ch7 メモ

未完のようす。

***

  • 新心理学の担い手の特徴は以下の2点

①哲学部門の教育を受けたものが多く、哲学部門のポストに就いた。

②新しいハイブリット形態としての「哲学‐実験科学者」という役割を確立。

  • この動きにたいして、非実験者、自然科学的方法を使用しない哲学者(「純粋哲学者」とする)は、批判的。
  • 哲学者の役割は「純化purification」されなくてはいけない。哲学者と、実験心理学者との役割は分離すべき。(実験心理学者は哲学ポストを占めるべきではない。)

 

*1890-1920ころのドイツにおける代表的な「純粋哲学者」として、ディルタイヴィンデルバント、リッケルトフッサールの見解を取り上げる。

 

 

【Dilthey(1833-1911)】

  • おもにベルリン大学で活躍。(1882~1905)
  • 1893年ベルリン大へのシュトゥンプ(ブントやエビングハウスではなくシュトゥンプ)招へいに尽力。当時の書簡に「この招へいは、ベルリンのラジカルな自然科学化への抵抗だ」。
  • 1894年論文「記述的‐分析的心理学への構想」

 

  • 記述心理学と説明心理学

「説明心理学explanatory psychology」:仮説演繹法による。綜合的ないし構成的。

⇔だが、心理学において仮説演繹法は有効なのだろうか?

  • 説明心理学は諸仮説の結合を基礎にしているが、可能な競合仮説は無限に存在し、そのなかからの選択についての適切な手続きもない。したがって、仮説はどこまでも仮説でしかない。
  • 自然科学の例に従うということは、仮説演繹法を使用することである、という説明心理学の想定は誤っている。扱っている対象に適した方法に、ツールのほうを調整すべき。
  • 心的現象とその相互関係は、直接的に知られるものであるから、心的事実間の連続的結合のために仮説演繹法を使用するのは誤り。
  • また、知覚や記憶、把握・連合の結合などについて説明心理学が注目するのは、その新的現象の一面だけであり、「その心的現象の全体における人間的本性、主観における内的結合」が無視されている。これは誤り。
  • 心理学の実験化は、内的心理学の法則の同定にはなんら寄与しない。せいぜい心的現象の記述か分析の助けになるくらい。

 

  • 説明心理学の失敗は、精神科学全体を脅かす。
  • 精神科学は心理学的概念、概念化に依存しているから、心理学が、説明心理学化して失敗することは、たんに心理学のみの失敗にとどまらない。
  • 精神科学者は、ここで、仮説的性格でしかない説明心理学を基礎としてもつことに妥協するか、日常的で主観的心理学の曖昧性を解決しようとするかのどちらか。
  • 心理学的随伴主義(心的現象についての要素還元的・決定論的想定。)を想定した説明心理学によって人間の行為を説明することになると、法律や裁判にも影響が及ぶ。

 

  • 記述心理学
  • 心理学と精神科学の危機を克服するための新しい心理学。
  • 人間の心的生活において統一的にあらわれているものの部分と関係を記述する。その部分と関係は、経験されたものに単一の関係として記述される。(部分の合計が経験されたもの、というわけではない。)
  • 仮説演繹法は使用されない。だが、分析、経験、比較などのあらゆる手段、心的活動の形式を研究するための技能のようなもの「the works of geniuses」が使用される。
  • 記述心理学は、分析的である。つねにすでに与えられている心的構造を、その構成部分に分析していきそれらを記述する。(つまり、要素から心的現象を構成する説明心理学とは逆向き。)
  • 記述心理学によって使用される相互関係は、内的知覚によって決定的に検証されるため、記述心理学の帰結は必然的にもたらされる。
  • 記述心理学は、哲学および精神諸科学の基礎になる。すべての認識論は、心理学的概念・観念を前提としている。
  • 記述心理学はまた説明心理学のためにも重要。説明心理学は「発見法」としての意義くらいしかないが、記述心理学から、記述的構造、正しい用語法、テストの意義などの概念を基礎付けられる必要がある。

 

  • 同時代人からの反応
  • ディルタイは「記述的‐分析的心理学への構想」論文をオイケン、ナトルプ、ヴィンデルバンドらの純粋哲学者らと、エビングハウス、ブントら実験心理学者らに送っている。前者の反応は、個々の論点については異論があっても、純粋哲学志向の方向性は高く評価されたようである。(書簡からの分析)
  • エビングハウスは、手紙と論文の2か所でディルタイ論文を批評しているが、かなり辛口。
  • 1895年11月27日付け書簡:シュトゥンプをベルリンに招いたのは、アームチェア哲学からの決別だと思ったのに、違ったのか?!という旨。
  • 1896年論文:

①説明心理学と記述心理学の関係について、ディルタイは曖昧である。記述心理学は、経験的心理学の発展にとっても重要だと述べているわりに、別の箇所では、説明心理学には未来がないから捨てられるべきだとされている。

②連合心理学批判も心的状態・プロセス分析の強調も、どちらもディルタイのオリジナルではない。ディルタイがいうような「説明心理学者」は過去にもヘルバルトくらいだろうし、現在はおそらく存在しない。プロセスの分析はミルやミルの師トマス・ブラウンがすでに述べていたことと同じ。

③説明心理学を、仮説演繹法の使用において非難するのは間違っている。どんな心理学(ディルタイが擁護するような心理学も含めて)も直接的に経験できないプロセスの存在を前提することを強いられる。また、仮説は、完全に正当化されないからあいまいだというのも、レトリカルな誇張である。

④心理学が精神科学の非仮説的な基礎となるべきという提案が、何を根拠になされているのかわからない。

 

 

【新カント学派】

  • 新カント学派の、新心理学への態度は、1860年から世紀の変わり目にかけて大きく変化した。初期1860年代から70年代にかけては、新カント派じたいが、生理学や新心理学に非常に近い立場にあった。その時期の代表的な論者はLangeだろう。

 

  • カントの生理学的解釈
  • 初期カント学派の論者たちは、生理学、心理学への関心がおおむね強かったといえるが、なかでもランゲは実験心理学の創設者の一人といってもよいほどである。
  • 「魂なき心理学」という彼の言葉は、形而上学からの解放をめざした新心理学のスローガンになった。
  • カントのアプリオリを、生理学的心理学的に解釈しようとした。知覚図式、カテゴリーなどは、人間の生理学的心理学的「組織」に基礎づけられているとされる。感覚器官の生理学は、「発達した正しいカント主義」である。
  • もののカテゴリーは我々「組織」の必然的プロダクトにすぎないから、カントの生理学的解釈は唯物論の対抗策となる。

 

  • 新カント学派内部で、新心理学への批判的見解が目立ってくるのは、ヴィンデルバント、リッケルトあたりから。ヴィンデルバントは1876年チューリッヒ大学に就任したさいの講演「心理学研究の現状について」で、生理学者が哲学のポストを占めるべきではないと発言している。
  • 就任講演は、「哲学研究と経験的研究との関係についての古くからの問い」を扱っている。この問いは、現在、心理学にとって最も火急のもの。
  • 心理学は形而上学・認識論には関心をもたず、それらへの関心を保ってきたのは哲学内部の心理学である。認識論・形而上学への関心は、心理学の帰結にも負っているから、哲学は心理学を必要としてはいるのだが、しかし心理学には心理学のためのプロフェッションとポストを占めるべきである。
  • 世紀が変わる頃になると、ヴィンデルバント実験心理学への態度はより悲観的・否定的になっていく。彼は、1880-90年代の心理学・生理学への関心の高まりが、悪しき歴史相対主義傾向を強めたと嘆いている。
  • また、この時代、哲学ポストにつくには、電気配線の方法論的手続きを習得したとか人よりも計測がうまいとか、そういうことが大事なんでしょw、みたいなことも言っている。このような「哲学の心理学的置換」と「疑似哲学」の繁栄は、生、政治、宗教、社会といったことへの問題を覆い隠したい政治的配慮からしても歓迎されたむきだろうw、と。

 

  • 法則論的科学と個性記述的科学
  • 現在ではヴィンデルバントといえば、「法則論的/個性記述的」区分くらいしか知られていないが、この区分は、心理学の位置づけの問題に強く結びついている。
  • 1894年講演「歴史科学と自然科学」:諸科学の分類がテーマ。
  • まず哲学・数学と経験科学とが分けられ、次に経験科学のなかの区分が問われる。
  • 旧来の「精神科学/自然科学」区分は、心理学についてあいまいであるので使えない。(精神科学の基礎といういみでは精神科学に入るし、方法論的には自然科学にはいるから。)
  • 心理学を正しく、生理学・生物学・物理学の側に区分する規準を見つけないといけない。
  • 「知識獲得のゴールの形式的性格」から区分すればよい。自然科学と伝統的にいわれてきた諸科学は、「一般的な法則」を探究する。つまりこの側は「法則論的科学」である。他方、伝統的に精神科学とされてきた諸科学は、「個別的な歴史的事実」を探究する。つまりこの側は「個性記述的科学」である。
  • 心理学は、この規準では法則論的科学である。とすると、
  • 心理学は、歴史学や哲学ではなく、物理学の側に区分される。(⇔ブント見解)
  • 科学的心理学に基づいた歴史学という構想(ブント、ランプレヒト)には反対。

 

 

  • リッケルトは西南ドイツ学派の第二のリーダーで、フッサールのあとにフライブルク大学に就任した。彼も、経験心理学が、精神科学の側に含まれないような、諸科学区分(経験諸科学のなかでの学区分)を提示している。
  • 文化科学と自然科学との決定的な違いは、概念の形成の仕方の違いにある。
  • 自然科学は、実在の「コピー」をするのではない。科学的知識の獲得は、「再組織化」と「単純化」のプロセスによる「一般的概念」の獲得である。
  • 文化科学のばあいには、概念形成の仕方は多様である。実在そのままをあらわし、つねに特殊・個別的に考察を行う。
  • この区分はヴィンデルバントのものよりも根本的とされる。なぜなら「自然科学における法則の探究」とは、一般化という概念形成のひとつだから。

 

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ch6 メモ

p.127~

【新心理学の創設者たち】

  • Ben-David and Collins1966は、現代心理学の初期の歴史において働いた「社会的要因」を指摘している。
  • 新心理学創設期の重要人物となったものたちは、生理学‐哲学者のプロフェッショナルを確立してきた人々であった。
  • 新しい科学学科フィールドが存在するようになるには、新しい「プロフェッショナルな役割」が作られねばならない。新心理学の場合、この新しい役割は以下のような「role hybridization」から帰結した。

⇒生理学は哲学よりも高度な地位を得ており、競争条件としては生理学よりも哲学のほうがより厳しくなかった。⇒新心理学の創設者たちは、生理学の実験的手段をもちいて実践的哲学を行った。

  • Ben-Davidらの想定しているよりも当時の哲学分野の競争条件はよいものではなかったし、新心理学の特殊化は、哲学の厳しい競争状況のなかで、個別諸科学のどのような能力が利点となるのかを探る試みでもあったことを指摘しておく必要がある。
  • だが、ブントら実験心理学の開拓者たちが、哲学分野に参入することで、実験心理学の擁護・批判両方のハイブリッドとしての新しい役割を担ったことは確か。

 

【Wilhelm Wundt 1832-1920】

  • 1875-1917ライプチヒ大学哲学教授
  • 1879年に大学内に心理学実験室を創設。実験心理学に特化した初のジャーナル『哲学研究』(1883-1903)の創始者でもある。
  • ライプチヒ大心理学実験室は、現在のラボとほぼ同様に、ヒエラルキー的に組織化され、結果の所有権を機関がもつという形態をとっていた。
  • 研究者育成のための部門と、直接的に特殊テーマを探究する部門とにわかれており、ラボ全体のテーマ(継続/新テーマ)を組織する統括ディレクターのもとで、各テーマごとに小グループが組織された。セメスターごとに研究成果がまとめられ満足なものであれば出版公開の準備がされる。出版の是非にかかわらず実験プロトコルの所有権は、実験室にある。

 

  • ブントは6人の新心理学開拓者のなかでは唯一、哲学の専門教育を受けたことがない。チュービンゲンとハイデルベルクで医学を修め、ベルリンで生理学研究を行った後、ハイデルベルクヘルムホルツのもとで新しい実験心理学および文化心理学研究をすすめ(1858-1864)、Grundzuge der physiologischen Psychologie 1873/1911を出版。1875年からライプチヒ大学哲学教授(1917年停年退官)。指導者、教師として多くの弟子を育てたことでも有名。

 

  • 哲学についての見解
  • 哲学が他の諸学の基礎である時代は去った。哲学は、自然科学、人文科学などの個別科学の成果によって基礎づけられなくてはいけない。
  • 哲学の仕事は、諸科学の多様な成果をひとつの全体へと統合し一般的洞察を与えること。また、科学的方法と知識獲得の条件についての洞察を行うこと。
  • 哲学と他の諸科学との相違は本質的なものではない。同一の内容を、異なる観点からみているので領域として異なる。諸科学は、知識を、膨大な個々の対象についての個別的知識へと分割するが、哲学は、これら対象についての知識のあいだの相互関係に目をむける。
  • 知識の相互関係についての学科として、哲学は①知識の生成についての洞察、②知識全体の組織的構造の解明、を行う。
  • これに応じて、哲学は(ⅰ)知識の科学、(ⅱ)原理の科学とに分割される。

知識の科学:形式的法則と知識のリアルな内容を扱う。一般科学史と純粋/応用認識論と形式論理学から成る。

原理の科学:一般科学原理、個別諸科学原理としての形而上学から構成される。個々の諸科学が前提としている形而上学の吟味を行う。

 

  • 世界把握のための一般形而上学
  • 世界把握は、その時代の科学駅意識の総体に対応しており、その時代の情動的ニーズを充たすもの。
  • これは、科学的に方向づけられた「帰納的」形而上学である。思弁的・演繹的な観念論的形而上学とは異なる。形而上学的観念(宇宙論的観念、心理学的形而上学的観念、存在論的観念)は科学の成果に応じて選択され発展する。

 

  • 論理学と心理学の関係
  • 論理学は、科学的知識にとって有効な思考の法則を説明するものである。
  • 論理学は、心理学と他の諸科学とのあいだに存在する、一般的に妥当な観念間の結合関係を同定する規範的学科である。
  • 心理学は人間がいかに事実的に施行するのかを研究し、論理学は人間が科学的知識を獲得するためにはいかに考えなくてはいけないかを洞察する。
  • 初期においては、リップスの「思考の物理学としての論理学」テーゼへの言及がなされているが、後期になるとこのテーゼは使用されなくなる。もともとブントは、論理学の規範的性格を主張する点でリップスとは異なる。
  • 論理学的思考の心理学的研究は、いかなる科学的論理学の発展にとっても、第一に必要なものであるとされる。このような心理学的研究は論理学プロパの一部分ではないが、論理学的思考の特性の同定のために寄与するのは心理学的研究のみであるとされる。

 

  • 論理学的思考の同定
  • 心理学的分析は、論理学的思考を他の種類の思考と区別するための3つの性質を特定する。

①自発性:論理的思考は人間によって自由意志の活動として経験される。つまり論理的思考は意志的行為であり、思考の論理法則は意志の法則である。

②自明性:論理的思考は内的必然性の特殊な性格をもつ。この性格は、論理的思考によって生産された観念間の結合に直接的確実性を与える。

③普遍性:論理的思考の法則は、すべての理性にとって明証的evidentであり、かつその適用可能性がなんらかの個別対象領域に限定されない点において普遍性をもつ。

  • ②と③は心理学法則には欠けている。
  • また論理学法則も心理学法則も事実的思考について観察し、そこから一般化されるが、論理学法則のみは、事実的思考に対しての評価を与える規範となりうる。
  • 但し、このような相違にも関わらず、論理学法則の形式化・説明において、心理学法則および心理学的タームは不可避に現れる。論理的思考は人間の心のなかで行われるものであり、心的活動と不可分であるからである。

 

  • 心理学の身分
  • ブントによっては、心理学は哲学的学科のひとつとは考えられてはいない。心理学は人文科学の一学科とされる。
  • 人文科学は「心的プロセスの科学(心理学、心理物理学、人類学、民族学など)」、「心的プロダクトの科学(哲学、法学、経済学、政治学、神学、芸術学、科学方法論)」、「心的プロダクトの発展の科学(諸歴史学)」の3部門に分けられる。
  • プロセスはプロダクトに先立つので、心理学は他の人文諸科学に先立つ。
  • また、心理学は、物理学・生理学との関連性を持つ点で、自然科学と人文科学を架橋する学科といえる。さらに、心理学は、生理学・哲学との歴史的関連性を持つ点で、哲学と自然諸科学との仲立ちを果たすことができる。

 

  • 心理学と自然諸科学の関係
  • 心理学は形而上学的仮定から解放されなくてはいけない。伝統的な「実体魂説」ではなく「現実的魂説」を採用すべき。
  • 「心理学は経験的事実をそれじたいのコンテクストのなかで、なんらの形而上学的想定なしに解釈しなくてはいけない。」
  • 人間の経験についての、「内的」経験と「外的」経験の二分法は拒絶される。「すべての経験は、経験の対象と、経験する主体の両方の要素が不可分に含まれている。」
  • 経験の対象/主体(客観/主観)の拒否が心理学学科の特徴。この拒否は心理学と他の自然諸科学とのメルクマールにもなる。
  • 自然諸科学は、対象の性質や関係を探究するが、心理学はこの区別をせず直接的な「所与」を探究する。
  • 「心理学は自然科学と同じく経験科学のひとつである。両者の観点は互いに補完的なものであり、両者の観点が合わさって我々に向けて開かれた経験的知識のすべてが尽くされる。」⇒なので、キュルぺ、ミュンスタベルク、マッハなどの哲学の心理学・生物学的還元は誤った方向とされる。

 

  • 物理的因果と心的因果の区別
  • 「物理的因果性」と「心理学的因果性」は区別され、物理的因果性は心的因果の解明にはなんら寄与しない。
  • 物理的因果と心的因果の相違は以下の3点

