knowledge by agreement をメモしておく。   ⑨基礎付け主義と整合主義

Ch8 Foundationalism and Coherentism

  • 20世紀の英米系認識論の議論は、基礎付け主義VS整合主義を軸に展開されてきた。両者はいくつか共通の基盤を持っている。
  • 知識の古典的見解:「正当化された真なる信念」

⇒知識は信念種ではない、正当化は知識条件として必須ではない、という立場はこの論争の外にある立場ということになる。

  • 個人主義的で内在主義的
  • 経験的信念についての2段階モデル(個人的な心への因果的出来事+世界についての合理的な制限をもつ内部的心的出来事)

 

Introducing Foundationalism and Coherentism

非常におおざっぱにいえば、

  • 基礎付け主義は、世界についての私(認識主体)自身の信念によって経験的信念は基礎づけられなくてはいけないという立場。私の信念を正当化するのは私の経験である。
  • 整合主義は、信念を正当化するのは他の信念ののみとする。正当化とは命題的アイテムのあいだの関係のことである。

⇒どちらもバード・アイ的な見解。

  • 外部世界→経験領域→信念領域、という図式は共有
  • 信念内容は「命題」である。命題は、真か偽である候補としての言明のようなものであり、我々が信じている事柄。
  • 真偽の候補ではないものは非命題的な内容である。これは、存在existenceか非存在nonexistenceの候補である。たとえば、痛み経験などは非命題的で、ある時点において存在しているかいないかのどちらであるが、真か偽のいずれでもない。

⇒3領域区分はほぼすべての認識論的構図が共有しているが、正当化関係と因果関係をそれぞれ異なる境界に置く。いま、ある経験が「概念の空間」の内部にあるといったときには、その経験が本質的に概念を含んでいるときであるとする。(ひとは「ジャズ」とか「40年代」とかいった概念を得ていないと、「40年代のジャズ」として音楽を聴くことはできない。)

 

  • 基礎付け主義の構図
  • 基礎付け主義はしかし、非概念的経験が存在するとする。非概念的諸経験は、「理由の空間」において「XはYを正当化する」というようなXやYとなりうるようなものである。
  • 外部世界が因果的に経験領域に衝突する。このときの因果的なものは非命題的。
  • 経験領域の内容は非概念的であり、いかなる概念や命題的構造にも先立つ「所与」である。
  • 経験領域の要素が、信念領域の要素を正当化する。したがって「理由の空間」は、経験領域と信念領域とをカバーする。
  • 正当化のされ方は「基礎的」信念と「非基礎的」信念とで異なる。基礎的信念は、経験によって直接的に正当化される。非基礎的信念は信念領域内部で、他の信念から推論されうるときには、正しい/合理的/正当化されている。ただし、推論の鎖は最終的に基礎的信念に行きついて停止しなくてはいけない。

 

  • 整合主義の構図
  • 「理由の空間」は信念領域のみ。
  • 経験領域は、外部世界と同じく「a-rational」なステイタスであるが、経験領域は概念的。
  • 外部世界と経験領域は信念領域に対して、合理的というよりは因果的制限をかける。外部世界は感覚を引き起こし、感覚は信念を引き起こす。
  • 信念が産出されたら、それは正当化されるか否かを評価される。その評価は信念領域内部の他の以前の信念との「fit」による。信念を抱くことの理由は、他の信念以外にありえない。
  • 経験領域は概念的であるが、命題的ではない。
  • 信念は、経験によって正当化されることはないので、基礎的信念を措定する必要はないが、だからといって、どの信念も経験から同じ距離であるとまで主張する必要もない。ポイントは、感覚が合理的ではなく因果的な働きをする点だ。

 

  • 政治体制とのアナロジー
  • 基礎付け主義にとって、「認識主体」とは「神権政治」性のものだ。ある信念社会の成員の各々は、そのランクを「生まれ持っている」。つまり、その信念が「基礎的」か「非基礎的」なのかは、信念の生来的性質によって決定されていることだから。
  • 「基礎的信念」は社会の支柱である。知覚経験の「所与」に最も近似したステイタスをもち「信念を超えた世界」と接している。非基礎的信念は、基礎的信念を介して間接的にしか世界とつながることができない。

 

  • 整合主義は、古いタイプの平等主義に似ている。指導者の地位は生まれ持ってのものではなく、勝ちとるものである。どの信念がより重要なのかは、他の信念との関係から決定される。
  • 不一致は容認されない。すべての信念が他のすべての信念とフィットしなくてはいけない。整合主義内部でもいくつかの立場があるが、新しい信念は既存のネットワークのなかにその位置を勝ち取らなくてはならず、競合信念がある場合には、よりフィットするほうが採用される、とする立場もある。

 

A Communitarian Critique of Foundationalism and Coherentism

  • 両者とも、経験的信念に対しての合理的制限が可能であるとしているが、著者のみたところ合理的制限はどちらの立場の場合も機能できないように思える。

⇒個人的‐心理学的事実とか世界の事実とかいったものは、規範的なものではないので。事実や出来事は心に対して合理的に制限できない。それができるのは規範的なもののみである。

⇒規範とは、ある特定の事実の存在がなんらかの行為を生じさせるべきであるという点に依存しているが、この両者の図式にはそのような規範的契機は存在しないように思える。信念の変更や改訂がいかに起こるのかについて両者とも規範的に説明できない。

