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knowledge by agreement をメモしておく。   ⑩直接実在論と信頼性主義

Ch9 Direct Realism and Reliabilism

  • 直接実在論
  • ここではマクダウェルの立場を「直接実在論」の代表とする。この立場は、基礎付け主義と整合主義にとっての共有前提「外部世界と認識主体とのあいだの境界線は、因果的に超えられる」というものを拒否する。
  • ありていにいえば、理由の空間の内的/外的の境界を排除して、概念と命題とを同じものとする。これによって、因果的衝突と合理的制限との折り合いをつけるという問題は解消される。経験的信念は、それが世界がそうである仕方とフィットしていれば正しい。

 

  • 信頼性主義
  • 信頼性主義は、直接実在論と同じく、因果的衝突と合理的制限との二元論(2ステップモデル)を捨てるが、直接実在論が合理的制限一元論であるのに対して、信頼性主義は因果性一元論である。
  • 要は、信頼性主義には「理由の空間」がないということだ。あるのは因果的規則のみである。信念が合理的であるのは、それが信頼可能な方法によって産出されたときそのときのみである。ここでの方法は、それを採用した場合に長期間高い頻度で真なる信念を産み出すものである。
  • 認識主体は、方法が妥当か否かについて知っている必要はない。合理的制限は、ただただ因果的な制約でしかない。つまり、信頼性主義にとっては、正当化と因果性は同じものである。(また、非概念的領域とか概念的領域とかいったものは、信頼性主義にとっては認識論的になんら役割を持たされてはいないので、とくに言及されないことが多い。)

 

⇒おそらく、信頼性主義にとっては、概念とか命題的構造を所持した世界というアイデアはわけがわからないだろうし、直接実在論にとっては理由の空間なき認識論など想像もつかないだろう。

 

Direct Realism:5つのポイント

①すべての経験は概念的である。概念能力は経験におけるオペレーションである。非概念的内容というものは存在しない。

②カント的領域区分へのツイスト

  • 経験領域と信念領域とを区分し、経験領域は「受動性/感性」の場、信念領域は「能動性/悟性」の場とする。経験においては我々は受動的に情報を受け取り、それを能動的に信念として形成する。
  • マクダウェルはカント図式を2つの点で変形させる。まず、概念化能力を、異なる2つの種類として位置づける。ひとつは、受動的モード、もうひとつは能動的モードとして。そして、我々が経験的能力における概念的能力(受動モード)を同定できるのは、我々が思考の役割によってそれらになじんでいる(能動モード)ときのみであるとする。
  • 我々の信念が世界からの合理的制約を受けるためには、受動的な部分が必要である。もしも、概念的能力が経験において能動的であったら、世界についての信念が、世界から受ける制約が欠落してしまう危険がある。

③形式/内容の二元論を捨てる。

  • 経験が概念的であるならば、我々は世界を概念的形式としてしか直面できないだろう。非概念的内容と形式としての概念枠という区分は捨てるべき。
  • 世界が概念的形式において「我々に現れる」ときには、我々は世界がその形式を「持っている」と受容しなくてはいけない。
  • 概念的領域に境界線がないということは絶対的観念論であるが、マクダウェル本人は、もしも概念的領域にはその外部がないという主張が絶対的観念論のものであれば、自らがそのように呼ばれてもかまわないとする。

④絶対的観念論による直接的実在論擁護(因果性の排除)

  • すべてが概念的であれば、認識主体と認識される世界とのリアルな境界線は存在しない。世界について何らかのことを知るようになるプロセスのなかには、因果性によって架橋されるような媒体の変化とかギャップとかは含まれない。
  • 認識主体が正しい種類のオープンさをもっていれば、彼は世界について世界がそのようになっている仕方を把握することができる。

⑤伝統と教育

  • 個人が世界とリンクした概念を獲得する場は、伝統と教育である。教育によって文化的伝統の成員になることを通じて、概念的能力を獲得し、理由の空間へと移動する能力を獲得する。

 