①自然科学においては、原因と結果とは「別々の2つの経験」であり、因果関係は2つの出来事のあいだの規則性について理論的に知られる概念的関係(ヒューム的)。心理学における心的要素間の関係は、別々のもののあいだにある関係ではなく、「直接的意識の事実」である(行為とその理由は観察や理論によって知られるのではなく、意識のレベルで事実として結合している)。

②心的プロセスの説明には価値的決定が含まれているため、心的因果は物理的因果関係には還元できない。心理学における説明は何が合理的であり適切であるかという規範的規準を参照してなされる。

③心的プロダクトの形成は、意識的な目的論的活動、目的/手段の多数の選択可能性を含む点で、物理的因果性とは異なる。

*ブントは、「心的因果性の一般的法則」というものを同定している。たとえば、創造的帰結の原理(複雑な心的現象はその構成要素の集積以上のものである)、結合原理(心的内容はその意味によって別の心的内容と結合する)など。

 

  • 心理‐物理並行説
  • 心理学と自然科学とはラジカルに異なり、互いに他方に翻訳されえない。心理学は、物理的因果が心的結果を引き起こしたり、心的原因が物理的結果を引き起こす可能性を許容しない。
  • 心理学と物理学の各々の因果的連鎖は互いに並行関係にあり、同一のものではなく、比較可能でさえない。

 

  • 実験的方法の適用範囲と民族心理学
  • ブントは哲学的「内観」を認めないが、感覚知覚などの低次の心的プロセスの「内的知覚」は、実験方法によるコントロール下で信頼可能なものとみなした。
  • だが、実験的方法は、思考や情動のような高次機能については有効性を欠くと考えられており、その故に、実験心理学は心理学のすべてではないとされた。
  • 心理学的研究フィールドのもうひとつの中心は、「民族心理学」である。
  • 民族心理学は、言語・神話・慣習を対象領域とするが、これは個々人の心的プロセスについての客観的な集積データである。そのため、個々人の経験の内観という方法は適用できず、民族心理学を個人心理学に還元することはできないとされる。
  • 民族心理学の方法は、「比較的心理学」(異なる文化における現象の比較)、「歴史心理学」(同一の文化現象の段階、経過を比較する)である。

 

  • 主意主義の心理学
  • ブントの心理学は、intellevtualismと対照されるいみでvoluntarismである。
  • 主意主義的な心理学は、

①表象、感情、欲求などの異なる心的プロセスは、統合的イベントの諸側面であり、すべてひとしく基本的。どれかがどれかに分析されるわけではない。

②意志volitionは、他の主観的プロセスにとっての「表象的重要性」を持つ。他の主観的プロセスは、志向的・意志的行為の一部分であるときにのみ検知される。

③志向的・意志的行為はすべての心理学的プロセスのパラダイム的役割を果たす。

 

  • ハイブリッド機能としてのブント
  • 生理学の訓練を受けて哲学に参入。
  • 実験的方法を哲学的学科(としての心理学)に取り入れて新しい実験心理学をつくる。
  • 科学の基礎でも究極的審判でもない哲学像⇒「帰納的」哲学:その時代の科学的知識に結びついた哲学。
  • 審判の役目は、新しい科学としての心理学の役目になった。

 

 

【Franz Brentano(1838‐1917)】

  • 哲学(アリストテレス研究)のキャリアを持つ。1874‐1894年までウィーン大学で教鞭をとる。知的フィールドにおける哲学の地位の低さを、より厳密な自然科学とのリンクづけによって改善しようとした。
  • 但し、彼自身は心理学実験を行ったわけではなく、他の実験心理学者から「形而上学的」と非難されることも多かったため、20世紀初頭の新心理学の発展における彼の影響を評価することは意外に難しい。
  • Titchener1909,1921、Boring1950では、ブレンターノの意義は、〈ブント学派と対立する心理学的立場の構築〉にあり、ブレンターノ自身は実験心理学には関心がなかったとされている。
  • だが、上記のような見解は誤り。ブレンターノは実験的心理学への関心が薄かったわけでは決してない。
  • ブレンターノが、ウィーン大学の心理学実験室創設に尽力したことは明らかであるし、1895年の著作では、哲学の凋落を救うためには、自然科学の方法に従った研究がなされる心理学の研究機関の創設しかないと述べている。
  • 彼の実験室へのこだわりは、実験化による厳密化だけではなく、彼の二部構成の心理学構想からきている。

 

  • Psychognosy とgenetic psychology
  • ブレンターノは、心理学は2つの部門から構成されるべきであるとする。
  • 心理学(心理構造学?)は、究極的な心的要素の同定に従事する。心的現象は、この要素が合計結合されたもの。
  • 発生的心理学は、心的現象が従う法則の探究を行う。
  • 神経システムにおける機能プロセスとして、心的現象の条件は生理学的に探究されている。心理構造学は生理学的研究およびその方法に無関心でいることは許されない。だが、感覚の分析には、的確に企図されたツールの助けが必要なのであり、この企図は心理構造学によってなされる。
  • 心理学の実験化は、心理学にとって不可避の道であり、実験化された心理学はたんなる生理学ではないし、哲学プロパの外部の事柄でもない。
  • 心理構造学の帰結は、自明で、アプリオリで必然的。
  • 発生的心理学の法則は、単なる帰納的一般化であるので、厳密ではない。
  • 〈心的継起についての最高度の厳密な定式化を妨げる2つの要因が存在する。ひとつは、たんなる経験的法則が、いまのところまだ探究されていない生理学的プロセスの影響を受けること。もうひとつは心的現象の本質的役割を果たすintensityが、計測できないものであることである。〉

 

  • 志向性、作用の心理学
  • 内的心的現象の観察は不可能。観察は、観察される対象へのフルな注意を含意するが、たとえば感情などを観察しようとすると、感情のインテンシティは不可避に変化してしまう。
  • 心理学的知識の基礎として可能であるのは、内的知覚である。内的知覚において、ひとは、自身の心的状態や心的活動の対象に方向づけられているあいだ、付随的に、その新的プロセスに注目している。
  • 心的現象の特徴は、対象への志向性にある。
  • 志向的経験ないし志向的「行為」として心的現象を定義づけることで、ブレンターノ学派の心理学は、内容ではなく「作用」・「行為」について研究するものとなった。
  • 作用じたいが心理学の探究の対象であり、作用の対象としての内容(思考、概念、感覚など)は他の諸科学の研究対象となる。

 

 

【Carl Stumpf (1848-1936)】

  • ブレンターノ、ロッツェのもとで学び、ベルリン、ミュニッヒ、ハレ、プラーグ、ヴィルツブルグ大学の哲学教授職を歴任した、現代心理学「創設の父」。
  • ブレンターノ同様に、心理学の実験化を強調し、新心理学を哲学の一部として位置づける。近年の哲学の進歩は自然科学の厳しい方法によってもたらされたと評したが、心理学が実験化されることで哲学から切放たれるわけではないとした。
  • 実験化の必要性を強調するいっぽうで、本人は実験的作業には従事しなかった。(ベルリン大学心理学実験室創設に携わった際にも、はじめはそれほど大規模なラボはいらないと主張していた。)
  • 主著『音の心理学』1883-90も、3つの論文も実験的研究に基づいたものではない。シュトゥンプはブントと音響について論争しているが、彼の立場によると音楽家の知識は、実験室で心理物理的方法によって獲得される知識とはまた別の知識であるとされる。
  • ブレンターノの「内容/作用」区分を、「現象/機能」区分に置き換えている。現象は、感覚的で心の想像によるデータであり、機能は現象間の関係・複合現象への結合・概念形成、把握や判断、感情・意欲・意志などのこと。
  • 正しい心理学は現象と機能の両方を扱わなくてはならない。両者は互いに還元されず、互いに独立である。
  • 心理学は3つの「中立的諸科学」に区分される。現象学:実験的手法を用いて現象とその相互関係を探究する。Eidology:論理的、価値的、存在論的カテゴリーの探究とリストアップを行う。関係の一般理論:類似性、同一性、依存性、部分と全体などの概念の解明。

 

【Hermann Ebbinghaus (1850-1909)】

  • 実験心理学の「著作なきリーダー」。哲学者としてのトレーニングを受けたが、伝統的哲学研究への関心は薄かった。
  • ブントの心理学構想に反対し、思考や記憶などの高次プロセスにも実験的手法を用いるべきだとした。実験心理学によって高次プロセスがカバーできるようになれば、民族心理学は必要なくなる。
  • 哲学よりも生理学よりの関心が強め。実験心理学の論文には哲学的考察部分はいらない。

 

 

【Elias Muller (1850-1934)】

  • 1881年から1921年に停年退官するまでゲッチンゲン大学で活躍。ミューラーの実験室は当時のドイツ国内で最高レベルの成果を挙げていたといわれる。ドイツの二大心理学拠点であるベルリン、ライプチヒは、ミューラーに指導された実験研究者を多く雇っていた。
  • 「初の実験的心理学者」、「実験者のなかの実験者」。
  • 実験的心理学についての著作しか存在せず、かつ、心理学における実験的方法には決定的限界があるというブントの見解に反対し、実験的方法は、思考・記憶などの高次プロセスも含めたすべての心理学的プロセスに適用可能であるとした。
  • ブントとは異なり、生理学的還元主義に好意的。意志的運動は、脳のある部分の血流の増加から帰結するのではないか、などの生理学的還元見解が多い。
  • ブントの心的因果に反対した。また、生理学に基礎づけられた心理物理学によってFechnerのような心身二元論は消去できると主張。
  • 思考プロセスにも実験的心理学は適用できるとし、記憶研究に従事した。

 

 

【Oswald Kulpe (1862-1915)】

  • ブントとミュラーに師事。おもにヴュルツブルグ大学で活躍。
  • 実験家として「慎重なテクニシャン」であったいっぽう、論理学・認識論についての著作も多数。
  • 高次心的プロセスとしての思考への内観的‐実験的研究を行った「ヴュルツブルク学派」の一人として有名。この路線は、キュルぺのブントへの否認に起因しているといわれている。
  • キュルぺによるブント否認の直接の引き金は、アヴェナリス、マッハら実証主義者の見解。彼らは「経験」はそのようには分割されないとして、形而上学的な心的/物理的二元論を否定した。彼らは同時に、経験が物理的科学と、経験的科学的心理学という2つの異なる観点から洞察されうる可能性を許容した。
  • 科学的心理学においては、生理学的システムの概念は中心的であり、心理学的説明は生理学的原理に基づいていないといけない。だが、心的概念つまり自我主体の行為の概念を前提とする概念は心理学から除外される。心的概念は、直接経験のうちにその基礎をもたない。
  • 科学の仕事は、経験のあいだの相互関係についての最も経済的な記述をなすこと。マッハによれば、科学的法則は観察可能物のあいだの関数的関係であるとされる。科学が進歩するにつれて、法則はより一般的になっていく。(より思考が経済的になっていく)
  • 心理学のばあい、究極的経済化のすえには、生理学・生物学へと還元される。
  • キュルぺは上記の実証主義をうけて、心的因果、実験的/非実験的心理学区分、実験的手法の限界というブント見解を拒絶した。心的因果にかんしては、キュルぺは、心理学は経験の身体的、生理学的、生物学的有機体の事実と関係しているから、という理由でも否定している。
  • 1893年著作では、心理学は自然科学になるのだとし、心的プロセスは生理学によって説明されなくてはいけないとしている。なので当然、ブントの心理学2部構想にも反対。
  • だが、キュルぺ自身の見解は、1910年にボンに移った以降は、実証主義的よりもフッサール現象学のほうに近づいて行った。

 

  • 思考心理学
  • 判断、問題解決への実験的アプローチ。問題を与えられた被験者は、問題を解いた後で、いかにして問題解決したかを内観させられる。
  • 「無心像思考」:多くの思考プロセスは、イメージや感覚によっては説明されえないという説。この触知しがたい分析できない内容のことを指して「意識態度」とか「アウエアネス」といったタームが使用された。

 

 

  • 6人のハイブリッド「哲学/生理学者」ないし「哲学/心理学者」
  • みな心理学の実験化の必要を強調したが、みなが実験に従事したのではない。
  • みな哲学部門にポストを得たが、6人中2人は(エビングハウスミュラー)は実験心理学著作しかない。つまりこのポストのために伝統的哲学についての論述は必要なかった。
  • 心理学の進歩と実験的方法の使用は、哲学との制度的リンクを切り落とすことを強制するだろうか?
  • エビングハウスは、心理学は個別科学のひとつとして自活し、哲学から独立すべきとした。心理学は、独立した科学として、自身の目的を追うのがよい。そうでないと「哲学の奴隷」として、自身のポテンシャルを発揮できなくなってしまう。しかも、すでに心理学は独立分野として成長しており、哲学から学ぶところもない。
  • キュルぺは1912年のすでに「個別科学としての実験心理学」が成立したとも言える時期に、哲学的心理学を維持することが必要だと述べている。つまり、2つの同等に正当化された心理学(科学としての実験心理学と哲学的学科としての心理学)を区別しつつ維持すべきとした。
  • ブントは、心理学が個別科学のひとつとして進歩するとしても、制度的に哲学と分離しないほうがよいという立場(1913年以前にはしかし明確には述べられていない)。これは、彼の見解:心理学的問題の多くは哲学的問いと深く関連しており、心理学的知識は哲学にとって重要である、からきている。心理学にとっての哲学のニーズと、哲学にとっての心理学ののニーズは対称的。心理学は、哲学の下位区分であるとともに、経験的基礎科学でもある。キュルぺのような実験心理学/哲学心理学区分には反対。心理学の知見は個別科学的に正当化されるとしても、心理学は全体として制度的に哲学の内部にとどまるべき。
  • シュトゥンプはどのようないみでも心理学(経験心理学としても)は哲学から独立すべきではないとした。心理学は、個々の哲学諸学科の基礎であり、それらを統一する要素である。だが、実験的方法の使用を、心理学の哲学的性格からの乖離とみなすべきではなく、哲学プロパというにはあまりに実験的すぎる研究が多く存在するとしても、この事実によって心理学と哲学との制度的または概念的分離が促されることはないだろうとした。

 

【新心理学とは同時代人にとって何を担うものだったのか?】

  • 新しい心理学はおおむね以下のようなものとみなされていた。

①文化的凋落への対抗策、②他の学科、機関、実践のための補助科学、③精神科学の基礎、④哲学における進歩の鍵、⑤哲学の中心的核そのもの

 

①社会‐文化的インパクトの強調。

  • ブレンターノは、昨今の閉塞的社会条件は心理学的エンタプライスに基づいて改善されるだろうと述べている。心理学の影響は、非常にベネフィティカル。1874年。
  • Heymansは1911年に、ブレンターノとおなじような議論をしている。社会文化的状況が成長著しい心理学によって改善されることが期待できる。

 

②補助科学としての心理学

  • 新しい心理学の設立から10年くらいは新心理学の応用についての見解は、おおむね期待、予測のレベルにとどまっていたが、1900-20年くらいの期間に心理学の成功的応用についてのレヴューが激増した。
  • Marbe1912:心理学は、自然科学、医学、言語学、哲学、文学、美学、歴史、教育学、法理学、経済学、哲学・・・にとっての中心的「補助科学Hilfsswissenschaft」。およそ200の心理学を応用した研究がサマライズされている。
  • 上記マルべ論文では軍事利用については言及されていないが、1910年前後から心理学を利用した軍人教育等の必要性が強調されはじめている。

 

③精神科学(人文科学)の基礎としての心理学

  • ブント:心理学は精神諸科学の基礎を供給する。
  • リップス:心理学は、すべての精神諸科学の合計と等しい。個別精神科学はそれぞれの領域についての心理学的科学であり、このような諸心理学的科学は実験心理学に含まれる。
  • ブントのリップスのこの発想は、同時代の歴史学者Lamprechtから来ている。ランプレヒトは歴史学科には心理学的基礎が必要であると述べ、「歴史学それじたいは応用心理学にほかならず」、実験的心理学は、精神科学の方法論的発展のためにレリバンスである。

 

 ④哲学の進歩のための鍵としての心理学

  • 新心理学の担い手の多くは哲学教育を受け哲学ポストに就いたため、哲学の進歩にとっての心理学の重要性が叫ばれたのは、あるいみ当たり前の戦略。
  • ブントは1863年にすでにこの見解を表明している。実験心理学のジャーナルが『哲学研究』と命名されたが、のちにこの雑誌についてKampfttitelだったと述べている。このタイトルは、実験心理学について、哲学の下位学科である、唯物論とは無関係である、生理学ではない、というイメージの定着に貢献した。
  • のちの、実験心理学・民族心理学の心理学二部構想も、心理学全体によって思弁的観念論を克服しようとする発想。
  • 哲学の、抽象性、あいまいさなどを克服するために、心理学、実験的方法、科学的方法の厳密性が必要である、という路線は他にキュルぺ、マルべなど。
  • エビングハウス:「心理学は長い過去と、短い歴史をもっている」。心理学は千年の間存在し歳をとってきたが、いっこうに安定した進歩をみせてこなかった。だが、心理学が実験的心理学になることによって、成熟した連続的進歩が可能になる。

 

⑤哲学の基礎としての心理学

  • 心理学が哲学のコアであるべきであるという主張は、心理学が哲学の進歩にとって必要であるという主張よりも強い主張である。
  • アヴェナリスは、人間の生物学的ニーズの理解のために心理学が役立つというだけではなく、心理学が哲学それじたいであるのだとまで主張。なぜなら、心理学は、現実世界での生活理解にとって重要な2つのこと、「運動」と「感覚」理解にとって本質的であるので、心理学が人間理解にとってもっとも経済的な仕方であるから。
  • 他のラジカルな論者としては、Krugerなど。論理学・認識論・倫理学・美学などもすべて経験的心理学の分割下位領域にすぎないので、「哲学」という名のもとに分割される学科は、「心理学」以上のなにかではない。
  • ブレンターノ学派もこのラジカル路線に入る。論理学や倫理学のルーツが心理学にあるだけでなく、形而上学も心理学に依存しているとされる。(アプリオリな判断とは何か、とかいった問題はけっきょく心理学的問題なので。)
  • シュトゥンプの立場は微妙だが、心理学の実験化によって心理学が哲学と切り離されるのではなく、心理学が哲学になるのだ、というほうに近いのでこの路線に入る。

