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knowledge by agreement をメモしておく。    ⑪コンセンサス主義と解釈主義

Ch10 Consensualism and Interpretationalism

  • 直接実在論は個人にとっての集団の重要性を、信頼性主義は知識帰属のさいの帰属者の必要性を指摘している点で基礎付け主義VS整合主義の時代よりも進歩していた。次のターゲットは「コンセンサス主義」と「解釈主義」である。

コンセンサス主義:

  • Keith Lehrerの立場が代表的。「私」と「我々」を対置させて、個人主義的認識論と集団認識論との二本立てで知識の社会性を処理しようとする立場。

→これをdualism(個人的認識論と集団認識論の二元論)と呼ぶ。

ゴールドマン、キッチャーなどもこの路線で「集団」を捉えている。

解釈主義:

  • Davidsonの立場。「私」と「あなた」のあいだの翻訳‐解釈関係を軸にした意味論よりの認識論。認識論の基本的単位として「私とあなた」の関係を採る。

→これをdurtismと呼ぶ。

もともとが意味論の議論に依拠しているため、知識帰属の背景についての議論が弱い。

⇒どちらの立場も、経験的信念の「正/誤」がトピックの中心にある。だが、どちらの基本単位も不十分。

 

Consensualism

  • 二元論の問題
  • 伝統的認識論が知識を個人の現象で完結するとしている誤りは、たんに、個人の知識の場合にはそれは正しいが、知識の社会的側面の説明を落としている、ということなのではない。孤立した個人が知識を獲得しうるという伝統的認識論の前提がそもそも誤りなのであり、これを拒否すれば個人主義的認識論など存在しないことになる。個人の知識獲得は、集団認識論のなかの一章である。
  • 一般に「社会的認識論」の路線は、規範的問題を除外するか、自然主義的に処理しようとする。

 

  • Lehrerの認識論
  • 一種の整合主義。集団によって所有される知識(社会的知識)の理解と、個人によって所有される知識(個人的知識)の理解にとって、「整合」は中心的概念であるとされる。
  • 「信念をもつ」のかわりに「受容」という言い方をする。(が、この点は本書の問題とはかかわりがないので詳細は省く。)
  • 個人の場合。「システムSの受容」から「システムSの検証」が帰結する(こともある)。「検証システムS」は「客観的に正当化」されていることの中心。「客観的に正当化されている」は、「検証的」に正当化されているか「完全に」正当化されているかのいずれか。
  • Sはpを受容することを個人的に正当化されているのは、pがシステムSの受容と整合的であるときかつそのときのみ。
  • Sがpの受容を検証的に正当化されているのは、pが検証的システムSと整合的であるときかつそのときのみ。
  • Sがpの受容を完全に正当化されているのは、Sがpの受容を個人的に正当化されおり、かつSがpの受容を検証的に正当化されているときかつそのときのみ。

 

  • 集団の場合。基本的には個人主義モデルを採る。集団の場合には、「コンセンサス的受容システム」と「検証的受容システム」を区分する。集団の「信じ方」は「コンセンサス的」、「検証的」、「完全」のいずれかの正当化を受ける。

 

Interpretationalism

  • ディヴィトソンの認識論は、彼の言語哲学、とくに根元的解釈の問題からは切り離せない。彼の認識論は3つのトレンドのブレンドである。

①信念は他の信念によってのみ正当化されるというアンチ基礎付け主義テーゼ

②我々の信念の大部分は真であるという議論

③我々の3つの知識の「種類」は関係しあっているという議論。(「3種の知識」とは、外部世界の知識、自身の心についての知識、他者の心についての知識、の3つである。)

⇒この項では、③についてのみ検討したい。

 

デヴィットソンによれば、3種の知識はみなそれぞれ互いに還元し合えないが、しかし、どの種も他の種を前提としているという。この説を擁護するために、彼は認識論的個人主義、内在主義、過激bold外在主義の3つを批判している。というのは言うまでもなく、以下のことがいえるから。

