knowledge by agreement をメモしておく。    ⑫文脈主義と共同体主義

Ch11 Contextualism and Communitarianism

 

  • 文脈主義

比較的最近の立場、おおざっぱにまとめれば「認識論的に重要な要素が社会的文脈に応じて変化することを許容する」立場。ここでは、「知識」と「正当化」が可変であるとするタイプのものを扱う。

 

  • 弁証法的正当化
  • すべての正当化は弁証法的になされる。あるひとの信念が正当化されることは、彼の属する社会の他の成員に反対してそれを擁護することである。→ローティの「認識論的行動主義」、「認識的権威主義」:社会が我々に語らせようとすることがら。
  • マイケル・ウィリアムズ:「正当化されるということは、あなたの良心と社会とがあなたにそうしろということをする、語ること」

 

David Annisの文脈主義

  • 暫定的正当化をうけた信念者の文脈と、正当化帰属者の文脈とを区分する。たとえば、アザンテ族の人間が隣人を魔女であると信じている(前者の文脈)のを、ケンブリッジ大学のグループが観察している(後者)とかいった場合。
  • ここで、アザンテ族の信念者の信念が正当化されうるのは、彼が「問題文脈」によって決定された「適切な反論集団」による「現行の反論」に「直面」した場合のみである。これらの条件は、すべて「暫定的に正当化される信念者の文脈」のみにかかわる。
  • 「問題文脈issue-context」:信念者が保持ないし表現している信念がそのなかにあるような状況の慣例的タイプ。レリバントな状況とは、知識帰属者の状況ではなくて、信念者の文化の状況である。
  • 信念者がその信念について正当化されているか否かは、信念者の仲間peersによる反論に対して、仲間が正しいとするような回答を与えるかいなか、に依存している。

⇒すべて、信念者が属する文脈内部の規準による。

⇒伝統的認識論であれば、誰かの信念が正当化されているか否かを、誰が判断するのか?という問いは存在しない。誰の信念であれ、判定基準は同一の普遍的なものが適用されるのであるから。

  • アザンテ族の信念は、伝統的認識論からすると、普遍的規準に照らし合わされなくてはいけないか、端的に正当化されていないかのどちらか。
  • とはいえ、普遍的規準が存在するという立場か、完全にローカルな諸規準のみしか存在しないという立場のどちらか一方しかありえないというわけではない。すべての文化が、同一の「認識論的望ましさdesiderata」を必要条件的に共有しているのだと考えることもできるから。[クーンによる相対主義回避策のような立場か]ただし、これはAnnisの立場ではないのだが。彼によれば、正当化は常に必ず文脈的でしかありえない。

 

  • 認識論的寛容epistemological tolerance

「他の文化や文脈に属している信念者の見解は、彼ら独自の仲間や基準によって評価される権利を持っている」

⇒公正さの要求なのだろうが、この主張は「正当化が文脈的である」という観察的事実からのみは帰結しないはずだ。

(A)すべての信念者はローカルな文脈内部で正当化ないし試練challengedを受ける。

(B)オリジナルの文脈の外部で正当化ないし試練される信念は存在しない。

AからBはそのままでは帰結関係にはない。以下のような前提Cが必要なはずだ。

(C)すべての信念はオリジナルの文脈の内部で相互的に関連しあっている。(信念はオリジナルの文脈内部でのみ意味を持つ。)

 

⇒だがCは妥当だろうか?たぶんそうではないように思える。

このような文脈主義的本質主義は、我々の自然な直感と対立するように思える。同一の信念が異なる設定においても発せられる状況は考えられるからである。

  • 共同体的認識論は、認識論的寛容とは切り離される。共同体的認識論の使命は、知識の文脈的本性を理解することにあるのであって、誰の信念を誰が判定すべきかを決定することにあるのではない。(とはいえ、この論点は第三部の主要な問題意識となるだろう。)

 

Quietism

  • 文脈主義によるグローバルな正当化の拒否
  • 当然、文脈主義者とグローバル正当化とは両立しえない立場であるのだが、文脈主義者にとってグローバル正当化とは「我々の信念の総体」についての正当化である。このような例としては、我々の信念の大部分は真であるとしたデイヴィトソンを挙げることができる。むろん古典的な基礎付け主義と整合主義もグローバル派である。
  • 信念のシステム総体という発想は、正当化の文脈的本性を考えると瓦解する。信念は固定化された正当化のネットワーク内部で永続的な位置を持ち続けるのだという前提がないと、信念のシステム総体という発想は維持できないから。
  • 文脈主義によれば、そのような正当化ネットワークは存在せず、証拠と正当化とはみな断片的で特定の観点からのものperspectivalである。永続的な理由のネットワークとか、固定化された理由の空間などというものは存在しない。