 

 

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ch5 メモ

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p.101~【フッサール以前の「心理主義」】

  • Erdmannの1866年の著作で初めて「Psychologismus」というタームが使用される。

Die Deutsche Philosophie seit Hegels Tode

Grundriss der Geschichte der Philosophie

  • ここで「心理主義者」として非難されたのはE.Beneke
  • エルトマンはへーゲリアンなので、心理学を哲学の基礎として扱うベネッケの立場に反対だった。だが、詳細なベネッケ哲学批判がなされているわけではない。

 

  • Benekeの「新しい心理学」
  • 思弁哲学は厳密な哲学によって置き換えられるべき。哲学が「至高の科学、科学のなかの科学であるなら」、「哲学に与えられる実在、つまり内的経験に依らなくてはいけない」。
  • ベネッケが目指す「新しい心理学」とは「新しい心理学的方法」に基づく。自然科学をモデルにしているが、その正確さは自然科学以上。それは自然科学が「外的感覚」に依るのにたいして、新しい心理学はより誤りにくい「内的経験」を拠り所にするので。
  • 「新心理学」は内的経験をより単純な要素へと分析し、それらの相互作用から複雑な心的現象を説明する。「悟性」とかいった思弁タームは使用せず、行為や起源に注目。思考は、成熟した魂におこるものとしてではなく、発達するものとして研究される。
  • 新心理学は哲学の中心核である。「我々自身の知識」つまり心理学的知識は、他のすべての哲学的知識の基礎となる、出発点であり核である。
  • 論理学全体は、「応用心理学」とみなされる。人間の心の発達についての法則は、心理学に属するので、論理学のための基礎科学は心理学であるので。

 

1880年著作『新しい哲学の歴史』で、心理主義の定義と批判。

  • 心理主義:〈形而上学的システムの常なる同伴者。経験的‐心理学的正当化の観点から形而上学的教義を扱うと心理主義におちつく。心理主義者はたいてい、経験的心理学はすべての哲学の基礎であると主張したがる。〉
  • 〈ベネッケは最もラジカルな心理主義者。彼は認識論とすべての学科が心理学に基づくと主張するだけではなく、アプリオリな知識の同定は心理学の仕事ではないと断じさえする。彼にとってはアプリオリな知識など存在せず、心理学のトピックは経験的意識の発達の歴史でしかない。〉

1884年論文「批判的方法か、発生的方法か?」

  • 心理主義克服の策としてカントの超越論的批判的方法を提唱。カント以降の心理主義者を名指しで批判。
  • 心理主義とは、「発生的方法genetic method」(論理学・認識論・倫理の公理の普遍妥当性を証明するために、経験的心理学や文化‐歴史に訴える)を使用すること。
  • だが、あるひとつの経験科学理論は、それじたい他の理論の前提条件になっているのだから、経験的方法で普遍性を正当化することは無理。
  • すべての文化において同一の論理原則が経験的方法によって見出されうることはない。だが「幸福への意欲」はどの文化にも共通。心理主義は従って、相対主義、「暴徒」の哲学に落ち込む。
  • なぜなら、心理主義は「幸福への意欲」を人間思考の唯一の共通項とするが、これは哲学を暴徒の判断に服従させ、哲学的エンタプライスをぶちこわす最もよくしられた道だから。

 

フッサールの「心理主義」の使用法は、直接的にはシュトンプの「心理学と認識論」1892からの影響が大きいと思われる。

  • シュトンプのテーマは、19世紀ドイツ哲学における「批判主義」(認識論をすべての心理学的基盤から解放しようとする)と「心理主義」(あらゆる認識論的探究を心理学に還元しようとする)との分裂対立の克服。
  • 大部分は新カント派批判だが、カントの中心的教義「超越論的演繹」(カテゴリーの適用の正当化のための議論)と「純粋悟性概念の図式論」(カテゴリーの適用がいかに達成されるかの説明)が拒絶される形でなされている。
  • カントは、カテゴリーの適用は、現象がそこに当てはめられ秩序づけられるような時間空間の図式によって支配され、この図式によって可能になっているとするが、シュトンプからすると、この説明では、因果性や実体といったカテゴリーと、時間概念との関係が全く不明。
  • また、カテゴリーの適用についての普遍的一般原則は存在しない。個別的な綜合が、その都度の時間空間におけるその個体の性質に従ってなされ、個々の綜合の正当化はその現象によってなされるのだから、アプリオリな一般的正当化など必要ないし、そのようなものは不可能。
  • 心理学的考慮の必要性:すべての認識論的主張は「心理学のテスト」にパスしなくてはいけない。カントによる知覚の形式としての時間空間と、知覚の内容としての感覚性質との区別はこのテストにパスしないだろう。「認識論的に真であり、心理学的に偽であるような主張は存在しない」
  • 新カント派による、心理学と論理学とは明確に切り離されるべきであるという見解には反対。だが、両者はそれぞれ異なる問題を扱う。心理学は概念の起源と発生を研究する。認識論のゴールは「最も一般的で直接的で自明な心理」の同定である。
  • 「最も一般的で明証的な洞察が完全にリストアップされ、定式化・分類され、たんなる公理と区別されるようになれば、認識論は知識の基礎のためにすべてをしつくしたことになろう。直接的真理の「可能性の条件」といったような問いが何を意味するのかを私は理解しない。この先なされるべきは、意識に生じるそのような判断の心理学的条件にかんする探究である。」これが達成されれば、「批判主義」も「心理主義」も成功裏に消去されるだろう。

 

Elsenhaus

  • 論理学は心理学の一部、という積極的主張のために、Lippsが援用される。
  • リップスの「心理主義」定義は最もよく引用されたもの。:

「論理学は心理学の学科である。なぜなら、知るようになるプロセスは魂のなかでのみ起こるのであり、知るようになるさいに知ることじたいを完全にする思考することは心理学的プロセスなのだから。知識と誤謬との対立を無視する点で心理学は論理学と異なるという事実は、心理学がこれら2つの異なる心理学的条件を同一視しているということを意味しない。心理学はたんに知識と誤謬とを同一の仕方で説明するのである。心理学が論理学に溶け込むと主張するものはいないだろう。両者は十分に切り離されてはいるが、論理学は心理学の部分学科なのである。」Lipps1893

Gutberlet

  • 新スコラ主義者。アリストテレス存在論と現代経験心理学の結合、としてなぜか心理主義に肯定的だった。だが、すべての学科が心理学の一部であるという見解は拒絶。

 

  • 中立的見解

Heinze1899:

「多くの論者は、心理学にすべての哲学科学の基礎を見出している。とくに、彼らは心理学を、論理学・認識論のための基礎とみなしている。この点でカント主義と異なる。ブレンターノはこれらの哲学者のあいだで強い影響力を持つ。彼の見解は、彼の弟子たちによって発展させられた。」

Elsler1897:

心理主義とは、心理学を哲学も含むすべての人間科学の基礎とする見方」

 

*とはいえ、Stumpf1892からHusserl1900までのあいだ、心理主義に対しては、ネガティブな見方が大部分であった。

 

 

 

フッサール以後の「心理主義」】

  • 『論理学研究序説』出版以降、心理主義をめぐる議論は急激に多様化した。

 

(1)ヴァージョンの多様化の傾向

  • 各領域ごとの「心理主義」: 形而上学的、存在論的、認識論的、論理的、、、
  • 学派・主義ごと:経験主義者の、合理主義者の、批判的神学的、プラグマティック、超越論的、、、、
  • 真理に対しての程度ごと:正当化された、客観的、真なる、穏健な、厳格な、普遍的、オープンな、、、、
  • 理性的心理主義と感情的心理主義、直接的心理主義と超越論的心理主義

 

(2)心理主義と抱き合わせられる「主義」の多様化

  • 1900-1930のあいだ、心理主義と非難するさいに、別の「主義」も押し付ける傾向が強かった。
  • 最も多かった抱き合わせは、「自然主義」と「唯物論materialism」。心理主義は、唯物論の継承者とみなされがち。
  • 心理主義は、唯物論を捨てた自然主義者が採用した形式であるが、哲学を心理学によって置き換えようとしている。」Rickert1902
  • Gutberletによっては、主観主義、プロテスタンティズムと抱き合わせられた。彼は、心理主義をカント主義と対立する側のものとして捉えたため。
  • Dubsによっては、心理主義は、彼自身のダーヴィニズムと抱き合わせられる。ダーウィン主義的心理主義者としての彼によれば、科学・芸術・倫理・宗教などはすべて、人間の発生的組織によって決定され、生存のための競争によって選好される。[つまり、すべてが進化心理学に還元されている。けっきょく進化心理学主義。]
  • Moogは、心理主義実存主義?existentialism(論理学的領域について実存に依存した理解を与える立場)の一形態としている。より穏健な実存主義はEthicism(論理学を思考の倫理とみなす)、より過激な実存主義はBiologidm(論理学は人間種の生存の単の便利なフィクションである)といわれる。

 

(3)心理主義オルタナティブ

  • 心理主義をどのようなものとみなすかによって、正しい代替理論も異なる。
  • 「反心理主義antipsychologism」として最も多く挙がるのが新カント派であるが、
  • 新カント派は、「反心理主義」として超越論的論理学、観念論、ドイツ観念論、カント批判主義などを挙げていたが、「批判主義」の定義は一致していない。リッケルトによれば、「批判主義」;価値の純粋科学としての論理学である。
  • 現象学によれば反心理主義=「純粋論理学」=「超越論的現象学」とされる。
  • その他「反心理主義」として提唱されたのは、ヘーゲル(Medicus)、社会学(Adler)、数理論理学(Schols)など。

 

(4)自称心理学主義者たち

  • 「正当化された」、「真なる」、「穏健な」心理主義とかいった言い方をする論者たちは、おおむね心理主義に好意的である。このなかには、悪しき心理主義に対してのオルタナティヴはよき心理主義しかないと述べるものもいた。
  • ブレンターノとその弟子筋にあたるマイノング、ホッファー、マルティらは、自分たちが「心理学はすべての哲学の中心ないし基礎である」という見解を持つ点で「心理主義者」であると認める。だが、論理学・認識論が心理学の一部であるとか、心理学が規範的問題を解決できる、という見解は否定する。
  • Cornelius、Eisler、Linkeなども「よく理解された心理主義」に肯定的。
  • Lippsは、心理学と心理主義を再定義したと自負する。〈フッサールは論研で「心理主義」を非難している。そう、私は心理主義者である。心理学は、論理的・倫理的・美学的事実の説明なしに、心理学的事実に対してなされうる、と信じる点で。だが、心理学的事実の独立性を主張するわけではない点で、心理学者ではない。論理学の領域を、論理学ではない領域、すなわち心理学の領域と切り分けることは論理学の重要な仕事だ。心理学は科学にとっての指針になり、論理学は心理学の一部ではある。だが、論理学は心理学に基づくのではない。〉
  • Heymans、Jerusalem、Schuitzなど、認識論・論理学が経験心理学の一部であるという見解を持つ点のみで、自身を「心理主義者」とする論者もいた。つまり、規範的正当化を経験的正当化で置き換えたい立場が端的に「心理主義」といわれている。
  • Mauthnerは、カントの認識論が、(蔑称ではなくて)心理主義的であるとして評価している。

 

(5)心理主義の定義と規準

  • 1900-1930のあいだ、自称「心理主義者」は非常に少数派だった。大部分の論者は、「心理主義」を哲学的過ちとみなし、互いに非難しあった。
  • この非難のメリーゴーランド状態は、心理主義の帰属についての規準が極度にフレキシブルな状態であったことに他ならない。心理主義チャージのリストをみていみると、20世紀初頭の数十年間に、心理主義として非難される可能性がまったくなかった哲学者はほとんどいないように思える。

 

(6)心理主義論争にかんしての当時の評価

  • 論争最盛期の評価
  • Eislerは1907年の時点で、〈自身が心理主義と非難されることなしに、反心理主義的でいることは非常に難しい〉と述べている。
  • 1916年にはBaeumkerが〈反心理主義の流れは過剰なほどだ〉としている。1917年のSteinmannによると〈心理主義というキャッチーな語は、すでに内容がなくなっていて、とにかく現行の認識論のすべてにアンチであるのが心理主義といった具合〉。
  • だが、心理主義論争についての上記のような評価じたいが議論含みでもあった。Honigswaldは、上のEislerの主張に激怒して1908年に〈心理主義についての適切なカント主義を採っているものは、自身が完全に無罪であると常に自覚している〉と述べている。
  • ドイツ哲学界が心理主義とアンチとに二分していることを嘆く声もあった。Maier、Driesch、Mauthnerなど。
  • だが、心理主義をレトリカルな意味で論駁したいという理由で論争に進んで参加しようとする論者もいた。Marty、Rickertなど。だが、論駁に成功したものはいなかったようである。
  • 終結期?
  • ハイデガーの1913年の学位論文は、ブレンターノ学派の心理主義的性格を明らかにするものだった。ここで彼は〈心理主義が、ある種の哲学者たちのメンタルバランスを乱しているのかいなか、我々にはわからないし、わかる必要もない。気分や価値から自由な研究が、哲学においてさえ可能であると思うのならば、ある理論を心理主義だとみなすことが「非難」であることを否定するよき理由があるといえる。ブレンターノの不満とは裏腹に、彼の判断理論は心理主義的だ。〉と述べている。1912年にもすでに彼は「論理学的探究の現状において、心理主義的逸脱が反駁されたことは広く知られている」と書いているのだが、いったいいつ心理主義は「克服された」のだろうか?(この点は結論で考察する。)
  • 1912年にナトルプも、心理学と論理学の混同はすでにある程度克服された、としている。
  • 1920年代になると、心理主義論争じたいが過去のことになっており、心理主義というものが哲学にとってのリアルな危機としては考えられなくてなっている。
  • 再び?/新たな?危険性の示唆
  • だが、もっと下ると、1927年にカッシーラーは〈心理主義はいまだに反駁されたとはみなしえない。フッサールによる規定と批判とは形式も正当化も変化したが、我々は心理主義が高い危険性をもって現れてくる可能性に注意していなくてはいけない。〉と述べている。また、1931年のHonigswaldによれば〈心理主義ともはや闘わなくてすむなどという態度は開いたドアを蹴っているようなもので、心理主義論争が過去のものだと思うのは、哲学が直面している本当の危険をみおとしているからだ〉とされる。

 

 

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ch4 メモ

10年前。。

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【規範的‐反心理主義、規範的学科としての論理学、H2、H3】

  • 〈規範的‐実践的学科としての論理学は、理論的科学に基礎をもつ〉という主張への批判
  • 西南新カント学派(ヴィンデンヴァルト、リッケルトクローナー)
  • 論理学/心理学の境界を、価値/事実の対立と同一視していた。よって、フッサールによる規範的反心理主義批判をうけて、①is/ought二分法を、論理学/心理学境界としてじゅうぶんなものと認めるか、②価値/事実二分法が、である/べし二分法と異なることを説明するかしなくてはいけない。

Kroner1909:

  • 論理学の文のいみは、技術的な思考規則という役割に尽きないことは認めるが、論理学文がイデアルな抽象的存在についてのものであることには反対。
  • すべての規範的学科は、理論的科学に基づいているというフッサール見解を拒否。規範的法則は価値に基づいている。

⇔すべての「べし」文が非規範的な理論的文に基づいているわけではない。仮説的要請を表現するべし文のみが理論文に基づいている。だが、定言べし文はそうではない。

A)もしもあなたが馬にうまく乗りたいと望むなら、あなたは馬をコントロールできなくてはいけない。(仮説的べし文:Aは以下の非規範的理論的文Bに基づく。)

B)馬にうまくのることは、馬をコントロールできるときのみ可能である。

 

A´)戦士は勇敢であるべきである。(定言べし文:これは理論文B´に基づいていない。逆にB´の正当化と意味は、A´から導出される。)

B´)勇敢であることはよい戦士であるという概念の一部である。

 

論理学の場合も道徳と同様。ノルムA″はB″に対してプライマリである。このことはすべての論理学ノルムに共通。

  A〝)すべての推論者は真理であるものを考えるべきである。

B″)真理であることを考えるということは、よき推論者であるという概念の一部である。

 

【リアル/イデアルの区分、H4】

*リアルな法則と、イデアルな法則との区分への批判は、行為act‐内容contentの区分批判、「真理それ自体」への批判、H8とH9におけるフッサールによる「自明性」理解への批判としてあらわれている。

 

  • リアルな法則/イデアルな法則区分への一般的批判としては、Natorp1901、Michaltschew1909。
  • 1(心理学法則は曖昧であるので…)がpetitio principiiであるという点は、多くの論者によって指摘されている。
  • Schlick1910a:〈1の逆のパターンの論証も容易に構成できる。すべての心理学的法則が曖昧であるという主張によって、「絶対的」論理学を擁護しようというのは論点先取である〉と批判。シュリックは心理学法則は論理学法則ではないかもしれないが、しかし曖昧ではない、とする。「心理学法則が厳密でないのではない。心理学法則についての我々の知識が不十分なのである。」Schlick1918
  • Heymans1905:〈帰納的科学は、他の学科よりも早くに演繹的段階に進むのであるから、同じように帰納的心理学における法則的関係の探究も他の学科よりも早く演繹的段階へと進むのではないか。〉

 