  • もしもすべての知識形成が他人の心を前提としているのであれば、認識論的個人主義は維持できない。
  • もしも自身の心の知識が他人の知識を前提としているのであれば、内在主義は維持できない。
  • もしもすべての知識形成が自身の心の知識を前提としているのであれば、過激外在主義は維持できない。

⇒擁護論の概略:

個人主義の崩壊;根元的解釈の場を想定する。(いつもの戦略)

他人の心の知識は自身の心の知識を前提とする。

  • 原住民と私がいる。犬が目の前を走る。原住民「○△□…」(私が初めて聞くことば)。
  • 私は「解釈者」であり、原住民にその状況についての自分の信念を帰属させることで、原住民のことばを理解しようとする。つまり、私であれば、「犬だ」ということばで表現される信念を持つから、この信念とこの意味を原住民の「○△□…」という音声に帰属させるわけである。
  • 従って、私は原住民の心についての知識を得るために、自身の心についての知識を使用している。他人の心の知識は、自身の心の知識を前提としている。

外部世界の知識なくして、他人の心の知識なし。

  • さらに、解釈者は外部世界の知識を持っていないと解釈ができない。原住民が、犬を指差すとき、指ではなくて、その先を示しているのだと理解しなくてはいけないし、その後、原住民はなんらかの真なることを表現しているのか、それとも偽なることを方表現しているのかを決定しなくてはいけない。
  • もしも偽なることを表現しているのだと想定すると、解釈は進まない。解釈を前進させるには、発話と状況とがフィットしていることを想定しなくてはいけない。
  • だが、真なることは数多く存在する。原住民が、その状況で、どんな真理を表現しているのかを特定するには、さらなる制限仮説が必要だろう。
  • 原住民の信念内容と発話とのあいだのリンクは、解釈者がもっともそうであると思うような原因で結びついていると想定する。つまり、解釈を前進させるには、信念内容はその外部世界にある原因によって決定されるという想定が必要なのである。犬がいれば、犬について発話し、雨が降れば雨について発話するだろう、というように。
  • 従って、他人の心の知識のためには、自身がもっている外部世界についての知識、信念の原因についての知識が必要なのである。

 

②内在主義の崩壊;信念とその帰属についての全体論的本性に訴える。

  • 「犬がいる」という信念を持つためには、「犬」とかそれについて話されるコトバとか指示詞とかいった多くのことも知らなくてはいけない。だから、ひとつの信念を単独で帰属することはできず、一度に多くの信念の全体を帰属させなくてはいけない。
  • 原住民の「○△□…」に「犬がいる」を帰属させるさいに解釈者は、その信念の他にもさまざまな信念と暗黙の会話的文脈とを帰属させている。意識的にせよそうでないにせよ、信念のまとめての帰属は、重要な要請なのだ。信念は論理的にグループで、ないしセットで形成されるのである。
  • 一貫性についてのこのポイントは、真理についてもいえる。文の集合は、それら文が同時に真であるときには、論理的に一貫している。
  • 先に、デイヴィトソンが真理と信念をより直接的に結びつける仕方をみた。信念は、その本性的「真実性veridical」によって、真理と結びつくという。解釈者にとっては、信念帰属のデフォルトな態度として信念が真であることを想定することになる。
  • ここで、デヴィトソンが言うところの「真」が、「真偽いずれかのうちの真」を意味することは重要である。決して「私が見たところでは真に思える」とか「原住民にとっては真に思える」とかではないのだ。
  • 「と思えるseems」という語り口を許せば、状況と信念とあいだの緩みをゆるすことになる。原住民への信念帰属は「彼にとって真であるように思えること」によって制限されていると語ることは、原住民への信念帰属がまったくもって制限されていないことを結局述べていることになる。
  • 「彼にとっては真に思える」ということは、解釈者によって適用されない語り方であるというわけではない。もしも、解釈者本人が彼の信念システム全般を実質的な理論と位置づけられる立場にいるのであれば、解釈者は、原住民に偽である信念を帰属して、「彼にとっては真に思える」と解釈することもできる。だが、そのような帰属は、制限されない意味での真理とは何かという問いによってバックドロップをくらうことになるだろう。同じことは、「私にとっては真に思える」形式にも言える。
  • つまり、「真に思える」ということは、「真偽いずれかのうちの真」にパラスティックなものなのだ。我々がそれを語りうるのは、我々が何をもって真とみなすのかという光に照らして、我々自身をただすことができるときに限られる。