  • 信頼性主義
  • 信頼性主義のポイントは、信念が知識であるのは、それが非偶然的な仕方で真であるときである、というものだ。幻覚とか推測によって獲得された信念は知識とはなりえない。それらはたいていの場合真なる信念を導くようなプロセスではない、つまり「信頼可能なプロセス」ではないからだ。
  • 「信頼可能なプロセス」に焦点を当てるのが「プロセス信頼性主義」である。(ゴールドマンが代表的)誰かがある命題pを知っているのは、pであるような状況でのみpという信念を引き起こすような方法によって彼がpを信じているとき、かつそのときのみである。
  • プロセス信頼性主義の一派には「徳認識論」というものもある。(徳認識論は、Kvanvigなとのいわゆるアリストテリアンアプローチの認識論とは異なる。)あるプロセスを、それがたいていの場合に真なる信念を導くものであるときに「認識論的に有徳」というとする。ゴールドマンの場合には、「有徳」なプロセスとして、知覚、記憶、推論を採っている。一部のアリストテリアンはこの知的能力として「有徳」性をアテンティブネスとかオープンマインドネスとかを挙げる。
  • 信頼性主義が他と異なるのは、認識主体である人物が真なる信念の基盤となっているものについて知らなくても良い点である。私の記憶が信頼可能であれば、私の記憶によって獲得された信念は、知識を構成している。もしも私が、私の記憶が信頼可能であることを知らない場合でも、この信念は知識である。同じことが知覚にもいえる。
  • 従って、信頼性主義は、基礎的信念とか、経験の性質とか、信念全体の性質に対して、認識主体はいかなる仕方でアクセス可能なのか、というタイプの他の立場の場合に生じている問題が生じてこない。
  • 多くの信頼性主義は自然主義を採用するので、何が信頼可能なプロセスを決定するのかは、科学的ないし経験心理学的な問題であるとしている。
  • プロセスというよりも知識そのものに自然主義を適用した信頼性主義の一種がコンブリスのような「知識の自然種アプローチ」である。この場合には、知識そのものが自然のなかの現象であり、経験的探究の対象となる。

 

 

 

 

A Communitarian Critique of Direct Realism and Relialism

 

  • 外在主義の問題

信頼性主義の最大のポイントは外在主義であることだ。認識主体は、自身の真なる信念の正当化に対して一人称的アクセス可能性を持っている必要はない。私が私の信念は非偶然的に真であることを疑っていたとしても、私が信頼可能なプロセスによってその信念を獲得していれば、私には知識が帰属される。つまり、信頼性主義には、知識の「帰属者」と「被帰属者」が必要である。

  • 信頼性主義は、したがって「どこからでもないながめをもった認識論」である。知識帰属者は、認識論的探究のトピックとしてというよりもリソースとして扱われる。私に知識を帰属するときに、あなたは理由の空間に入るが、知識の被帰属者である私は理由の空間と何のコンタクトも持たなくて良い。
  • だが、だとしたら、知識帰属のプロセスについての半分の真理しかないはずだ。規範性は、被帰属者ではなく帰属者にとってしか決定的役割をもたない。

⇒この点はコミュニタリアン認識論にとって問題となる。というのは、コミュニタリアンにとって知識とは社会的ステイタスであり、それゆえ認識主体は単一というより複数である。信頼性主義は、第二のポイントに訂正を迫るように思える。

  • というのは、信頼性主義が正しければ、知識帰属者は、被帰属者といかなる種類の認識的共同体を形成せずとも、被帰属者に知識帰属を行えるからである。
  • コミュニタリアンの側からの反論はまず、このような事例はきわめてまれであるということだ。信頼可能な真なる信念が認識的信頼可能性について無知であることはあまりありふれた事態ではない。
  • 信頼可能な真なる信念はたいていの場合、その信頼可能性の程度を認識されているはずだ。ゆえに、彼らはその信頼可能性について議論できるだろうし、他人にそれを説得できるだろうし、他人と信頼可能な信念をシェアできるだろう。
  • つまり、信頼可能な真なる信念は一般的にエンタイトルメントとコミットメントのプロセスに組み込むことができるだろうし、したがって彼らの対話者との間に認識的共同体を形成できるだろう。

 