  • 2(自然法則は帰納的確からしさしか得られないが、論理学法則はアプリオリに知られる)も、すべての自然法則が単なる確からしさしか得られないわけではないというラインと、論理法則はアプリオリに知られるのかどうか?というラインから批判された。
  • Schlick1910a:ここでもフッサールの自然法則見解は独断的であり、議論は論点先取であるとされる。
  • Moog1919:〈たしかに近似的な妥当性しか持たない自然法則(物理学や心理学)の法則もあるだろう。だが、重力法則などの妥当性はこれらとは異なるように思える。また、たしかに経験科学は帰納的方法を重視するが、演繹的方法を使用しないわけではなく、両者は補完的に使用される。〉〈フッサールは、自然法則のマテリアルな内容と、その意味・意義とを混同しているのではないか。たしかに自然法則は経験的世界に関係し、経験的に発見される。だが、自然法則にはアプリオリなコアが含まれており、たんに経験的なものとはいえない。〉

 

  • Heymans1905:〈論理学法則も確からしさしか得られないだろう。論理学法則についての我々の知識が心理学法則などよりも確からしいのは、たんに、我々が意識現象のあいだの基本的関係について日常的に経験しているからというだけである。〉
  • Jerusalem1905:〈我々は自然の一部であり、我々の心的生活や発達、心的生活の規制にかんしての法則は自然法則であろう。ゆえに論理学・数学の法則もまた自然法則であり、経験を通じて知られるものであろう。論理学法則は自然法則であるという見解はドグマとしてではなく、仮説的方法的規則として採用されるべきである。しかし、フッサールの「論理学法則はアプリオリに知られる」という前提はたんなるドグマ的措定である。〉
  • Nelson1908:人間の心についての心理学的研究のみが、基本的論理学法則が我々の経験の可能性の条件であるということを示しうるという点をフッサールは見落としている。
  • Sigwart1904:我々の自己意識についての心理学的分析のみが論理学的必然性の発見を導く。
  • Schuppe&Durr1906:〈アプリオリな知識と帰納的知識という区別だけではじゅうぶんではない。アプリオリに導出されるが、経験によって知られるような知識もある。たとえば、「塩辛い物体が存在する」ということはアプリオリに導出しうるが、経験によって知られることであり、かつこの知識は帰納的に得られたのではない。〉

 

  • 2(論理学法則は事実についての存在を含意しない)への批判
  • Schlick1910a:〈フッサールに反して、論理学文は判断の経験の存在を含意する。論理学文は心的経験の外部ではなくそのなかに位置づけられるものである。心理学的判断行為と論理学文とは相互干渉的で切り離せない。「イデアルな意味」としての判断の論理的構造は、リアルな判断経験からの抽象である。構造としての論理学文を理解するためには、心理学的性質が不可欠なのである。〉

 

  • フッサールによるイデアルな論理学法則と、人間心理学のリアルな法則との区分は強すぎる。
  • Geyser1916:〈じっさいの心の思考プロセスは、いかにして論理的法則と適合するのだろうか。あるいは、論理学は、思考プロセスについての因果的影響をいかに獲得するのだろうか。フッサールがこのような因果的影響を否定している以上、この点は説明のされようもない。〉
  • Palagyi1902:〈フッサール見解は結局相対主義にいきつくだろう。我々の思考がいかに真や偽やなんらかの内容にたどり着くのかは、イデアルな法則に支配されている。だが、イデアルな法則は、リアルな思考行為とはなんら関係がない。つまり、イデアル/リアル法則は随伴関係であって因果的関係はない。真理はしたがって、リアルには不可能である。〉〈フッサールは因果性の原理によって、この世界の事実は支配されているとするが、因果性法則はイデアルな法則である。要するに、イデアル/リアルの区分が混乱しているうえに、その架橋については何も述べられていない。だが、フッサール心理主義者ではないということは、この区別によって支えられているのであった。〉

 

【論理学法則の心理主義的解釈、H5】

  • 「スペンサーによるPNCの心理主義的解釈」とされるものへの批判。
  • Schlick1910a:〈フッサールのスペンサー理解が誤り。スペンサーはPNCを「いくつかの心的状態が他の心的状態によって直接的に壊されるという普遍的経験のたんなる一般化」だとしている。ここで、彼は、思考におけるこの原理の事実的効果を説明しようとしているわけではなく、たんに彼のPNC定式化へと至る仕方を説明しているだけである。フッサールは、「否定的様式は肯定的様式の排除なしには現われず、肯定的様式は否定的様式の排除なしにはあらわれない」をPNCの心理主義的解釈とし、かつこれはトートロジーであると非難している。だが、この直後でスペンサーは「否定的-肯定的存在のアンチテーゼは、じっさい、このひとつの経験の表現である。」と付け加えているのであり、彼の定式化はなんらトートロジーではない。〉

 

【論理学的法則の心理主義的解釈の誤謬、H7】

  • H7は直接的にはHeymans批判であった。H7は簡単にいうと以下のようなもの。

もしも三段論法が思考の心理学的法則であるなら、これら法則から逸脱する人間推論者はいない。

人間の推論者は誤謬にコミットする。彼らは三段論法の法則から逸脱している。

従って、三段論法の法則は、思考の心理学的法則ではない。

 

  • Heymans1905:誤謬が三段論法法則から逸脱しているという見解がおかしい。諸前提から誤った帰結を導出する推論者は、前提にあるタームの意味について混乱しているのであって、推論図式についての知識を欠いているのではない。法側からの逸脱の原因は、いわば思考プロセス以前の問題である。
  • Schultz1903:「誤謬が生じるさいにも、思考法則は脳内での力を失わない。誤謬は記憶や把握の誤りに帰せられるものであり、つまり諸前提の意味の取り違いの問題である。」

 

懐疑論相対主義、人類学主義、H8.1、H8.2】

  • H8はかんたんにいうと以下のようなもの。

懐疑主義相対主義は自己論駁的である

心理主義懐疑主義相対主義にいきつく

したがって、心理主義は自己論駁的である

 

  • 第一前提への批判:
  • Natorp1901:〈フッサールによる反懐疑主義相対主義の議論はpetitioをおかしている。彼は「懐疑主義という立場が定式化されるや、それはつまり自己論駁的であることを示している」と述べている。だが、これは少なくとも論理学が客観的なものであると理解しているものにとってのみだろう。だが、このことは相対主義者がまさに否定していることなのである。〉
  • Aschkenasy1909:〈異なる論理学による意識についての「明確な観念」を形成することはたしかに不可能である。それにもかかわらず、哲学者はこのような意識についての「概念」を形成を正当化しなくてはいけない。認識論は、たとえば超越論的対象とかいった(これは意識から独立しているのだから)明確な観念として実現しえない概念を操作しなくてはいけない。心的観念のなかの超越論的対象を表象しようとするのは、端的に矛盾であり、結局これらすべての内容は内在的な意識の概念の一部にすぎない。認識論的なものはこうしてすべて、客観的ではありえないのである。〉
  • 相対主義者は、「すべての事実はノルムによって正当化されるだろうが、このノルムじたいは決して正当化されえない」と言っているのであって、もし絶対的なノルムを主張したい場合には論証責任は絶対主義者のほうにあると答えることが可能。おそらくこの正当化は循環なしにはなされえないだろうから、すべての意識にとって無条件に前提されるようなノルムを相対主義者は受け入れる必要はない。〉
  • 〈上記のタイプの相対主義者は、異なる真理の存在は認めないが、異なる論理学の受容の可能性は認める。真理つまり実在は我々をそのように強いるものであるから、唯一のものである。だが、この強制は、異なる意識にとっては存在しないかもしれないという概念的可能性は措定できる。異なる意識にとっては、真理という概念は、我々の意識が措定するようには措定されないかもしれない。この見解によって、異なる真理が可能であると主張しているわけではない。我々が真理について語りうるのは、我々がこの概念的可能性を考えているいま否定している「我々の論理」を前提しているときのみであるので。〉
  • Schultz1903:〈フッサールは以下のようにいう。「もしも真理が相対的であり人間種に依存するものであったなら、誰ひとり人間が存在しないなら真理は存在しないことになる。だが、このときも、なんら真理が存在しないということは真である。だから、真理は相対的ではありえず、人間種に依存するものでもありえない。」要するに、「話者が誰一人いなければ、なにひとつ文もない。だが、なにひとつ文が存在しないとう文は、それでも存在するだろう。」というようなものか。これは議論といえるだろうか。〉

 

【真理の独立性、H8.3、H9.2】

  • フッサールによる心理主義批判の核は、「真理それ自体」つまり、真理は任意の理性主体による把握がなされるか否かとは独立に存在している、というテーゼである。シュリックはこれを「真理の独立説」と命名している。
  • 真理の独立説が登場するのは、ジグヴァルトの〈どんな判断も誰かによってじっさいに思考される以前には、真ではありえない〉という説を批判する文脈である。ここでフッサールは重力法則は、その発見や理解、定式化にかかわらず常に真であると述べている。
  • Sigwart1904:〈フッサールは、同時に真ではありえないような「矛盾した諸事実」について語るが、これは彼が「真理」と「実在」とを混同していることを示している。真や偽でありうるのは発話や意見のみであり、これらは必然的に発話主体を前提としている。独立した本性として「文」を措定することは間違いである。〉
  • 〈「たしかに、ニュートン以前にも惑星は重力の法則に従って運動していただろう。しかし、ニュートンが彼の理論を定式化する以前には、これら運動についての真なる文は人間知識の内部には存在していなかった。」ニュートンの定式化ののちに、この文は、その内容によって真となり、過去においてもこの文は真であったことになった。
  • Maier1914:真偽を「可能的真理」と「カテゴリー的真理」との2つのいみにわける。ニュートン以前は重力法則は可能的真理。ニュートン以後に判断がじっさいになされたあとはカテゴリー的真理。つまり、真理とは、「超越論的に与えられる事実」と、じっさいになされる判断との関係ということになる。
  • Schlick1910a:〈フッサールは「真理」と「実在」を混同している。真なる判断に基づいた事実のみが我々から独立といえる。真理の独立説の誤りは、観念とその対象との区別にかんする誤りに帰せられる。具体的な観念の場合には、対象としての本それじたいと、その本についての私の観念とははっきり区分できる。だが、抽象的な観念の場合、観念の内容と対象とは区別がうまくいかない。論理学文と、行為としての判断とは切り離せない。〉

 

  • 判断行為と判断内容の区別への批判も多くなされた。
  • Jerusalem1905:種相対主義擁護の文脈でフッサール主張「同一の判断内容が、ある種にとっては真、別の種にとっては偽ということはありえない」を批判。〈もしも2つの種が完全に異なる起源をもつ種であったら、両者のあいだで同一の判断内容は存在しないだろう。判断行為と判断内容は、相互浸透的な関係にあり、片方が変化すれば、もう片方も変化する。真理を人間知識にのみ限定することはなんら不合理ではない。何が不合理かではなく、異なる起源をもつ種ごとの判断内容の同定について語るべきである。〉〈真理の客観性は、イデアリティへの指示によってではなく間主観性によって担保されるべきものであろう。〉
  • Palagyi1902:〈「私は今考えている」と私は今考えている場合、後のほうの私は、私の思考していること(内容)を思考行為によって反省している。後のほうの私の思考行為の内容は私が思考していると思考している内容であるが、いったいこれはどのように抽象できるのだろうか?思考している人物と、その思考内容とがつねに区分できるという主張には無理があるだろう。〉
  • 〈時間的な行為としての判断と、その判断の意味とが区別されることは否定しないが、非時間的意味は時間的行為と結合しているのであり、行為が存在しないのなら非時間的意味の妥当性も成立しない。〉
  • フッサールは、すべてにわたって誤っている種が存在しうる、と述べるが、人間がこの種ではないことをいかにして示しうるのだろうか?「真理それ自体」という発想は、結局、相対主義懐疑主義・不可知論を導く。〉
  • Heim1902:〈フッサールは「イデアルな可能性」として「真理それ自体」を想定しているから、じっさいには真理それ自体には到達しないという可能性を許容していることになる。だが、この可能性は成立しない。何かが可能であるという主張は、この何かがすでに誰かの意識のなかにじっさいに存在するか、誰かの意識のなかでその何かが将来じっさいに存在するだろうと主張されるときにのみ論理的に意味をなす。じっさいには決して存在しないような可能性について語るのは無意味だ。〉

 

  • エルトマンは、著作Logische Elementarlehre第二版1907のなかでフッサールは自分を誤解しており、彼の理解と自説とはあまりにかけ離れているので議論のしようもないと述べている。だが、論理の仮説的必然性についての議論は、第二版で書き改められており、これは実質的にフッサールの「真理の独立説」批判として読める。
  • Erdmann1907:神学的配慮と合理的心理学批判とを結合して、種相対主義を擁護する。〈我々は合理的心理学が想定しているような、独立の変化しない実体としての魂の本質を直接に把握できるのであれば、我々の思考についての不変性を宣言できるだろう。だが、心理学は、思考プロセスについての観察による在庫とそれらの結合であるのだから、このような把握は不可能。したがって、我々は、現在のノルムとしての論理学が永続的なものであるとも言えないし、完全な心的表象の形式化にもたどり着けなければ、より高度な発展を経てより複雑ないまとは異なるノルムを打ち立てることも期待できない。〉

 

【自明性、H8.3、H9.3】

  • 自明性については、3で〈純粋論理学は自明性とその条件については何も述べない〉、〈自明性を真理の規準として使用すべきではない〉とされる。
  • また3では自明性の許容される「イデアルな」意味として〈イデアルないみであれ概念的ないみであれ、真理それじたいと対応づけられており、真理が自明性として経験されたようななんらかの可能的知的主体(人間、非人間問わず)の可能的判断〉が挙げられる。
  • フッサールの自明性についての見解は、上の2か所で矛盾しているとも言われているが、多くの論者は、自明性にかんして、それが形而上学的カテゴリーに属するものなのか、心理主義的なものなのかで、フッサール自身混乱していると批判している。
  • Wundt1910b:〈フッサールら論理主義者が自明性に訴えられず、自明性の明確な定義もなしえないのは、以下のような理由からであろう。論理学法則が自明であると宣言すると、論理法則の妥当性は自明性に基礎をもつことになる。これが循環でないためには、自明性がそれ以上定義できない究極的事実であることを説明しなくてはいけない。事実が存在するとされるのは、何らかの仕方で知覚に与えられるときのみであるから、論理主義者は直接知覚とか定義不能性を正当化と同等のものとして扱うことになろう。だが、直接知覚は心理学的プロセスであるので、直接知覚への訴えは心理主義にいきつく。〉
  • Kleinpeter1913:〈フッサールは以下のようなジレンマに陥っている。一方で彼は、すべての経験と心理学的考慮を拒絶し、他方では、彼のシステム全体を、自明性という論理学とは完全に無関係とされる心理学的事実のうえに打ち立てようとしている。フッサールこそわるいいみでの「心理主義者」ではないのか。〉
  • Schultz1903:〈フッサール心理主義者であってもかまわないが、自明性の感情に信頼をおくのは間違いだ。過去における自明性の感情について、我々は非常に頻繁に誤ったり疑いをもったりする。この問題は、「自明性の自然誌」として生物学、歴史学、心理学によって探究されるべきだろう。〉
  • Jerusalem1905:〈フッサールによると「真理とは、明確な判断において例証されたときにじっさいに経験になるような観念」であるとされる。この「真理という観念」は、人間にとってアクセス可能性がないもので、明確な判断のさいには存在するような、しかし判断やその条件とは独立に存在するようなものである。「真理という観念は明確な判断において与えられる。だが、この観念は、判断と事実とが対応していることが保証されなくては真理の観念ではない。それゆえ、明確な判断のさいに与えられる真理という観念は、客観的で絶対的妥当性をもつのだ。」というわけか。まるで完全なる存在としての神という概念から、神の存在を演繹したかのようだ。〉
  • Elsenhaus1906:〈心理学的自明性は、論理学・認識論の「究極的規準」であろう。フッサールはそれに反対しているが、では彼の「真理という観念」は心理学的自明性に置き換わりうるものといえるだろうか。自明性は、個々の思考存在に生起する心理学的プロセスとしての個別的経験として以外に理解できない。自明性がこのような「経験」であるとしたら、「真理という観念」の経験もやはり単一の個々人の個別的経験であるように思える。〉
  • Schlick1910a:〈3の箇所とH9.3の箇所で述べられた「自明性」概念は互いに矛盾している。H8.3において懐疑主義心理主義を攻撃するさいに信頼をおいた心理主義的自明性を、H9.3では捨てている。〉〈人間理性はいかにして真理を真理として理解するのだろう?自身の真理の独立説を擁護する文脈で、それは自明性という規準によってであるとフッサールは言う。だが、数ページあとになって彼は「自明性に信頼をおくことが許容されないとしたら、我々はどうしたらいいのか?」と問い、先ほどの自明性理論を投げ捨てるのである。明らかな矛盾である。ここで捨てられているのは、先の「自明性のリアルな理論」であることは間違いないから、「文」に関係した自明性のイデアルな可能性と、判断行為に関連したリアルな自明性についての彼の区別によって、この矛盾を救うことはできない。〉

 

【思考経済、H10 】

  • クラインペーターは、フッサールのマッハ理解が不十分であると述べた上で、フッサールの議論のドグマ的性格を非難している。
  • Kleinpeter1913:〈フッサールによれば「純粋論理学は思考経済に先立つもので、思考経済によって純粋論理学を基礎づけるのはばかげている」。思考経済がなぜ論理学法則の起源と妥当性を説明しないのかについて、彼は論理学法則のアプリオリな本性を持ちだして議論しているが、論理学法則がアプリオリであることは示されていない。これはドグマ的だ。我々心理主義者は、論理学法則は科学的思考の発達から帰結するものと信じているが、この想定はドグマではなく発見法としての方法論的規則である。まるでフッサールはこういっているかのようだ。「思考経済は結構なものだし、啓蒙的な原則だ。論理学にとって役立つし。でも論理学の正当化には使えない。なぜなら私の論理学バイブルに基づいたものではないからね。」〉

 