⇒従って、他人を解釈するさいの教訓として、

信念は一貫した集合であり、信念は真実的(真を語ろうとするもの)であり、信念は大部分真である。

⇒この教訓は、我々自身を信念者として理解するさいにも当てはまる。

  • 我々は他人の発話を解釈することを通じて信念について学習する。解釈のプロセスは、信念・真理・一貫性の本質的リンクへと目を開かせてくれる。このことによって、他人の解釈のプロセスは、我々自身の解釈についてのベンチマーク・水準になる。
  • 我々自身を信念を保持しているものとしてみなしたいのなら、真であり一貫している信念をのために励まなくてはいけない。
  • 我々は他人の心を理解しないでは、我々自身の心についての正しさを知ることはできない。言い換えると、他人の心の解釈なしには、自身が信念を持つために我々が誇らなくてはいけないような要請、すなわち「真偽いずれかのうちの真」と「一貫性」の要請、を知ることができないのだ。
  • 従って、自分自身の心についての知識は、他人の心についての知識を前提としている。我々はすでに、他人の心についての知識が外部世界についての知識を前提としていることをみてきた。だから、結局こういえる。自分自身の心についての知識は外部世界についての知識を前提としている。

 

③過激外在主義の崩壊:

  • リンクを閉じるためには、外部世界についての知識がいかにして我々自身の心についての知識を前提としているのかを明らかにしなくてはいけない。
  • 根元的解釈の場面で、原住民のコトバの解釈には、自分自身の知識を使用しなくてはいけない。犬は、原住民がそれについて語るところのものである。そして、犬は、原住民の発話の原因であり、それについての信念であるところのものである。
  • この仮説が可能であるためには、犬が解釈者の心の外側のどこかにあることを前提する必要がある。犬は、解釈者のみに認知的アクセス可能とか原住民の信念の原因と指示の直示的役割を果たすものであってはいけない。
  • だが、このときの「自身の心の外側」とか「対象」とは一体いかなるものか。解釈者であるあなたの経験した感覚と、あなたに観察された物理的対象との違いは何か。
  • デヴィトソンの答えはこうだ。ある実体は、それが間主観的である限りで、客観的である。解釈のパラダイム的状況において、物理的実体は、ひとりの信念者のため以上に、諸信念のための原因と指示として機能しうる。原住民の信念、解釈者であるあなたの信念、犬、とはトライアングルを形成している。
  • あなたの感覚は、しかし、この機能を果たしえない。原住民の発話の原因があなたの感覚であると語ることは、この状況ではいみがないので。感覚は主観的だ。間主観的ではない。心から独立であるということとしての客観性とは、間主観的であるということである。

⇔しかし「客観性」には別のいみもある。「正しさないし真理の基準としての客観性」といういみである。

  • 犬は、それが原住民とあなたの信念の原因であることによってのみ、客観的であるわけではない。
  • 犬という存在とそのロケーションとが、真なる信念と偽なる信念との境界線をつくっているということによってもまた、客観的なのである。犬は、原住民とあなたの真なる信念の対象である限りで、客観的であるといえる。

⇒これらを結びつけて、こういうことができる。外部世界のしるしとは、それが客観的であるということである。客観性は間主観性を前提としている。間主観性は、我々自身の信念と他人の信念が相互に結びついているその仕方によって構成されている。

⇒従って、外部世界についての知識は、他人の心についての知識と、我々自身の心についての知識を前提としている。

 

