識論の探求は、二階の問いに焦点を当てるものである。

階の区分をしたうえで、認識論の主題となるのは、真理と合理性である。

 

  • 一階の真理についての問い。「この経験的信念は真か偽か?」
  • 二階の真理についての問い。「真偽の二値性はなぜ経験的信念に適用されうるのか?、なんらかの経験的信念が真や偽であるようなさいの、経験的信念の制限とは存在するのか?、経験的信念について真と偽とを区分することが可能な領域の境界線は存在するのか?、その境界線を制限するものは何か?」
  • 一階の合理性についての問い。「この経験的信念を保持することは合理的か非合理的か?」
  • 二階の合理性についての問い。「経験的信念について合理的・非合理的との区分は、なぜ適用されうるのか?、なんらかの経験的信念が合理的であるとか非合理的であるとかすることが可能であることのための制限は存在するのか?、経験的信念を合理的、非合理的に区分することが可能な領域の境界線は存在するのか?、その境界線を制限するものは何か?」

 

  • 経験的知識についての認識論は、二階の真理についての問いを扱うことがない。多くの論者は、なんらかの対応説のバージョンを想定しており、彼らは対応説によって真理についての二階の問いに対しての近似的解答を与えようとしている。すなわち、経験的信念が真や偽となりうるのは、信念が世界のことの事態について目指すからである、というように。信念はそれが指示することの事態に対応したなら真であり、そうでなければ偽である。⇒この点については第三部であつかう。
  • 第一部では、合理性の第二階の問いについていかに答えるか、についていくつかの提案を行った。これら提案によると、経験的信念についての合理的/非合理的は、信念と以下のものとの関数的関係である。
  • 経験、
  • 他の信念、
  • 世界、
  • 信念の原因、
  • 信念者の対象把握能力、
  • 社会的制度

⇒認識論者は、「合理的・非合理的」の区分よりも、「正当化された・正当化されていない」というものを扱いがちであるが、本書の立場では、「合理的で真なる信念」とは、「正当化された真なる信念」でありかつ「信頼可能に引き起こされた真なる信念」である。

⇒とはいえ、これまでの立場はどれも二階の合理性の問いに適切に解答することに成功していないというのが本書の主張である。共同体的認識論へのシフトのみが正しい解答を与えることができる。

 

  • 共同体的認識論における合理的な経験的信念

「経験的信念は、個々の諸信念の帰属者が認識的共同体のメンバーであるときにのみ、合理的であったり非合理的であったりしうる。」

  • 人間同士の社会的関係のみが規範性の源泉となりうるのであって、それこそが合理性とか非合理性のための基準の源泉なのである。

 

第二部での議論は、近年の認識論の合理的再構成という形を採る。共同体的認識論の利点を強調するためである。このほかの競合的立場も含め、6つ;基礎付け主義、整合主義、信頼性主義、直接実在論、文脈主義、共同体主義、を挙げてそれぞれ検討する。

 

  • 規範的/記述的の二分法について。

合理性についての二階の問いは、規範的認識論と記述的認識論の区分について何を語るか?

⇒共同体的認識論は、知識社会学の記述的プロジェクトに非常に近い。

⇒だが、他方で、認識論的立場のいくつかとしてここで言及しているものは、一般的に規範的認識論として理解されている。

では、共同体的認識論が、規範的認識論が取り組む問いに対して解答を与えうるといえるのだろうか?

⇒二階の合理性についての問いの特別な性質がこの問題に答えてくれる。

  • この問題に答えないと、規範的認識論の形式化は不可能だろうか。何が経験的信念についての認識論における規範的なるものなのか。
  • たとえば、「整合によって正当化されるから」といったように、規範的認識論は、信念保持の合理性についての制限を設けることによって、自身の立場を規範的であるとする。整合は我々にとってそのような合理的制限であるべきなのだ、というわけだ。
  • この点で、規範的認識論は記述的認識論に対して2つの点で反対の立場であることになる。まず規範的認識論は、人間心理に訴えて自身の規範的立場を正当化しようとする。そして、我々は整合を抽象的なアイデアとしてではなくて、じっさいの我々の正当化基準として採用すべきだ、とする。どちらの方向も、決して明瞭ではない。
  • 規範的認識論にしても、我々がそうであることについてのコミットメントを避けられないが、しかしそれについて明示的に言及されることは少ない。