【批判の一般的傾向と代表的批判】

フッサールの定義・用語法の曖昧さは非常に頻繁に批判されている。

②「フッサールの路線の議論はすでにあったものであり、新しく学ぶべき点はない。」

  • たとえばナトルプによると、フッサールの純粋論理学は、新カント派の認識論のできそこないにすぎない。
  • その他、すでに自分がこのような心理主義批判を展開していたと述べる論者は多かった。

③「フッサールによる心理主義者のリストは不十分だ」

④ほとんどの批判者は、自身の立場(ないし自分が属する学派)は心理主義ではないことを示す必要にかられていた。

  • フッサールに名指しで批判されたもの⇒みな自身が心理主義者であることを否定している。
  • 名指しはされなかったが、心理主義と関連すると書かれたもの

フッサールの師にあたるブレンターノとブレンターノの弟子筋。彼らは『論研』以前にも心理主義と言われていたのだが、なぜかフッサールが攻撃していた相対主義心理主義と自分たちは無関係だということは強調したがった。

⇒新カント派は、フッサールの「超越論的哲学は心理学だ」という文言に激怒している。

⑤「フッサール自身が心理主義者ではないのか。」

  • ナトルプ、リッケルトら新カント派からの批判。
  • 他の路線からも、フッサール自身が心理主義者であるという批判は多くあった。
  • フッサールがどのような心理主義なのかについて統一見解はなかったが、おおむね以下のようなものに分かれる。
  • 自明性という心理学的概念に訴えた純粋論理学を基礎にした理論なので。
  • 論理学法則のイデアルな性質ゆえ。つまり、論理学についてのプラトニズムが心理主義であるということか。
  • 真理それじたいと、イデアルな法則についてのアクセス可能性が示されていないので、結局のところ懐疑主義相対主義だろう。だから心理主義的。この路線は、イデアル/リアルの区分についての批判に基づくことが多い。
  • 論理学の基礎研究のために「現象学」ないし「記述的心理学」を採用する以上、限りなく心理主義に近いと言わざるを得ない。

心理主義と断ぜられるさい、これに加えて「スコラ的」、「貴族的形而上学主義」、「神秘主義」、「ロジシズム」、「フォルマリズム」などとも非難されている。

  • Palagyi1902:〈論理学と認識論は、生理学的心理主義者による哲学への介入によって危険にさらされるだけではなく、現代数学におけるフォルマリスティックな(形式主義的)性格によっても危険に陥る。フッサールの現代数学へのシンパシーには、数学帝国主義(数学は他のどの学科よりもselfishでない。数学は論理学を完全に飲み込んでしまう。論理学は、数学によって解明されるのだろうし、最終的に論理学は心理学を放棄するだろう。)の危険性も感じる。〉
  • Wundt1910b:〈ロジシズムとは新たな帝国主義である。「心理主義は、論理学を心理学に転換しようとするが、論理主義は、心理学を論理学に転換しようとする。」だが、この2つの哲学的立場は容易に互いに混ざり合ってしまう。スコラ的哲学者は、論理学的概念に助けられながら心についての概念化を進めている現代心理学が発展を無視して、論理学と心理学とを切り離そうとしているが、これではどちらにしろ「排外的心理主義」に陥るだけだろう。〉

 

SPK的考察】

(*)フッサールは、ドイツにおける彼の同時代人たちによる心理主義を反駁したことで有名である

 

(*)が最強様相だとする。本章でみてきた状況では、まだこの様相に達していない。

  • フッサールの議論がオリジナルなものなのか、心理主義規定が妥当なものなのか、彼の非難は正当なのか、、、などの点について、多くの論争がある。
  • フッサール(本人)の議論⇒「心理主義についての論争の〈データ〉」
  • フッサール心理主義を反駁したのか否かをめぐる論争において、〈データ〉は、「解釈的にフレキシブル」な状態にある。つまり、この時点でのドイツの哲学者のあいだでは、フッサールの議論についての一致した同意は存在していない。異なる多くの論者が、フッサールの議論を異なった解釈でよんでいる。

 

*以下の章で、この論争がいかに終結したのかをみていこう。どのような「終結メカニズム」が働いて(*)は強様相を勝ち取ったのだろうか?

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Kusch1995 ch3 メモ

はっくつできた。

 

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フレーゲの反心理主義テーゼ:Grundlagen der Arithmetik 1884】

  • 数学・論理学と心理学の区別にかんするテーゼ

 

F1:数学と論理学とは心理学の一部分ではない。またそれらの対象と法則は、心理学的な観察および心理学的法則によって定義、解明、説明されたり真であるとして証明されるものではない。

 

F2:数学はすべての科学のうちで最も厳密なexactものであるが、心理学は厳密ではなく曖昧なものである。したがって、数学が心理学によって基付けられうるとか、心理学の一部でありうるといった可能性を想定するなど信じがたいことである。

 

F3:数は対象であり、かつ、観念的idealな実体entityである。観念は、主観的、特異的、心理学的な実体である。

 

F4:アプリオリ/アポステリオリの区別、分析的/綜合的判断の区別は、判断のさいにあらわれる人間意識の様式の相違を指しているのではない。それらは、諸判断の正当化または証明のされ方の相違を指しているのである。

 

F5:観念という括りnotionは、主観的・心理学的観念のためにのみ使用されるべきであり、対象や概念conceptには使用されるべきではない。

 

 

 

  • 数学・論理学への心理学的考察の導入は、数学・論理学の進歩を妨げる。また、哲学の心理学的傾向のせいで、数学と哲学との協働はうまくいかない。
  • 心理学的プロセスの探究それじたいに意義がないわけではないが、その探究は算術的真理の正確さや厳密な正当化にはなんら寄与しない。判断の真なることと、判断が真であると考えられるか否かという問題とは無関係である。
  • 数についての観念と、数それじたいとは厳しく区別される。もし数が観念であるとしたら、数が歴史的に変化することを許容することになってしまうだろう。
  • 算術的真理は、事実の問題に訴えることなしに正当化できるので、分析的かつアプリオリである。
  • 「観念」とは、主観的な、心理学的連合法則によって支配されている個々人の意識やイメージのなかの感覚的な絵のようなイメージについて使用されるべきである。

 

  • ミル批判テーゼ

 

F6:数学的真理は経験的真理ではない。また、数は対象の集計の性質ではない。

 

 

  • 数の定義は事実の問題についての経験的主張ではない。数0とか777864などの定義によって物理的事実が指示されていると想定することは不可能である。計算をしている誰かは、なんら物理的知識を持っているのではない。
  • 数学的真理は帰納によって基礎づけられることもできない。すべての数学的文が従うような一般的帰納法則と呼べるものはないからである。
  • 数学を習得するために経験的知識が必要であることは確かであるが、このような経験的知識は数学的真理の正当化にはなにも寄与しない。
  • どのような集計も部分に分けることができ、この分けられたあとの性質もそれぞれ集計としての性質であるとすると、数0や1は説明できない。また、集計は様々な仕方で切り分けることができる。
  • 色などの性質の数をあつかうさいに、数は、それが可視的であろうが不可視であろうが、具体的であろうが抽象的であろうが、異なる様々なすべての種類の実体をじ述定しているということが見落とされている。

 

 

フレーゲの反心理主義テーゼ:Grundgesetze der Arithmetik 1893】

  • 真理を「真理とされていること」へと還元する心理学的論理学への批判

 

F7:「法則」という語は両義的である。何が真理なのか、何が問題であるのかを表現するさいに使用されることもあるし(記述的法則、法則d)、何がなされるべきなのか、何が問題となるべきなのかを表現するさいに使用されることもある(規範的prescriptive法則、法則p)

 

F8:すべての記述的法則は、それと対応するものとしての規範的法則として理解されるか再定式化されうる。つまり、すべての記述的法則は、規範的法則、すなわち「思考法則 law of thought/Denkgesetz」をうむ。

 

  • いかに考えるべきかを規定している限りでは、そのすべての法則pは「思考法則」と呼ばれうる。だが、唯一の種類の法則dしか「思考法則」とは言われない。この唯一の種が心理学的な法則dである。

 

F9:論理学的法則dは法則pとして、つまり「思考法則」として理解または再定式化されうる。じっさい、論理学的法則pは、なんらかの他の学領域の法則pより以上のタイトルに値する。なぜなら、論理学的法則pは、あらゆる思考を規定するものであるからである。つまり、論理学的法則pはトピック特殊的ではないのである。

 

  • ここで重要なのは、心理学的法則と論理学的法則との対立は、is/oughtの対立ではないという点。論理学的法則も原始的にはprimarily法則dであり、法則dから再定式化されたものである。

 

F10:心理学的論理学者は、「思考法則」を、心理学的法則dから導出した法則pとしてか、あるいは、心理学的法則dそれじたいであるとして扱う。どちらも誤りである。

 

  • 心理学的論理学者は、真正なる論理学的法則dが存在することを理解していない。彼らは人間の思考の一般化を述定した心理学的法則dを出発点にして、その心理学的法則dを、真正な心理学的法則dそのものとみなすか、あるいは心理学的法則pと論理学的法則pとが混同したものとみなす。この場合、「思考法則」を論理的法則pと、心理学的法則pdの両方のために使用しているため混乱を招く。
  • 心理学的法則pは思考の習性を評価、つまり真偽を判定するものではない。評価のためには思考習性とは独立した測度が必要である。だが、心理主義的論理学者によれば、論理学のためにレリバンスであるとみなされている法則dは、思考習性から導出された法則dでしかないため評価の測度となりえない。
  • 心理学的法則dは真であるとみなされていることの法則laws of taking-to-be-truthである。つまり、人間が判断が真であるとか推論が妥当であると受容する条件の記述である。どのような条件下で判断が真であるか、推論が妥当であるか、を決定するものではない。
  • 心理学的論理学者はしたがって真理と真理とみなされているものとを混同している。Erdmannは心理を個々人の判断の一般的同意と同一視している。だが、真理は、なにかが受容されるか否かにはまったく依存しておらず、したがって、真であるということの法則は、あらゆる心理学的法則から独立である。

 

F11:もしも論理学的法則が心理学的法則dかあるいは心理学的法則pであったら、論理学的法則は種、たとえば人間種を指標することになる。しかし、論理学的法則dは種を指標しない。

 

  • エルドマン見解(論理学的法則はたんなる「仮説的必然性」であり、思考法則の妥当性は現在知られている限りでの人間に関してのものに限定される)への反論。
  • ①たとえば非矛盾の法則といったようなものを持つ種に出会ったさいに、彼らを異なる論理をもった種であると想定するだろうか。我々はその種をすべてのメンバーが狂気であると想定するのではないか。
  • ②我々かあるいは別の種が正しいか否かといった問いを排除するようなあらゆる論理学の概念は誤りでなくてはいけない。心理学的論理学は、それが真理を真であるとみなされていることに還元するかぎりでは、この問いを除外している。
  • ③エルドマン見解だと真理概念が種や時間にたいして相対化してしまう。

 

F12:論理学は、なぜ我々が最も基本的な論理法則dを真理であるとみなすのか、という問いには答え得ない。

 

  • 論理学それ自体が、我々がなぜ論理学的法則dを受容しているのかを説明したり正当化したりすることはない。論理学的法則pは、論理学的法則dから導出され、多くの論理学的法則dはそれよりも基礎的な論理学的法則dから導出される。導出の連鎖の最基底までいきつくと、最も基本的な論理学的法則dにたどり着く。この論理法則によって構成されている我々の本性についての議論は、論理学的には正当化できず、心理学ないし生物学的な議論となる。

 

 

  • 非実在的領域と主観的領域との同一視(エルドマン)批判

 

F13:時間空間内部の実在的な対象と出来事によって、客観的対象のカテゴリーつまり非心理学的カテゴリーが使い果たされるという想定は悪い想定である。

 

  • 数は、客観的で心理学的実体。月が個々人の異なる主観によっていかに形成されるかとは独立であるように、数もいかに我々によって表象されるかとは独立である。

 

F14:数や概念が、対象の第三の領域の成員であることを否定すれば、非実在的実体は不可避に観念論、独我論を導く。

 

  • ①第三領域の否定は、概念を観念として扱うことを強いる。②だが、観念の両義性(個々人の主観的表現/個人の心とは独立の客観的表現)の問題があるため、概念と観念へと還元することは避けるべきである。③主観的領域と客観的領域との混同によって、心理学的論理学者は、客観的‐観念を、主観的‐心理学的領域へと溶かしこみ、実在的対象にも主観的な戦略を適用してしまう。すると、存在するものは観念のみである。これが主観的観念論ないし独我論である。④異なる主観ごとの観念の個体化は不可能であるので、伝達も帰属も不可能。このような状況化では「対立のレフェリー」としての論理学は必要なくなる。すべては、彼の真なる観念の正しい発話であるので。

 

F15:エルドマンの論理学は、心理学的論理学のジレンマを例証している。

 

  • エルドマンは第二領域と第三領域との区別をしていない。(幻覚による対象と数の両者を「観念的本性としての対象」としている。)
  • 観念とその内容との区別もない。(主観と判断の述定の両方を「観念」としている。)
  • 実在のカテゴリーを観念のカテゴリーとともに捨ててしまうのは、心理学的論理学者のわるい傾向であるが、それにも関わらずエルドマンは実在の把握について述べている。
  • エルドマンによれば、我々がなんらかの実在を述定するときには、そのような判断の主観は、観念によって存在させられていることとは独立の「超越論的」対象である、とされる。これは一見、実在論者の主張のようだがそうではない。
  • ①述定される実在についての上記の説明が、彼の判断についての一般的見解(主観も述定も常に観念である)と整合するかびみょう。
  • ②彼の「超越論」は観念論も独我論も救わない。彼の観点からは、超越論的対象も真正の至高善としての観念のもとに落ちるものであるから。
  • ③結局、無限後退である。エルドマンによれば、超越論的対象は観念を通じてのみ心に現れる。したがって与えられた超越論的対象I1は、さらなる観念I2によって心に現れなくてはいけないのだが、I2の超越論的対象は、I3を通じてのみアクセス可能である。

 

F16:主観的(心理学的)領域を回避し、これら困難を避ける唯一の策は、知るようになることを、知られる対象を創造するのではなく、知られる対象を把握graspする活動として理解することである。

 

  • 「把握」といわれるのは、我々が知るようになるものそれじたいは、我々からは独立であることを意味している。私が鉛筆(物理的対象)を把握するときには、この対象(鉛筆)は把握行為とも把握する行為者とも独立である。

 

  • 従って、フレーゲによる心理学主義批判は、心理学的論理学が以下の論理的区別をし損なっている点に向けられている。

・一階の概念(realityのような)と、二階の概念(existenceのような)

・概念の「特性feature/Merkmale」と、概念・対象の「性質property/Eigenschaften」

*『算術の基礎』によれば、対象の性質は、それら対象があてはまる概念の特性である。一階概念の性質は、それら一階概念があてはまるような二階概念の特性である。数や「存在」は二階の概念である。

 

フレーゲによるフッサールPhilosophie der Arithmetik批判(1894)】

  • フッサールの『算術の哲学』にたいしてのフレーゲによる書評は、まずフッサールの心理学的前提を同定し、つぎにそれら前提からの受け入れ難い帰結を示し、最後にこの帰結によってフッサールの数についての心理学的取扱いが影響されていることを示す、という構成になっている。

 

F17:フッサールの前提は、心理学的論理学者の前提である。

 

  • フッサールの立場では、語の意味、概念、対象はすべて異なる種類の観念である。概念‐観念は、対象‐観念よりも、不完全で非決定的である。
  • さらに、フッサールは、(より一般的な)概念の起源を、対象と(より一般的ではない)概念から心理学的に説明する。我々は自身の注意を対象‐観念と概念‐観念の何らかの性質に限定することによって一般的概念を獲得するとされる。

 

F18:フッサールの心理学的前提は、主観的/客観的の区別を消去してしまい、定義を不可能にし、同一性の理解を妨げる。

 

  • フッサールの「観念」はエルドマンと同じく主観的/客観的の両義的使用をされている。観念と、概念・対象とを混同すると、主観的/客観的の区分が消去されてしまう。主観的な、概念、対象としての観念と、客観的な、実在的ないし観念的な実体としての思考とは区別されなくてはいけない。
  • ②語の意味と観念との混同は、定義が循環するか偽であるという誤りを導く。いまW2によって語W1を定義しようとする。心理学的論理学者によればW1は観念I1であり、W2は観念I2である。だが、もしもI1=I2であれば、この定義は循環している。他方、もしもI1≠I2であれば、この定義は偽である。
  • となると、数概念などのキー概念については定義可能であることを否定したくなるだろうし、同一性や類似性についての理解もできなくなる。つまり、すべての概念は数的に区別されたものとみなされるほかない。
  • フレーゲによると、これを避けるには、A)少なくも、数学的な外延的定義は十分であるとするか、B)意味も意義もどちらも客観的で観念とは区別されるものであるとする、のいずれかである。
  • ③従って、フッサールによる、対象と概念の観念への還元は、異なるオーダーの概念間の区別を見落としており、概念の特性と性質とを無視している。

 

 

F19:フッサールの心理学的前提とそこからの受け入れ難い帰結とは、数概念の信じがたい分析にも反映されている。

 

  • フレーゲフッサールの数概念の起源についての心理学的説明批判のなかで、自説と対照させて議論することはせず、フッサールの理論の奇妙な点を指摘することのみをしている。
  • 例えば、我々はどんな任意の内容も、それらの関係づけることなしに、ひとつの観念に結合できるとか、2つの異なる内容から抽象を行っても、数的相違は残るといったフッサールの見解が否定される。
  • また、フッサールは数を多数性によって解明しようとするため、0や1が説明できない。そのため、0や1は「いくつ?」という問いへの「否定的解答」であると語るしかなくなるが、これは真正な答えではない。
  • 加えて、大きな数がいかにして観念であるのかも説明しがたい。数は人間の観念の一種であるとしても、人間の表象能力は有限であるからである。フッサールは、これを記号システムに依存するような「記号的観念」であるとしたが、これだと形式主義者と同じような立場になってしまう。

 

 

 