⇒すると、固定化された理由のネットワークが存在しない。固定化された信念のシステムは存在しない。ならば、信念システムとか、信念の有意味な総体などというものは存在しない。そして、グローバルな正当化は存在しない。

 

  • Williamsによるグローバル正当化否定
  • 「外部世界についての我々の知識」とか「経験についての我々の知識」とかいったものの「総体」を考えることには意味がない。
  • 「我々の「外部世界についての諸信念」なるものを考えてみよ。そこには、すべての物理学、歴史、生物学、などなどが無限に含まれるだろう。我々をとりまく世界についての因果的思考のすべてに言及するのでないにしても。そこには、なんらの理論的統一性はなく、なんらの真正なる統一性もなく、あるのは曖昧で恣意的な寄せ集めだけである。「我々はこれらをいかに知るようになったのか」を総じて処理できるような説明を要求することは、その要求じたいが理解可能であるにせよ、しかし誤ったことなのである。」(1999)

 

 

Contextualiem and Reliabilism

  • 静観主義(グローバル正当化を擁護しないという意味で)の擁護というところに限れば、共同体主義はウイリアムズにくみする。しかし、著者と最近のウイリアムズの見解とはかなりの相違がある。
  • 最近の彼の主張は、文脈主義と信頼性主義とのアマルガムのようなものになってきている。1990年代に入ってからの彼は、かつての彼の概念、「純粋に弁証法的な正当化」は不十分であるという立場をとっている。
  • かわりに、新しい2つの概念「個人的perspnal正当化」、「証拠的正当化」というものが導入された。個人的正当化とは、「純粋に弁証法的な正当化」の今日版であり、証拠的正当化とは、信念が適切な基盤を持っているという効果にたいしての証拠のことである。

 

  • 個人的正当化
  • 「認識的責任epistemic responsibility」、「デフォルト/チャレンジ構造default-and-challenge structure」によって説明される。
  • ひとが認識的に責任をもつのは、彼の信念が彼の仲間によるよく動機づけられたチャレンジに対して快く対応するときのみである。信念は、罪状が提示されないうちはイノセントなものであり、なんらのチャレンジも提示されない限りでは、ひとはその信念を支持していることが容認される。
  • ただし、チャレンジされない信念のための根拠を探究することは要求されない。あくまでも「現実的に機能するearned」チャレンジでないといけない。単なる論理的な誤りの可能性では十分ではない。反論者は、言及する誤り可能性が与えられた文脈内部においてリアルかつレリバントであることを示すことが求められる。
  • この要請のひとつの帰結は、全面的懐疑論は整合的な仕方では提示できないということである。何事も知られず正当化されないという主張はなされえない。なぜなら、これを主張するためには、懐疑論者はなんらかの知識に訴えて彼自身の主張を正当化できないといけないので。

 

  • 証拠的正当化
  • 信念が、「証拠的に正当化」されるのは、その信念が適切な基盤に基づいているときである。このタイプの正当化は、信頼性主義ないし外在主義の正当化である。だが、ウイリアムズによれば、証拠的正当化の基準もまた「我々の関心、認識的関心とかそれ以外の関心、に照らして固定される基準」であるとされる。

 

⇒「個人的正当化」と「証拠的正当化」の両方が重要であるとされる。というのは、「責任なき信頼性も、信頼性なき責任も、どちらも我々にとっての「知っている」ことを満たしていないから。

「信頼できないと考えることのよい理由を持っているような方法によって形成された信念を持っている人物にたいして、知識を帰属することを我々はためらうだろう。彼が彼の方法の非信頼可能性について誤って[考えて]いるとしても。そして、同時に、信頼できない方法によって信念を形成した人間に、たとえ彼がおかれた環境下ではその方法をとることが認識論的に非難されないのだとしても、知識を帰属することもためらうだろう。」

 

  • 個人的正当化と証拠的正当化とを結合させる議論は成功しているだろうか?個人的正当化へのチャレンジは、「彼の基盤についての客観的な適切さに関する疑いを生じされる」とウイリアムズは言うのだが。
  • ひとびとは、自身が誤った信念に到達したと確信したとき、あるいは信頼できない方法によって真なる信念に到達したのだと確信したときには、認識的に責任を持っているのだろうか?