  • 第二に、信頼可能な真なる信念を持った人物が自身の信念プロセスの信頼可能性について無知であるような特殊な場合であっても、認識的共同体は重要な役割を持つ。
  • 私の信念が信頼可能で真であると主張する場合に、帰属者であるあなたは、私の信念と私の信念についてのあなたの信念の両方の認識的社会的ステイタスに依存しているだろう。私が知識を持っているためには、あなたは他人と認識的共同体を形成していなくてはいけない。
  • もしもあなたが、私の信念についてのあなたの信念についての認識的共同体を形成しているのであれば、そのとき私の信念もまた同一のステイタスをもっている。私の信念は従って複数の主体を持っている。あなたと、あなたの対話者、そして私はみな、同一の信念をシェアしている。ただし、相互に行き来できる認識的共同体を形成しているのは、あなたとあなたの対話者のみである。

⇒だが、信頼性主義者は、知識帰属者について言及したがらない。それで知識帰属のための交渉とか正当化とかいった社会的側面は議論の前面に出てこない。知識がアルミニウムのような自然種であるかのように設定できるのは、そのせいだろう。

 

  • けっきょく信頼性主義は、規範性を説明できない。経験的信念がいかに世界とか他の認識主体とかなんらかの社会的/自然的ファクタから合理的制約を受けているのかを示せない。
  • 温度計が信頼可能な仕方で気温を指示しているのと、信頼可能な信念が真であるのとは、信頼性主義にとっては、同じことである。信頼性主義は、気温と水銀の高さとのあいだの法則的結合のように、知識帰属を考えているのだろうか。知識の帰属は、それ以上の何かであるはずだ。
  • 温度計は、何か他のものに対応しているのだから、それについて評価されなくてはいけない。異なる共同体においては、それは受け入れられたり拒絶されたりする。また、「じゅうぶんによい」とか「正確すぎる」とか与えられた目的に応じて評価される。「それがそうであるべき仕方でふるまっているか否か」を判断されなくてはいけない。
  • 信頼性主義は、これらの規範的問題について何も述べない。

 

 

 

  • 直接実在論の問題
  • マクダウェルは、我々が世界に対して開かれることの要因として伝統を挙げている。これはおそらく正しい。だが、この主張をガダマー=ヘーゲルに依拠したのはまずかった。
  • マクダウェルの図式だと、規範性および合理的制約は、個人-その個人の伝統-世界の関係からできている。世界は個人の経験的信念を制限し、個人はそのように供給された制約を、理由の空間へと適切に社会化することで理解する。ここには間違いはない。
  • だが、マクダウェルは、自然的世界そのものが個人の信念について、裁判官と専門的証人の両方の役割をもつかのように語っていることが気になる。
  • 一方で、世界は、我々の信念が正しいか正しくないかを決定する裁判官である。世界は我々に対して、規範的で合理的なコントロール権限をもつ。
  • 他方、世界は、我々が批判せずに受け入れやすい仕方でよりよく受容できることがらを報告をする専門家証人のようでもある。このような二重の役割を世界に課するのは無理だろう。
  • 専門家証人としての世界は、基礎付け主義者の基礎的信念と何が違うのか。マクダウェルは、すべてを基礎的信念として間接的正当化をなくしただけではないのか。世界は、なんらの媒介もないしに直接的にすべての信念について語る。つまり、すべての信念が、神=世界と一対一になっているプロテスタント的な認識論が、直接的実在論なのだ。(基礎付け主義は、カトリック的である。)

 

⇒つまり、我々のすべての経験が探究において概念的であるとしても、そのことは世界それじたいが概念的であることを帰結しないということだ。マクダウェルは、この関係についてあまり明確でないように思う。端的に著者は、世界が概念的であるという彼の主張をうまく理解できない。それは以下のいずれかとしてしか意味をなさないように思うが、どちらも問題がある。

  • 彼は、我々の経験の世界は概念的であると主張しているのか、(だとするとその世界の外部とその世界の内部との境界の問題が出てくるが)我々は世界それじたいを理由を供給するものであり概念的であるものとして受容すると主張しているかどちらかだろう(これでは汎心論だが)。

 

 

  • 信頼性主義も直接実在論はそれぞれ、基礎付け主義と整合主義の問題点を逆の仕方で救おうとした立場である。どちらも、知識であることの制約にかんして間主観的要素を取り入れている点で進歩があるが、どちらも不十分である。いかにして個人が認識的共同体と作用するか、そしていかにして認識的ステイタスがその作用のうちで構成されるかについて両者とも何も述べることはなかった