フッサールによる心理主義批判:『論理学研究』序説1990】

  • 『論理学研究』序説は、以下の3つの部分に分かれている。

①論理学は「実践的‐規範的学科Kunstlehre」であることを定義する。

②論理学的実践的‐規範的学科の理論的基礎は、心理学的でも生物学的なものでもない。

③実践的‐規範的学科としての論理学の真なる基礎は、「純粋論理学」にある。純粋論理学とは、新しいアプリオリで純粋な証明的科学である。

 

  • 実践的‐規範的学科としての論理学

 

H1:論理学が科学に関しての実践的‐規範的学科であるということの2つの主要な意味のひとつは以下のものである。それは、科学的正当化の方法を評価し、以下の3つのことをたずねる。A)いかなる経験的条件のもとで妥当な方法は成功的に施行されうるのか、B)科学はいかにして構築され、いかにして他のものと境界づけられるのか、C)いかにして科学者は誤りを犯すことを避けられるのか。

 

  • 科学者自身は、かれらのフィールドの究極的前提や方法を正当化することはできない§4ので、このすきまをうめるのは科学論(学問論)の役目である。科学論は一種の論理学である。
  • 学問論としての論理学は、正当化の方法にかんするトピック中立的な手続きのセット、つまり、推論規則のセットである§5-6,7。
  • 知識本体を科学的なものとするために、それによってなされる正当化は組織的に関係づけられる必要がある。したがって、科学論は、科学を、組織的な、関係付けられた正当化の構造化された統一体として探究することに他ならない。§10
  • このような論理学は規範的学科に属する。それは、科学のゴールと観念とを試金石にして、科学の方法を評価する。ゴールとは、真理への到達にほかならない。§11

 

H2:すべての規範的領域Dnは、それが属している非規範的な理論的文か、あるいは、いくつかの異なる非規範的理論的学科に基礎をもつ。これらの文のうちのいくつかは、(従っていくつかの個別科学は)Dnにとって本質的であるが、他のものは非本質的である。

 

  • 評価的態度(「よい」とか「わるい」とかの価値の述定)と、規範的判断(「AはBするべきである」などの形式の判断)との相互関係は以下の通り。
  • ①すべての規範的判断は評価的態度を前提としている。評価的態度は与えられた領域の実体を、よいものとわるいものとに分割する。「約束は守られるべきである」は規範的判断であるが、これは人間の行為をよいものとわるいものとに分割する道徳的態度を前提としている。約束を守ることはよいこと、破ることは悪いことである。§14
  • ②規範的判断は、価値的述定の所有のための必要(十分)条件である。「約束は守られるべきである」は、前提の良さのための必要条件を与える。§14
  • ③規範的学科は以下の4つの部分から構成される。1)対象領域、2)それら対象が良い/悪いと評価されることによる価値述定のペア、3)価値判断を基礎とする規範的判断のセット、4)単一の「基本的ノルム」。これは与えられた領域の対象が、最高の可能な程度の肯定的価値を述定の特性を所持するさいに要請されるような規範的文である。カントの定言命法のようなもの。§14
  • ④上記のように「規範的学科」を境界づけたうえで、「実践的」規範的学科を定義する。この場合には、基本的ノルムは一般的な実践的目的の実現を要請される。§15
  • ⑤規範的学科は、理論的文と理論的学科とに基礎づけられる。規範的文が与えられたとして・・§16

A) αはβすべきである

B)γは、述定「良い」(これは基本的ノルムによって定義されている)の構成的内容である。

このとき、A)へのアクセス可能性は、非規範的文C)の真なることに依存しているとされる。

C)βであるようなαのみがγに寄与する

従って、

A´)約束(=α)は守られる(=β)べきである

の正当化は、以下の基本的ノルムB´と非規範的文C´)に依存している。

B´)人間のあいだのさらなる信用の存在(=γ)は善である

C´)守られる(=β)約束(=α)は、人間のあいだのさらなる信用(=γ)を存在させる

  • ⑥規範的学科の理論的基礎の「本質的」と「非本質的」:本質的理論的基礎は、それなしでは非本質的理論的基礎は存在しえないようなものであるのにたいして、非本質的基礎は、規範的学科の領域を拡大するか、再区分・評価するだけである。§16

 

 

H3:心理学主義の代表(実践的‐規範的学科としての論理学の本質的基礎は心理学によって供給されるという見解の代表者)は、規範的反心理主義(論理学は規範的なものであり、心理学は記述的で理論的なものであるという見解)に対して自説を擁護することになんの困難ももたない。

 

  • ここでの議論は心理学主義者VS規範的反心理学主義者との対話の形式になっている。規範的反心理学者は、心理学と論理学とはis/ought区分によって分割されると主張する。規範的反心理学者の議論は、心理学主義に対抗するのに十分ではないことがわかる。§17
  • Psy:論理学の理論的基礎は心理学による。なぜなら、規範的論理学は、思考・判断・推論などの心理学的活動についての評価や規定を行うから。
  • ANT:いかに人間が事実として考えるかは因果的自然法則であるが、いかに人間が考えるべきかは論理学法則による§19。心理学が科学として可能なのは、論理規則が妥当なときのみであるから、心理学を基礎とした論理学は循環している§19。
  • Psy:そうすべき思考がなされるのは、事実として思考されたことのなかの特殊ケース。また論理学法則は因果的法則である。
  • 規範的反心理主義も循環している。なぜなら、基本的規範的論理学も純粋論理学を基礎としているのであるが、すべての科学が規範的論理学を基礎にしているとしたら、純粋論理学も規範的論理学を基礎にしているはずである。
  • また、規範的反心理主義にとって心理学は、それ自身の理論の前提ないし公理としての論理の法則であるか、あるいは心理学が対応しなくてはいけない単なる方法の規則としての論理法則であるかのいずれか。前者だと循環しているので、後者のよわい立場しか採れない。
  • 従って、この規範的反心理主義では、反心理主義のためにじゅうぶんではない。

 

 

H4:心理主義は3つの主要な経験主義の帰結をもつ。この3つはすべて反駁可能である。

H4.1:第一帰結:論理学法則が心理学法則に基礎づけられているとしたら、すべての論理学法則は心理学法則がそうであるように曖昧なものになる。反証:すべての論理学法則が曖昧であるわけではない。それゆえ、すべての論理学法則が心理学法則に基礎をもつわけではない。

 

H4.2:第二帰結:論理学法則が心理学法則であるとすると、それらはアプリオリに知られうるのではない。それらは妥当であるというのではなく、多かれ少なかれ確からしいものとされ、経験への指示によってのみ正当化されうる。反証:論理学法則はアプリオリであり、証明によって自明であることによって正当化される。また、確からしいのではなく、妥当である。したがって、論理学法則は心理学法則ではない。

 

  • 1は法則の厳密性について、4.2は法則の正当化の仕方についての相違に焦点をあてている§21。
  • フッサールによれば、自然法則は帰納的な、確からしさをもつ一般化であり、アポステリオリに知られうるものであるが、論理学法則は自明で妥当でありアプリオリに知られる。
  • また、論理学法則は、「正しい」(非合理な心理学的ファクタによる干渉を受けていない)人間思考の記述であるという見解もここで反対される。①この解釈だと論理学法則は因果法則になり、したがって確からしさしか得られない。②正しい/正しくないの境界線が心理学タームによっていかになされるかを示す必要がある。③2つの質的に異なる種類の思考を区別できなくなる。論理学法則のみで説明できる種類の思考と、論理学法則と干渉的非合理ファクタとの相互作用による説明が必要な種類の思考。§22
  • 心理主義者が無視していることとして、心的行為mental actsと論理法則それじたいの区別がある。論理法則が内容を形成している心的行為は、原因と結果をもつが、これらはその行為の内容、つまり論理法則には移行されない。心理主義者は、心的行為の性質がその作用の内容ないし対象に移行されるのだと誤って想定している。§22
  • また、ある実体内部の物理的プロセス・操作について記述した法則は、その特殊な物理的プロセス・操作を記述しているのであり、その実体それじたいの確証を含まない。つまり、計算機は数学的法則を確証するが、この確証は数学的にというよりは物理的になされなくてはいけない。(機能と実現基盤の関係のような話か。)同じように、論理法則は、人間が論理法則を確証するさいの心的プロセスの記述ではない。

 

H4.3:第三帰結:論理学法則が心理学法則であるならば、それらは心理学的実体を指示する。反証:論理学法則は心理学実体を指示しない。それゆえ、論理学法則は心理学法則ではない。

 

  • 論理学を心理学的に解釈するなら、心理学的実体へのコミットメントも含意するはずだが、モダス・ポネンスなどの論理法則はなんの存在論的コミットメントも含まない。自然法則はすべて事実問題の存在論を含意する。(もっとも、より抽象的なメカニズム法則、光学とか天文学など、直接的な存在措定を行わない自然法則の可能性も否定しない。)§23

 

  • 上記3つの反証を、次のヴァージョンの心理主義に当てはめてみる。これによると、我々は自身の個人的な心的経験を反省することによって法則に到達するので、論理学法則は心理学法則である。この反省の結果であるゆえ、法則は直接的で必然的に自明である。
  • ①これは推論からの帰結ではない。論理学法則が反省によって知られるとしても、そこから、これら法則が心理学的であるとか、我々の経験が心理学法則による因果的帰結であるとかいったことが帰結するわけではない。②このヴァージョンに限ったことではないが、心理主義は真理が永続的なものであることを見落としている。真理は永続的であるので、論理学法則はことの事態についてのものではない。⇒これを帰謬法で示す。

*)を論理学法則とする。

*)すべての真理αに対して、その矛盾対当¬αは真理ではない。

A)事態についての法則は、事態の経過、そのようになることについての法則である。

B)(*)は真である。

C)(*)は真理についての法則である。

D)真理についての法則は、事態についての法則である。

以下の2つの帰結が導かれる(パラドクス)

E)真理についての法則は、真理の経過、そのようになることについての法則である。

F)真理についての法則は、真理についての法則の経過、そのようになることについての法則である。§24

 

H5:論理学の心理学的解釈は、これらの原則をゆがめる。

 

  • 心理主義者によるPNC(相矛盾する命題は両者とも真ではありえない)の再定式化批判。
  • スペンサーによるPNC定式化:意識の肯定的様式の現れは、相関的な否定的様式の解明なしには現われえず、否定的様式は相関的な肯定的様式の解明なしには起こりえない。
  • スペンサーの上記見解はトートロジーである。肯定的/否定的様式はすでに矛盾対当の対であるので。しかし、PNCはトートロジーではない。§26

 

H6:すべての経験主義は懐疑主義であり、それゆえ不合理である。

 

  • 極extreme経験主義とヒュームの経験主義が検討される。
  • 極限経験主義によると、論理学的原則の直知が否定される。これは論理原則を正当化できないため相対主義を導く。この立場で、論理原則を正当化しようとすると、循環論証になるか、無限後退になる。また、この立場は論理原則を日常的な習性によって基礎づけるという選択肢もあるようにみえるが、この場合、習性は心理学的に理解されるが、心理学そのものには論理原則を使用するため、やはり循環を招く。
  • ヒューム経験主義によれば、論理学と数学がアプリオリであることは認められるが、事実判断が合理的に正当化されることは否定される。となると、事実判断は心理学的に正当化されるしかないが、するとヒュームの理論じたいも合理的には正当化されえず、ただ心理学的に説明されるだけである。§25-26

 

H7:三段論法の法則は、心理学的解釈を与えられ得ない。

 

  • ①三段論法が思考の心理学的法則であれば、我々は誤謬にコミットできない。だが、明らかに人間は誤謬にコミットすることがある。
  • ②心理学的解釈だと、なぜいくつかの推論が妥当で、いくつかは妥当でないのかを説明できない。Heymansの心理主義解釈(妥当な推論とは、人間が誤謬にコミットしないような「適切な心理学的条件」である)は、トリヴィアルであるか曖昧である。
  • 推論規則の真なる内容は、イデアルな非両立性によって表現されるべきである。たとえば、「すべてのmはxである」と「mであるpはない」という2つの文は、「いくつかのxはpではない」形式の文が真であるのでなければ、真ではない、というような。§31

 

H8:心理主義のすべてのヴァリアントは、相対主義を含意しているか、相対主義である。相対主義とはいわゆる人類学主義である。相対主義は不合理な教義である。

 

 

H8.1:プロタゴラス相対主義は非合理な教義である。

 

  • ①このテーゼ自体の正当性を主張すると自己論駁的になる。
  • ②PNCは真理の意味の一部であり、ひとつの同一の文がある人物にとっては真であり、他の人物にとっては偽であることはこれに反する。
  • ③「真理は相対的である」という判断は単なる相対的真理でしかありえない。
  • これらの議論はしかし、相対主義者を納得させるものではない。プロタゴラス相対主義者は「標準的ディスポジション」を欠いているので、反論にたいするレベルをもっていない。§31

 

H8.2:種相対主義(と人類学主義)は、非合理な教義である。

 

  • 真理が種ごとに異なるという見解にたいして6つの反論がなされる。
  • ①真理が種ごとに異なるならば、ひとつの判断が種ごとに真であったり偽であったりする。だが、これは真理の意味に反する。PNCは真理の意味のひとつである。
  • ②上の反論にたいして、異なる真理概念をもつ種の存在を挙げても相対主義は擁護できない。そのような種は、同一の概念をもっており、したがってPNCと結合した概念をもっているか、あるいは端的に異なる概念をもっており、したがってそれは「真理」とはまったく呼べないような概念をもっているかのいずれかである。
  • ③種相対主義を認めると、真理は時間空間にたいして相対的になるが、真理は永続的なものである。
  • ④存在しない種についての真理の可能性を許容することになる。つまり、ある種S1を構成し、S1にとって、S1が存在しないことが真であるという想定が成立するが、これは不合理。いったいこの判断を誰がしていることになるのか?
  • ⑤S1を構成し、S1にとってS1が存在することが真であるというのが、相対主義の前提であるから、「S1が存在する」という判断は、S1がS1が存在するという信念を生んだということの構成をもっているという理由によってのみ真ということになるが、これは不合理。
  • ⑥種相対主義を認めると、すべての事実的真理のイデアルなシステムの相関としてのこの世界、という世界像は覆される。唯一の世界という世界像は採れないし、もしもすべての種がひとつの世界についての信念をもつことをしなかったなら、世界は存在しないことになる。§36

 

H8.3:心理主義のすべての形式化は、相対主義的である。

 

  • ミル、べイン、ヴント、シグヴァルト、エルトマン、リップスらはすべて種相対主義者とみなされる§38。エルトマンとシグヴァルドについて詳細に検討される。
  • シグヴァルトのテーゼとそれに対しての5つの反論§39;
  • ①どの知的主体もこの判断を思考しなかったとしても、この判断は真でありうるという想定は虚偽である。批判:重力法則は誰にも思考されていなくとも、それが真であることは重力法則の意味の一部である。誰にも把握されていない真理も、純粋イデアの領域に残っている。これはイデアルな可能性の領域。
  • ②私があらゆる状況下で真をみなすことを確信しているときのみ、その判断は客観的に必然的に真である。批判:同一の種の個々人のあいだの事実的判断は、論理学法則のような客観的な必然的真理という理念性に達しない。
  • ③我々が知らない論理学的根拠、というのは、厳しく言うと矛盾した言い方である。批判:発見というタームについての日常的使用による矛盾である。日常的に、我々は公理の発見を、それに従属する数学的定理から発見するので。
  • ④すべての論理的必然性は、その本性がそのように考えるような存在が考えていることを前提している。また肯定的判断と証明による必然的判断とのあいだに本質的差異はない。したがって、意識に生じるすべての肯定はある意味では必然的なものだ。批判:主観的心理学的必然性と、証明による必然性とを混同している。証明的必然性は、我々の論理学的法則の把握における「構成そのもの」である。彼はまた、証明的必然的法則と、その相関物である証明的必然性的意識とを混同している。
  • ⑤ライプニツの「理性の真理と事実の真理」の区別は曖昧である。理性の真理が必然的なのは、その理性の真理が表現されたさいの語彙の理解があるときのみであるから。批判:心理学的必然性と論理学的必然性の混同。理性の真理を信じることの必然性は、理性の真理それじたいの必然性とは異なる。

 

  • エルトマン批判は、彼の「論理的法則は、これまで生きてきた人間種のメンバーにとってのみ必然的であるので、したがって仮説的必然性にすぎない」というテーゼへの批判である。エルトマンは、人間が他の論理学を考ええないのは、逆に種相対主義の証拠であると述べている。もしも人間の論理学が不変で他の代替可能性がなければ、これは絶対的なものとみなしてもよいが、このことは事実問題であるから、オープンな問題である。したがって、客観的真理はなんら確実なものではない。§40
  • フッサールによればエルトマンの議論の前提となるのは以下の2つ。

A)論理学が種に対して相対的であれば、人間は異なる論理学を受け入れることはできない。

B)人間は異なる論理学を受け入れられない。

従って、

C)論理学は人間種に相対的である。

⇒これは、後件肯定の誤謬推論。A)がB)を説明していることを示すべきである。

  • ②A)は端的に偽であるので受容できない。与えられた種のあるメンバーがこの種の構成している部分に属する思考法則を否定する可能性はある。
  • ③もしもエルトマンの言うように、論理学法則が、人間の思考についての自然法則であるのなら、それは経験的法則であり、実在の内容についてのものとなるが(存在論的コミットメントを含意するから)、これは誤り。
  • ④心理学的様相と論理学的様相とを混同している。