A Communitarian Critique of Interpretationalism

  • デイヴィトソンは、真理・信念・客観性について理解するためには、それらを解釈の間主観的文脈に位置づけなくてはいけないということを示している点で正しい。この間主観的文脈においてのみ、いかにしてこれら概念が互いに結びつき、また他のものに依存しているのかを理解することが可能になる。おそらくこの点は、分析哲学におけるここ30年の最大の収穫かもしれない。もっとも、共同体的認識論者にとっては、ということだが。
  • 不幸なことに、デイヴィトソンのメッセージは認識論者に届かなかった。それはしかし、彼の議論の弱さに原因がある。

 

  • 欠点①
  • デイヴィトソンの議論のスコープおよび形式化は、非常に抽象的なレベルでなされている。彼から、知識の4源泉についてなんらかの事柄を学ぶことはないし、いかにして我々が経験的主張を正当化するのかについての説明も得られることはないだろう。
  • 彼の認識論は、伝統的認識論のそれらの問いがレリバントでなく思えるようなレベルでなされている。彼の議論に関する限り、我々に信念を持たせる因果的メカニズムは主題に入ってこない。彼の理論は、我々がすべての信念をセラピーとテレパシーとかによって得ていることが発見されたとしても、崩壊しないのである。
  • この点について彼本人も、自身の説の奇妙な点であるとしている。だが、それも、我々が認識論を彼の2つの認識論的制限、すなわちグローバルな知識の正当化と、3種の知識の相互結合の証明、へと制限するから、奇妙であるように思えてくるということにすぎない。伝統的認識論のそれら伝統的問題にしばりつけておくいわれはない。

 

  • 欠点②
  • 彼の議論は2通りに読める。
  • 弱い読解では、個人はまず第一に、解釈の文脈上で、信念・真理・客観性の概念を獲得する。それら概念が獲得されたなら、それらの実質的な使用に関しては、もはや解釈上依存しあわない。
  • 強い読解では、それら概念獲得のさいにも、実質的使用のさいにも、それら概念は互いに依存しあう。他人との連続的相互作用は、その概念の使用が可能であることにとって本質的であり、それらを「正しく」使用することができるために本質的である。
  • 弱いほうだと、社会的相互作用は、子供などの発達段階において重要ということになるが、強いほうだと、社会を我々の概念の連続的構成要素として捉えることになる。
  • 従って、弱い読解は、他の多くの個人主義的見解と両立可能であるのに対して、強い読解は両立不可能であり、共同体的認識論としか折り合えない。

 

  • 欠点③
  • デュエッティズムという立場それじたいの問題がある。
  • この立場は、いかにして我々の信念が合理的・非合理的に制限されるのか、とか、経験的信念の領域上で、いかにして我々の信念が正しかったりそうでなかったりするのか、について答えていない。
  • 我々は、共同体、「我々」の導入なくして、規範性を理解できない。「は正しい」「は誤っている」と「は正しく思える」「は誤っているように思える」との区別は、2人の抽象的な個人の関係という狭い基盤からは理解できないのである。
  • このような設定を「抽象的」というのは、彼らはなんらの歴史も持たず、かれらの関係が互いに一方向的であるからである。
  • 解釈者は原住民について、彼の仕方とは異なる仕方でことをなすのだと注意することができる。だが、信念を異なるものとして同定することは、彼らを正しくないとか、誤っているとか非合理的あると理解することと同じではない。
  • 「正しい」と「正しく思える」との区別を得るためには、解釈者の共同体を導入する必要があり、共同体が共同的行為遂行の基準をいかに生成・維持するかの仕方を導入する必要がある。
  • 言い換えると、何かを「正しい」とか「合理的である」とかいうことは、それが共有された規範とか基準に沿っているということである。共有しているとは、解釈者と原住民とのあいだの偶然的な一致としてではない。それは、広い共同体内部における意見と行為の合意を基盤とした一致を意味している。
  • デイヴィトソンのラジカルな見解は、「我々」という要素を構築できない。彼のパラダイムとなっているシナリオでは、解釈者はすでに彼の文化の基準を所有している。そして原住民もそうである。
  • しかし、デイヴィトソンは、彼らが彼らの基準をなんらかの仕方で所有するということを議論からすっかり落としている。