⇒ウィリアムズの根本的なモチベーションは、相対主義から文脈主義を切り離したいという点にあるようだ。

相対主義と文脈主義とを混同してはならない。文脈主義とは、認識的評価が、「正当化される」ことが「ある文脈Cにおける正当化」を意味するような、暗黙の帰属とともにあるという見解とは別のものである。信念は、それが適切な証拠によって支持されるときには証拠的に正当化される。しかし、適切さの基準は世界と弁証法的環境との両者に依存しており、それらの変化とともに基準はシフトするのである。(結果的にそれらの相互関係も変化する)。」(1999b)

 

  • しかし、これで相対主義を回避できているだろうか。信頼性についての判断は、「弁証法的環境」へと移送されはしないだろう。つまり、信念形成の方法についての信念の正当化は、他の信念についての正当化と同じく常に文脈の一部なのである。
  • 信頼性と個人的正当化とを区別するのは、知識を所与のグループへと帰属する側がなすことである。たとえば、大学グループが、アザンテ族が族の内部での申し立てに応えるその仕方と、アザンテ族の信念形成の方法の評価とを区分するように。前者が個人的正当化で、後者が証拠的正当化である。
  • しかし、個人的正当化をアザンテ族内部の諸信念間の関係としてとらえ、証拠的正当化をアザンテ族の信念と世界との関係としてとらえるのは誤っている。このような非対称性は正当化できない。なぜなら、アザンテ族の「仲間」によるチャレンジも、信念‐世界関係についてのものであるから。また、大学グループのみが、世界と信念のあいだの関係の仕方を持っているということも正当化できないから。

⇒だから、ウィリアムズは文脈主義を、2つの仕方でねじっているのだ。

①誰かに、他の人に対しての特権性を与えることで、

②そして、信頼性についての評価を特別なものとすることで。

 

⇒しかし、信頼性が、いっけん認識論的に利点を持つものとしての、「認識的Desiderata」として特別な地位を持つべきなのは、なぜなのか?どうして、そのアクセスのみが、彼や彼女のものよりも価値があるものとされるのか?

  • 文脈主義者であれば、どの認識的望ましさが第一義的であるかも、それじたい文脈的な問題のはずである。
  • 認識論的望ましさのうちのどれかに特権的地位を与えようとすることは、文脈主義にとっては、誤った方向である。

 

 

Beyond Contextualism

  • 正当化についての局在的本性を主張する点では、文脈主義は保持し擁護する価値がある。そして、文脈主義によって前進した点として、文脈主義による普遍的正当化批判、「我々の信念全体」批判の議論を評価したい。
  • また、AnnisとWilliamsの考察から、我々の正当化の知識は、少なくとも部分的には「暗黙の」ものであり、規則には還元できないことが明らかになった。「我々の認識的基準の学習の部分は、法的基準とか道徳的基準と同じく例外可能性の条件の学習である。それは、非常に文脈依存的であり、明文化することが難しい条件である。一般に、我々は例外可能性をケースごとに学習する。」(Annis1978)

⇒この指摘は、文脈主義から共同体主義への移行を示唆している。

文脈主義へのテストとして、二階の合理性問題を考えてみたい。いかに我々の経験的信念は、合理的であったり非合理的であったりしうるのか?という問題である。

Annis:経験的信念は正しかったり誤っていたり、合理的であったり非合理的であったりしうる。それらは個人によってではなく、共同体によって評価される。

Williams:信念が合理的であったり非合理的であったりするのは以下の2つの仕方による。信念は仲間との討議と評価の対象となり、そして、信頼可能な仕方でもたらされる。

⇒信頼性についてはすでに批判ずみであるが、では、彼らにとっての答えは要するにどういうことか?

  • 共同体の強調は正しい方向性だ。基準の適用は、ケースバイケースであり、その文脈による。これも正しい。
  • とはいえ、あまりにもこれはあっさりしすぎだ。哲学的に興味深い答えとはいえない。
  • いかに文脈とか基準とかいったものが創造され、維持されるのかを理解し、共同的判断がいかにして可能であるのか、いかにして合意に達するのかを理解しなくては、哲学的な関心は満たされないだろう。
  • これらの点に、文脈主義は答えられない。共同体的認識論が、その答えを与えるだろう。