A)論理的法則は真ではないということは論理的に可能である

B)人間が論理的法則を否定することは心理学的に可能である

Aは自己論駁的だが、Bは自己論駁的ではない。エルトマンはBの可能性も否定するために、AとBの区別ごと無視している。

  • ⑤もしも論理学法則が実在的で自然的な心理学法則であるのなら、エルトマンに反して、オルタナティブ論理学が想像可能である。我々は常に、経験法則にたいしてはその代替可能性としてのものを想像可能であるのだから。
  • ⑥我々の思考はラジカルに変化するので、現在の論理学法則も妥当ではなくなることがあるとされる。だが、変化可能で例外をもつのは心理学的法則、経験的法則のみであり、論理学的法則は例外なく不変である。また、なぜエルトマンは、民族相対主義でなく種相対主義をとるのか説明しなくてはいけない。
  • ⑦人類学主義は、論理の唯一独自性の証拠が必然的自明であることによって自説を擁護することはできない。もしもここで、必然的自明性についての信念をすてると、それは単に絶対的懐疑主義でしかない。
  • ⑧真理を合意に還元するのは誤りである。真理の構成にあたって、我々は決してどの肯定が真理であるかは知ることができない。また、真理のコンセンサス理論は無限後退を招く。ある判断pが客観的真理なのは、pがすべてのひとにとって妥当であるときであるとされるが、このような普遍的合意のための問いはオーダーが一階上がっている。これを続けていくと無限後退に陥る。

 

H9:心理主義は3つの偏見に基礎をもっている。3つすべてが反証される。

H9.1:第一の偏見:心理学的出来事を規制する指令は、心理学的に基礎づけられていなくてはいけない。反証:この見解は以下の重要な区分を見落としている。A)いかにして知識を獲得するかについての規範をセッティングするために使用されうる法則、B)いかにして知識を獲得するかについての規範である法則。

  

  • A)はモダス・ポネンスのような法則。「pならばpである。⇒qである。したがってq」
  • B)は「pであると判断し、かつpならばqであると判断するものは誰でも、qであると判断しなくてはいけない/すべきである」のような法則。§41
  • どのような個別科学の理論文も、AとBのような法則が使用されるから、規範のセッティングに使用されるすべての理論的文が心理学の一部であるのではない。よって偏見1は反証される。
  • 論理学の本質は知識獲得の規制化であるという心理主義的固執は、Aのようなタイプの論理的法則の働きを見落としている。

 

  • 学科としての論理学と心理学との正しい関係とは、
  • 論理的実践的‐規範的学科の規則の唯一の部分集合が、心理主義的正当化を必要とする。この部分集合は、知識の生産と批判のための方法論的「人類学的」§43指令であるが、明確に人間の心の限界と源泉に基礎づけられている§41。この規則集合は、上のAとBの法則とはまた別のものである。
  • 論理学学科は一般的ノルムを探究するのであり、任意の個別科学の理論文からの規範的文の導出には関心を持たない。この一般性の獲得のために、論理学科は、任意の科学・理論のイデアルな可能性の条件についての理論文(法則)からそのノルムを導出してくる。これは言いかえれば、「純粋論理学」からそのノルムを導出してくることである。§42
  • 科学的探究には2つの観点がある。人間の特定の種の活動の探究と、理論的客観的内容すなわち組織的な相互関係的真理の探究とである。純粋論理学の仕事は、この内容の形式ないし形式的側面の研究である。純粋論理学によって達成されうるイデアルな法則はB法則に再定式化される。しかし、B法則は経験的法則なのではなく、イデアルな法則である。したがって、これは「人類学的」指令からは厳しく区分されなくてはいけない。⇒とすると、先に定式化しておいた規範的反心理主義は改訂される必要が生じる。
  • 以前のVerは自然法則と「標準的法則」(指令)との対立を強調しすぎていたことによって、自然法則とイデアルな法則というより根本的な対立を見落としていた。§43
  • また、以前のVerは心理学において「真」と「偽」の対立の余地はないと主張したが、真理は知識獲得プロセスにおいえ把握されるのであり、このプロセスは心理学によって洞察されるのであるから、先の主張は誤りである。§43
  • さいごに、心理主義は証明において循環すると述べたが、心理学的法則からの論理学的法則の導出には、これらの論理学的法則は前提としては使用されていないのだから、これは循環ではない。先に指摘したような循環は、「反省的循環」(心理学法則からの論理学法則の導出がそれら論理学法則を導出規則として使用している場合)と呼ぶべきものである。心理学法則は反省的循環をおかしているが、純粋論理学はおかしていない。
  • 純粋論理学のうちでは、導出規則として与えられた演繹の前提であるような文は、同一の当該演繹の内部では証明されえない。このような文は公理として措定されるのであり、証明はされない。

 

H9.2:第二の偏見:論理学は、観念・判断・推論・証明にかかわるものであり、これらすべては心理学的現象である。それゆえ、論理学は心理学に基礎をもたなくてはいけない。反証:もしもこれが真であれば、同一の推論によって数学も心理学になってしまう。だが、この見解はすでに反証されている。

 

  • ロッツェ路線の数学は論理学の一部であるというテーゼと、フッサールの数学は心理学の一部ではないというテーゼから、論理学は心理学の一部ではないというテーゼを引き出す。§45
  • 算術について考える。数えること、たすことなどが心的行為だとしても、数の純粋理論は心理学の一部ではない。数学的対象は、ある特定の種類の心的行為のなかに発見されるか「同定される/理念化される」。心理学はこの心的行為を研究し、算術は理念的種としての1,2,3などを研究する。算術の法則は、この真正の「数」のイデアルな本性に基礎をもつ。
  • 上記のラインは論理学にも適用できる。純粋論理学はすなわち、ある特定の心的行為のなかから理念化されたものとしてのクラスを研究する。学科としての論理学と心理学は、これらの心的経験のクラスを研究する。この区別は見落とされてきたが、心的経験の種としての判断と、イデアルな意味と文の統一としての判断とは区別されなくてはいけない。

 

H9.3:第三の偏見:ある判断が真であるとみなされるのは、ある経験がそれを自明とするときである。しかし自明性は心理学的現象である。それゆえ、論理学は、このような感情の生起についての心理学的条件について研究しなくてはいけない。つまり、この感情に先立つか共存する心的出来事の生起についての心理学的法則を発見しなくてはいけない。反証:純粋論理学の文は自明性とその条件については何も述べない。

 

  • 論理学法則と自明性との関係は、イデアルで間接的なものである。だが、学科としての論理学はこの心理学的条件を探究すべき。
  • 純粋論理学が自明性と関連するのは以下の2つの文が同値のときのみ。(むろん、同値ではない)

A)αは真である

B)αであるということが自明であるという誰かの判断は可能である

またBは心理学的文ではない。この可能性は論理的またはイデアルな可能性であるので。「誰か」は心理学的主体ではなく、「すべての可能的知性の集合のなかのなんらかの知性」ということ。§50

  • 「標準的状態下で、判断の真理が明らかであるという感情」という自明性理解はよくない。標準的状態がどんなことなのか明らかでないし、なぜ自明性の感情を信用すべきなのかがまず不明である。
  • 自明性についての理解を改訂する。①自明性は、真理の規準ではなく、真理の経験である。自明性は、経験になんの付加も加えない。②真理はイデアルな性質である。これは人間の自明性主張とは独立の性質である。③誰かがpは自明であると主張し、別の誰かが¬pは自明であると主張したとしても、そのどちらか一方が間違っている。真理は自明性に先立つ性質である。§51

 

H10:論理学や認識論への生物学的正当化は、心理学的正当化よりもよりよいということはない。

 

  • アヴェナリス、マッハ、コルネリウスらの生物学的路線、「思考経済」への反論。
  • 「有機体はその環境の効率性を採用すべく探究する」という基本的前提は健全である。経験の領域における効率性の探究は、科学においても当てはまるところがある。§53思考経済的戦略は、純粋に導出的方法論の役目として使用されるべきである。§54
  • だが、純粋論理学は思考経済によっては正当化されえない。人間にとってのサバイバルとか利便性とかいった価値に言及することによって、論理学法則が正当化されることはない。
  • 生物学的進化論的思潮に訴えることは、すでに論理的理念に訴えていることになるため、このような議論は「不当仮定の虚偽」である。合理性とか統一とかいった理念がすでに思考経済には前提されているから、思考経済によってそれらを説明することはできないのである。§56
  • 59-61ではフッサールが自身の先駆者とみなすものたち(カント、ヘルバルト、ロッツェ、ライプニツ、ランゲ、ボルツァーノ)についての詳述がなされている。

 

 

【純粋論理学のアウトライン】

  • 序説の最後は、「新しい論理学」としての「純粋論理学」の概説にあてられている。純粋論理学は、科学の可能性のイデアルな条件についての学である。

 

  • 科学は、客観的でイデアルな統一体であり、相関関係のシステムである。
  • 相関関係とは、イデアル/リアルなものmatter(事実)の関係であり、真理の関係でもある。
  • ものの事実(matter of facts)は真理と切り離しがたく相関している。すべてのものは、真正の「それじたいの存在being as such」のもとにあり、すべての真理は真正の「それじたいの真理」のもとにある。ものと真理は同一ではない。真理についての真理はものいついての真理ではないからである。§62

 

  • 「抽象的」科学と、「具体的」科学との区別
  • 抽象的科学:法則論的、説明的諸科学。組織的に完全な理論の統一をもつ。これら諸科学の法則は、ひとつの基本的法則のセットから導出可能になっている。
  • 具体的科学:存在論的、記述的科学。上記のような統一性を欠く。この種の科学の真理は「非本質的に」統一されている。それらが同一のもの(地学であれば、地球についてとか)に言及しているとか、基本的ノルムや価値において統一されているとか。§64

 

  • 純粋論理学の基本的問いは、経験の可能性のイデアルな条件の問いである。
  • 純粋論理学は科学の抽象的理論の可能性のイデアルな条件を探究するのだが、これら条件は、「主観的」ないみと「客観的」ないみとがある。§65
  • 主観的ないみでは、純粋論理学は、任意の知性にかんして、それが知識を獲得するさいにみたされなくてはいけない条件について研究する。§65
  • 客観的いみでは、純粋論理学は、理論的知識の可能性のイデアルな条件と同値である。つまり、「理論それじたい」の本質を探究する。§66
  • 純粋論理学の仕事は以下の3つである。

①理論内部の概念の明確化。対象、もの、単一性、多元性といった形式的抽象的概念、結合の要素的形式などを明確化する。§67

②これら概念に基づく法則の探究。これら概念から構成された理論的ユニットの客観的妥当性にかんしての法則。この探究は、推論の理論、多数の理論、数の理論などの探究も生む。§68

③理論形成の可能性を発展させる。このゴールは、理論という形式の種を同定することに等しい。§69

このようなプロジェクトは、数学における純粋多様体の理論における拡張のようなものと類比的である。§70

 

  • 数学と純粋論理学の関係
  • 推論についての科学的取扱いには、数学が最も適切である。哲学はこの仕事には適さない。ただし、数学者は理論本性についての洞察なしではたんなる技術者である。このような究極的洞察に達するのは哲学者である。§71
  • このようにして純粋論理学は、一般的経験科学における可能性のイデアルな条件へと拡張される。この研究は、確率についてのイデアを解明するだろう。§72

 

 

フレーゲフッサール対応表】

 

F1 ―――― H4‐9

F2 ―――― H4.1

F3 ―――― H9.2

F4 ―――― H4.2

F6 ―――― H9.2

F7 ―――― H2、H9.3

F8 ―――― H1、H3、H9.3

F9 ―――― H1、H3、H9.3

F10 ―――― H4、H4.3、H5、H7、H9

F11 ―――― H8

F13 ―――― H6、H9

F15 ―――― H8.3

 

  • F9とH1、H3、3の対応は、論理学法則が第一義的には記述的または一義的指令的であるかいなかにかかわる。フレーゲを規範的反心理主義者として解釈したばあいにはこの対応は見えなくなる。両者とも、論理学を記述的、指令的部分を分割するものとして捉えているが、記述的部分が第一義的であることは認めている。
  • 対応がない部分から、両者の違いがみえてくる。

①用語的差異:フッサールは、論理学・認識論を、心理学的に解釈する立場を「心理主義」とよんで、これを攻撃している。フレーゲは「心理主義的論理学」と「心理主義的論理学者」を攻撃しているのであって、「心理主義」も「心理主義者」も攻撃していない。

②両者とも心理主義を攻撃しているが、決定的議論を与えたと思っているのはフッサールだけである。フレーゲは自身の議論がノックアウト論証になっているとは思っていない。フレーゲは論理的論証は演繹によってのみなされうると確信していたので、相対主義的論理学(別の論理学)を提唱する論者にむけて、論理的論証は与えられないと考えたようである。

フレーゲ心理主義を観念論・独我論に還元したのにたいして、フッサール心理主義をラジカルな経験主義として攻撃した。

・これは現在のフレーゲ解釈においてホットな点である。ダメットは、フレーゲ実在論的傾向からこのようにしたのだと解釈し、Slugaはフレーゲ反自然主義的傾向が現れているとしている。だが、この方向性は用語にまどわされている。

フッサールフレーゲも、心理主義相対主義懐疑主義として読んでいるのである。心理主義は、第一領域と第三領域の否定を導くが、第一領域の否定が経験主義、加えて第三領域も否定すると観念論(独我論)になる。フッサールは、第一領域の否定に焦点をあてて経験主義として心理主義を攻撃したが、フレーゲはもう一歩すすんで心理主義を観念論として読んだ。ともあれ、両者とも、心理主義の帰結が相対主義懐疑論に行きつく点は同意していた。

 

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socializing metaphysicsのch1?が途中までメモしてあった。

Socializing Metaphysics: An Introduction(2006)

F.F.Schmitt

 

パラ(1)

Socialityの形而上学:ここ10年ほどで注目度が拡大

・社会関係、社会的実体、社会性、社会的ノルム、規約、規則、役割…などの本性とは?

・collectivitiesの本性とは?社会集団、アソシエーション、コーポレーション…

・知識の社会関係への依存性、集団的責任、集団の権利…

 

パラ(2)

社会性の形而上学における問いとは、

「いかに個々人が社会的関係や集団性をなすようになるのか?」

⇒keyQ:

社会的関係とは、個々人が関係しているような非社会的関係と性質以上の何らかのものなのだろうか?また、集団性とは、非社会的関係にあるような個々のメンバー以上の何らかのものなのだろうか?

・本書のいくつかの章は、以下の2つの立場のあいだの論争を扱っている。

  • Individualists:

社会的関係・集団性が、個々人の集まりとか非社会的関係の集まり以上のものであることを否定。

  • HolistないしCollectivists:

社会的関係・集団性は、個々人や非社会的関係の集まり以上の何らかのものである。

 

⇔論争の基盤;Wittgenstein、P.Winch(1990)が、以下の想定を疑問視したことにはじまる。

Assumption「我々は個々人としての人間を社会関係から独立に理解することが可能である」

思考する、行為する、言葉を話す、といったことをなすことにおいてすでに、人間は社会関係や集団性と結びついている、と考えると、上の想定は否定される。

・本書のなかの2つの章が、人間の行為や言語行為・思考は社会関係や集団性と独立に理解しうるのか、を考察している。

 

パラ(3)

上の論争は、以下の想定と結びつきがちである。

Assumption「我々が何らかの事柄を社会的であるかそうでないかを分類する仕方は、素朴なものであれ、大体においてうまくいってon trackいる」

・だが、社会構成主義者は、世界のいくつかの側面のうち、ナイーブには非社会的であると思われているもの、人種、ジェンダーなどは、社会的に構成されていると主張する。

→明らかに非社会的であるような世界のいったいどこまで社会性を拡張できるだろうか?

社会構成主義者のこれら現象についての説明は、自然主義的説明と両立するものなのだろうか?

・本書のなかの2つの章が社会構成主義の諸問題を扱っている。

 

パラ(4)

このイントロダクションは、社会性の形而上学にまつわる重要な問題の構造をレヴューすることが目的である。社会的関係および集団性は、個々人とその非社会的関係以上のものを世界に加えているのか否か。まずここから考えていこう。

 

 

ONTOLOGICAL INDIVIDUALISM

パラ(1)スーパーヴィーンによる定義:

以下のような意味で、社会的関係および集団性は、個々人とその非社会的性質によって決定されている、との主張はおおむね問題ないとする。

・社会的関係および集団性は、個々人の非社会的性質にスーパーヴィーンする。

・それはグローバルなスーパーヴィーン関係である。つまり、任意の2つの可能世界において、そこで個々人が同一の非社会的性質(とそれらの諸関係)を持っていた場合、2つの世界においては同一の個々人間の社会的関係と同一の集団性が展開exhibitするだろう。

・ここで、「非社会的性質」と言われているのは、個々人の物理的・生物的性質と、個々人の単称的な非集団的行為や態度のこと以上のものではない。

 

パラ(2)

存在論的個人主義

  • 諸個人と、その非社会的性質、そしてそれらの許容された構成物(admissible composities)のみが存在する。

・Xsの許容された構成物という概念は、ここでは、Xs以上の何らかのものという概念の反対概念である。諸個人の性質の連言、あるいは諸個人の集合ないしメレオロジカルサムが、ここでは許容された構成物として想定されている。

⇒*存在論的個人主義の2つのヴァージョン

  • reductive ontological individualism:

社会的関係ないし集団性(グループのような)は諸個々人と、その非社会的性質、それらの許容された構成物、と同一であるとする立場。

  • eliminative ontological individualism:

何らかの社会的関係ないし集団性が存在することじたいを否定する立場。

 

パラ(3)還元的存在論的個人主義

社会的関係は個々人の非社会的性質の許容された構成物である。

集団性は、個々人とその非社会的性質の許容された構成物である。

・非社会的性質には、伝統的な心理学主義的理論における個々人の動機、欲望、志向性などによって理解される性質が含まれる。

EX.)