 

  • 第一の批判:「である/のようにみえる」区分
  • 正しさの説明は、「正しいこと」が「正しいようにみえる」といかに異なるかを示せないかぎり適切なものとは言えない。「この行為は正しいようにみえるが、じっさいは悪いことだ」という言葉づかいを習得しないと、ひとは「正しい」と言う概念を使えているとはいえない。

⇒「である/のようにみえる」のコントラストは「正しい/悪い」の言語ゲームのコア。

⇒このコントラストを無視した「正しい/悪い」の説明は機能していない。

⇒「正しい」とされていることが、他人によって、それはたんに「正しいようにみえる」だけであると批判され訂正されうる仕方を示せないといけない。つまり、「である/のようにみえる」は、我々自身の私秘的判断から他人がいかに逸脱しているか、についての我々自身の評価のコアになっている。

 

  • ウィトゲンシュタイン見解は、一人の個人が彼自身を正す可能性を否定していない。たいていの場合、我々はそのようにしているのだし。

例)私は、書斎にいるが外から騒音が聞こえるので、ドアが開いていたのだろうかと思ってみてみると、ドアは閉まっている。このときの私の信念の経緯は以下のようになる。

a) ドアが開いていることは正しい

b) ドアが書いていることは正しいように思える

c) ドアが閉まっていることは正しい

つまり信念c)のもとで、信念a)からb)への移行がなされたわけだが、

…だとすると、「正しい/正しいように思える」はまったく個人のレベルで完結するものだといえるだろうか?

⇒いえない。

信念c)は、新たな信念d)ドアが閉まっていることは私にとって正しいように思える。と同じステイタスでしかない。

⇒後退を止めるには何が正しいかについての何らかのスタンダードに訴えることが必要である。このような規範的スタンダードは個人の判断から独立したものでないと、再び個人の「と思える」とぶつかってしまう。

  • スタンダードは、世界内の事実とか対象ではありえない。それじたい規範的なものではないからだ。ドアについての諸事実は、それがそのように理解されなくてはいけないことを何ら固定しはしない。事実や対象がスタンダードでありえるのは、それらがスタンダートとして採用されたときそのときのみである。
  • 個人の判断と対象についての事実は、したがってスタンダードではありえない。

⇒共同体のみがスタンダードとなりうる。大部分の人間にとって正しいように思えること、つまり集合的な「正しいように思える」が、我々が「正しい」を得る手段である。

⇒個人の判断を超えていて、(個人の引いた「正しい/正しいように思える」をくじくことがありえて)しかし、それじたいが無謬なわけではないスタンダード。

 

 

  • 基礎付け主義と整合主義の失敗
  • 基礎付け主義が、「正しい/正しいように思える」の差を与えられていないのは、基礎付け主義の立場では、知識の基礎が原則的に個人の認識主体にしかアクセスできない場所にある点からくる。
  • 非概念的経験は他人とシェアできない。また、同一人物でも、他の時点とはシェアできない。
  • 非概念的経験についての記憶とか証言は、それら経験それ自体の実体ではないので、究極的基礎のステイタスは欠落している。
  • 逆にある所与の時点においてある認識的実体が正しいと思われるのであれば、そこには他人や自分自身による訂正の余地はない。

 

  • 整合主義の場合も同じである。既存の信念とのフィットを判断するのは、その時点での認識主体本人でしかありえないのであれば、与えられた時点での所与の認識的実体の判断について、合理的に評価したり訂正したりする余地はない。

⇒どちらも「正しい/正しいように思える」の差異を説明できない。

 

  • 第二の批判:「不変主義」と「心理学主義」
  • どちらの場合も、正当化の文脈的性質を無視しているときには「不変主義」である。【正当化についての不変主義】正当化は、置かれた文脈ごとに変化するものだ。その文脈に応じた適切な正当化のタイプというものがある。
  • たとえば「このレントゲン写真の中央に影がある」とかいった主張の正当化を、患者とかジャーナリストとかのグループに負わせようとは思わないだろうし、この主張に依存するべきであることは、この主張が医者とか理学療法士とかいったプロフェッションの主張であるからであろう。
  • しかし、基礎付け主義は、いかなる文脈においても、ある信念は基礎的で、ある信念は基礎的ではない。そして、整合主義者のいう整合性はローカルな性質ではなく、(信念のある部分集合だけの整合ではないということ)ある時点での個人の信念全体の性質である。

 

  • 正当化の不変主義は、要は正当化の社会的性質を無視していることになる。そして、これは、認識論的に有徳なステイタスを心理学的なものとして描こうとする心理学主義を導く。
  • 特定の信念タイプに応じた言語ゲームに従事することによって正当化された信念は、特定の認識的スタンダードに応じて正当化されている。言語ゲームは、我々の理解や直観を正当化に従って固定していく。
  • 社会的に孤立した信念についても、正当化は社会的である。基礎づけ主義と整合主義とは、「信念が正当化されるためには、いかに信念が他の信念と関係しなくてはならないか」という問いを回避するために、認識的に高度な地位を、心理学的タイプとして設定しているわけだ。どちらにしても、心理学的内観主義を採っている。
  • 認識論的に有徳な地位は、心理学的なものではなく、社会的なものである。そして社会的ステイタスは、変化するものであり、文脈可変的である。