・社会的関係のひとつである「友情」は、性質の連言である。ある特定の仕方において行為することと、彼の友人やその他の人物に対してある特定の思考を持っていることの傾向性の存在。

⇒存在論的個人主義によって主張されている同一性は、それ自体では、どのような条件下にあるものがグループであるのかについての説明を提供できていない。

 

パラ(4)集団性について考えてみる

ここで、社会的関係というよりも、集団性について考えてみる必要があるのではなかろうか。その理由としては、

  • すべてでないにしろ、多くの社会的関係は集団性を含んでいる。

・いまAとBが友人であれば、彼らは共同活動をする場合にペアつまり集団性の形式において活動することになる。Aが市長であることは、Aが市長であるような地方自治体が存在するということを含意しており、かつ地方自治体はひとつの集団性である。

・したがって、もしも集団性が個々人のメンバーと、その非社会的性質と、それらの許容された構成物以上の何らかのものであるのなら、社会的関係は非社会的関係と非社会的性質以上の何らかのものでなくてはいけない。

・言い換えると、もしも存在論的個人主義が社会的関係を支持するのであれば、それは集団性を支持することに他ならない。だとすると、社会関係についての存在論的個人主義は、集団性についての存在論的個人主義よりも妥当であるとはとても言えまい。

  • 上と同様の問題が、社会関係と、集団性についての個人主義において生じる。つまり、集団性についての問題は、社会的関係についての問題のあるところ、どこでも生じる。

 

パラ(5)

  • 集団性とは、人種、民族、宗教、階級といったような共通の性質をもつ諸個人のpopulationsではない。

・集団性と、たんなる諸個人の全住民とは、その行為のキャパシティによって区別される。この区別は問題含みである。

・というのも、あるレベルでの人間のふるまいの説明において、行為者性agencyは中心的役割を果たしている。理論的利害関心の多くの一般化は個々人としてのエージェントについて一般化を行う。集団性を扱う場合には、集団性のパラダイムとしての社会集団(social group)について述べた論者に従うことになろう。「社会集団」ということで意味しているのは、協働、連帯といった行為を可能にするような集団性のことである。

 

パラ(6)社会集団にとって存在論的個人主義は妥当だろうか?

・グループの存在論について論じている多くの論者は、グループを、そのメンバーを一緒に結びつけるような統一性をもつものとして考えている。(この想定にはさらなる以下のような想定が働いている。すなわち、この統一性が、グループのメンバーを単一のエンティティ、すなわちひとつのグループに結びつけている。)

⇒存在論的個人主義が直面する最も基本的な問題:

存在論的個人主義は、グループの統一性を把握しうるか否か?

←統一性についての個人主義者による説明は、グループの説明と同一である。つまり、グループはそのメンバーに他ならない。(Baxter2001.2002

→あるグループはひとりのメンバーも持たないかもしれない。ゆえに、個人主義者の説明は、ひとつのアイテム、つまりグループを、いくつかに分割可能な各アイテムと同一視しており整合的ではない。

←グループの各メンバーは、他の各メンバーと同一視される。(ただし、あるアイテムが他の区別される各アイテムと同一となりうるということは、不可識別者同一性原理と衝突する。)

 

パラ(7)グループを複数性を指示するものと解釈する誤り。

・もうひとつの策としては、「グループ」the groupをそのメンバーの複数性を指示するものとして解する道がある。

例)文「ラッセルとホワイトヘッドは『プリンキピア・マテマティカ』を書いた」の「らラッセルとホワイトヘッド」という語は、この語のうちのラッセル部分がラッセルを、ホワイトヘッド部分がホワイトヘッドを指示している、という訳でもないし、ひとつのラッセルとホワイトヘッドというエンティティを指示しているのでもない。「ラッセルとホワイトヘッド」は2人の個人ラッセルとホワイトヘッドを、2人の個人として指示している。つまり、ラッセルとホワイトヘッドを複数性として指示している。/「貿易ユニオン」は、そのメンバーを複数性として指示しており、ひとつのエンティティを指示しているのではない。

→この路線だと、グループをメンバー各個人と同一視するということを回避できる。

 

パラ(8)グループの統一性の問題はどうなる?

・複数性戦略は、グループの統一性について何の説明も与えない。

・また、「the group」の指示(複数性理解での)はグループそれ自体ではありえない。「そのグループ」の私の使用法がメタ言語上で複数性として理解されていたとしても。なぜなら、異なるグループが同一のメンバーを持ちうるので。

例)「図書委員会」と「食物委員会」のメンバーがまったく同一であった場合、複数性指示説によると2つは同一のグループということになってしまう。

・これは、複数性説が、じっさいには「グループ」という語によってグループを指示していないことによる。この欠陥から複数性説を救う策はおそらくないため、この立場は端的に誤りであるように思われる。

 

パラ(9)セットセオリー見解(グループはそのメンバーの集合と同一視される)の問題点

・異なるグループが同一のメンバーをもちうるが、集合はそのメンバーによって個別化されるため、同一のメンバーをもつ集合は同一の集合である。

・グループは活動をするが、集合は抽象的な実体であり因果的に非活性であるゆえ活動しない。

・グループは、そのメンバーの集合とは異なる反事実的存在条件をもつ。個々人の集合は、個人が存在するときのみ存在するが、グループはメンバーが存在しなくても存在する。

・グループはいま現にメンバーであるものとは異なるメンバーをもちうるが、メンバーの集合は集合がいま現にもつメンバーと異なるメンバーはもちえない。

 

パラ(10)メレオロジカル見解(グループはそのメンバーのメレオロジカルサムである)の問題点

*個々人の全員のメレオロジカルサムとは、メンバー全員のすべての部分と、それら部分のすべてのメレオロジカルサムをもつようなひとつのアイテムである。

・異なるグループは同一のメンバーをもちうるが、同一の個々人のメレオロジカルサムは同一である。個人AとBのメレオロジカルサムは、AがCと同一で、BがDと同一であるときには、CとDのメレオロジカルサムと同一である。

・グループはメンバーの総入れ替えが可能であるが、メレオロジカルサムは少なくともいくつかのメンバー部分は持たなくてはいけない。

・グループはグループである必要があるが、メレオロジカルサムはそうである必要がない。もし現実世界においてそのグループのメンバーであるような個々人が存在するとき、これら個々人はグループを形成していなくても、それらのメレオロジカルサムは存在する。

 

パラ(11)メレオロジカルサムの問題点(Ruben1985)

もしAが貿易ユニオンのメンバーであれば、メレオロジカル見解によれば、Aは貿易ユニオンの一部分である。なぜなら貿易ユニオンはそのメンバーのメレオロジカルサムであるので。だが、貿易ユニオンは、その起源からすると、貿易ユニオンコングレスのメンバーである。したがって、メレオロジカル見解によると、貿易ユニオンは、貿易ユニオンコングレスの一部分である、だが、関係の「部分」は推移的である。よって、ここから、以下のことが成り立つ。Aは貿易ユニオンコングレスの部分である。だが、これはおかしい。Aは貿易ユニオンコングレスのメンバーではないからだ。

⇔メレオロジカル見解を採る場合には、したがって、関係の推移性を否定するか、Aが貿易ユニオンコングレスのメンバーであるという反直観的見解を受け入れるかのいずれかを認めなくてはいけない。

 

パラ(12)Structuralist見解(グループは、個々のメンバーが構成している構造のひとつの例証である。)

・たとえば、あるグループは個人が果たす役割についての機能的構造であるとされる。→だが、この立場においてもグループが活動するということを説明できない。(構造に還元する場合には個々人に還元しようとする立場よりも、この問題の処理が難しい)

・構造の例証は、しかし、個々人からの許容される構成物であるといえるだろうか。構造主義は、還元的存在論的個人主義の範疇を超えている立場であるように思える。

・(心の哲学における機能主義は、非物理的還元主義と考えられている。たしかに心の哲学の機能主義は、物理的・神経生理学的に理解されたものに何かを加えたものが心であるとは主張しないが、心がなんらかの物理的性質・物理的アイテムより以上の性質を持っている特殊な構成物であることは主張する。)

 

パラ(13)消去的存在論的個人主義(グループが存在することを否定する)

還元の見込みが薄いことは、存在論的個人主義者をラジカルな方向に走らせる。(心の哲学と同じだ)

・存在するのは、諸個々人と、その非社会的性質と、それらの許容される構成のみ。

・この立場をとると、グループについてのわれわれの因果的語りが文字通り真であるという見解は捨てなくてはいけない。「貿易ユニオンは1900年から1910年に存在した」とかいった文は、真偽値をもちうる因果的主張ではなくなる。

  • 個々人にコミットする以上のなんらかのコミットの対象としてのグループの存在は妥当か?
  • もしも我々が集合性の概念について説明・予測能力を拡張させるのであれば、それらについての語りは文字通り真でなくてはいけないのか?

*筆者(Schmitt)は、消去的存在論的個人主義者である。したがって、本書において、上の2つの問のどちらについても否定的見解を展開するだろう。

 

パラ(14)

*筆者の考えでは、消去的存在論的個人主義は、「グループ」を推定的指示タームとして扱い、このタームが何らかのものを指示しているのに成功しているということを否定する立場である。

・複数性解釈は、「グループ」は推定的指示タームで、かつ、なんらかの単一の実体を指示しているのではないが、個々人の複数性を指示しているがゆえに、指示に成功しているという立場。

*非指示的消去的存在論的個人主義という路線もある。この立場は、「グループ」が推定的指示タームであることも否定する。おそらくこの立場は、グループの性質やそれについての語りは、そのメンバーについてのそれらに分析されるという立場(概念的個人主義)と親和的。非指示的消去主義は、複数性説についてのグループについての語りにかんする問題点には免疫があると思われる。

 

 

Conceptual Individualism

パラ(1)概念的個人主義

*グループについての語りは、個々人や、その非社会的性質、それらからの許容構成についての語りとして分析される。概念的個人主義は、存在論的個人主義のすべてのヴァージョンと整合的である。つまり、概念的個人主義は、存在論的個人主義を含意している。

・グループについての語りが、諸個々人と構成物の語りとして分析されるのであれば、グループは(もしそれが存在するのであれば)諸個々人と構成物である。ただし、逆は成り立たない。存在論的個人主義は、グループについての語りが個々人についての語りではなかったとしても真でありうる。

・概念的個人主義は、「グループ」という語が推定的に指示するか否か、指示が成功しているか否か、単一なものを指示しているのか複数性を指示しているのか、という問いとは独立。これらの問いのどのような答えとも両立する。

 

パラ(2)概念的個人主義は妥当な立場か?共同行為を考える。

Seumas Miller2001:共同行為は、特定の種類の共通の目的(集団的目的)下において、独立のパーソン間の諸行為によって構成される。

「Aの個人的行為xとBの個人的行為yが共同行為を構成するのは以下のときのみである。;xがyに依存しており、yがxに依存している;AとBは各行為の遂行にとっての共通の目的をもつ;この目的は片方の行為なしでもう一方の行為のみでは実現されない。」

・上で述べている依存/独立関係とは、反事実的依存/独立である。Aが行為しなかったら、Bも行為しない。逆もしかり。

・この説明だと、個々人の独立の行為がそれぞれ同じ目的のためのものであれば、xとyは共同行為を構成することになる。AとBはxとyが共同行為を構成していることに意識的でなくてもよい。

 

パラ(3)

・だが、いつ共同行為が開始されるのか?

・何が、行為の結合を構成しているのか。とくに、結合行為のために許容される条件あるいは反事実的存在条件とは何か。

・共同行為は時間を通じて変化しないのか。現実には変化するが、それをいかに説明するか。

・どのような行為者の行為が結合行為に参加しているとされるのか。

 

パラ(4)

結合行為に参加しているのはどの個々人か?

・10人の人間と一緒に歩いているとする。

・我々は、同じ会社の少なくとも10人の人間と、一緒に新鮮な空気を吸うという共通の目的を持っている。散歩の終わりのほうでは、我々は12人になっている。

・想定:我々の散歩の記述は、我々がはじめた散歩が、12人目の人間が加わっても継続するものであることを想定している。この想定が正しいものであれば、散歩のはじめから12人であっても、それは同一の散歩であっただろう。さらに、いかなる12人目の人物も我々の散歩に終わりのほうで加わりうるだろうし、したがって、いかなる12人目の人物もはじめから加わりえただろう。

・だが、共通の目的をもったいかなる参加者も生起しうるという説明によっては、共通の目的をもっていることが、この散歩にとって必然的であるということを明らかにしない。この散歩であることの特徴づけは、共通の目的と同じくらいに重要である。我々は、異なる目的をもちつつ同じ散歩に参加するかもしれない。上の説明ではこのケースを処理できない。

 

 

Conceptual Nonindividualism

パラ(1)概念的非個人主義

*この立場によると、グループや共同行為についての語りは、個人とその構成によっては分析しえない。

 

 

 

 途中。

「集団的信念と受容」をメモしておく。その2

3.

 

  • 集団的信念の変更
  • ギルバートが「集団的信念」と呼ぶものは、じっさいには受容を指しているということを示すには、集団的信念の変更の場面を考えるのがよい。
  • 信念は、典型的には、信念主体の、信じている事柄が真であることへの感覚的傾向性が壊れることによって変化する。たいていの場合、これは彼の信念が偽であることを提示するような証拠の供給によって起こる。
  • だが、複数的主体の場合、当該の見解が偽であることが明らかであっても、それを許容することがありうる。複数的主体の見解を変化させようとする者は、集団がその見解を受容しなくてはいけないという義務を持つことがいかに不適切なのかを示さなくてはいけない。
  • このことは、集団的に受容された見解が偽であることを示すような証拠の挙示も含まれうるが、必要なのはそれだけではない。もっと他の種類の、実践的、倫理的な観点にも配慮した訴え、そして、受容された見解は、その複数的主体がもつ目的や利害関心を救うことがないということを示さなくてはいけない。
  • 複数的主体の見解を変化させようとする個人は、その見解の真偽を超えた考察に訴えることができる。また複数的主体は、真偽を担わないようなファクターについての考察を基盤にして見解を変更することがありうる。(しばしばこれは不合理なふるまいのようにも見える。)これは、見解を変更する複数的主体が真偽を担うようなたぐいの考察とは異なる範囲のものへと開かれていることを示す。

 

EX.)実験室の事例;

  • ある実験チームがもつ彼らの領域が価値ある洞察であるという「集団的信念」は、そのような研究はもはや有効ではないということを示す有意義なソースの挙示によって変更されるかもしれない。

⇒このソースは、この領域の洞察が価値がないということを示すものではない。

⇒つまり、これはこの洞察についての認識的利点を掘り崩すものではなく、この分野においてこの研究を継続することが賢明ではないということを示すものである。だが、実験チームの集団的信念の変更のためには、このようなソースでじゅうぶんであろう。真理についての言及は必要ない。

 

 

  • 認識的正当化についてのSchmmitt1994見解との相違
  • シュミットによると、「チャーターされた」集団(ある特定の共同行為を遂行することへのコミットメントをもつ集団)は、「ある特殊な認識論的正当化の基準、その集団の社会的役割に応じた基準、に従わなくてはいけない」。

⇔本稿の見解は、認識論的正当化には言及しないものである。

  • 複数的主体が受容する見解は、認識論的基準によってではなく、実践的基準によって判断されるのが一般的である。複数的主体は、個人が何を信じるかを決定するときの理由とは異なる理由で見解を受容するのだ。

*ただし、重要な例外があることを次節で論じる。

ある種の集団は、認識論的目的を持っている。とくに、研究者集団、実験チームといった集団である。彼らは、認識論的目的と実践的目的の両方を持っていると考えられる。

 

 

4.

 

  • ギルバート自身、「集団的信念」という概念をScientific changeの説明に使用している(2000)が、本節では「集団的受容」概念が、科学哲学に対して、社会構成主義によって提示された見解を広めるのに必要な概念的リソースを与えることを示そうと思う。『実験室生活』は科学実践についてのわれわれの理解を深化させたが、しかし、彼らの研究は確立されたものとはいえない。

 

  • 『実験室生活』路線
  • 科学者は仮説の受容を決定するさいに認識論的考察のみによって動機付けられるのではない。
  • 科学は、よき理由・証拠のみによって進歩するという合理的科学観への反例。科学者は非認識的考察によって度々動機付けられる。

⇒社会構成主義的科学観:

  • いかにして社会的プロセスとしての交渉が関係者の利害関心や彼らの力関係に影響され、そして科学者がいかに言明を事実へと変化させ、事実を構成しているか。

Goldman1999;LWの見解においては、科学者の信念の決定にさいして自然が役割を果たすことが許されていない。

 

  • 社会的構成から自然を救う
  • まずは、実験室で科学者に影響を与える様々なタイプの考察を区別することから。

LWが対象としていたのは、実験チームの一部分であるので、その点からすると彼らは「複数的主体」といえる。彼らの交渉の目的のひとつは、この複数的主体の見解がいかなるものかを決定することであろう。(⇒「事実のミクロプロセシング」)

EX.

チームの一員であるスミスは別の実験室におけるイギリスの研究者による主張を確証する追加実験をする時間がない。(LW1986;158)ラボメンバーとしての彼は、大きな責任を持っており、ラボが一丸となって目的を達成するためにより労力を注がなくてはいけない。スミスはそのイギリス人の発見に疑いをもっているが、彼の時間をその検証に費やすのは気が進まない。チームの成員として、彼は集合的にある特定の目的と見解とを受容しているのである。そしてこのコミットメントのせいで、彼は個人的心配を抑制している。

 

  • だが、この実験チームは、認識論的目的も持っている。この観点からは、彼らは証拠の考察によっても動機づけられることになる。

EX.

スミスはイギリス人研究者の追試をする時間がないと同僚のウィルソンに不満をもらす。するとウィルソンは、あのイギリス人の実験は、構造同定にかんして時期尚早な主張をしているのではないのかという。(1986;159)

⇒これはその実験の基礎についての疑問であるので、認識論的考察である。スミスは、ウィルソンとの会話がチームの実践的問題ではなくて認識論的問題であると理解して、そのうえでイギリス人研究者によると「豚と羊とのあいだにアミノ酸分析法では導出できない配列の違いがある」というのだが、という懸念をウィルソンに語る。彼らの交渉は、事実の構成を目的とするものではなく、彼らの個人的認識論的懸念がこの集団の行為の方向性を変化させるようなものでありうるかについてのものである。もしもイギリス人の実験帰結が信頼できるものであることを集団が受け入れることを決定したとしても、彼ら個人の懸念は続くだろう。認識論的説明はLWが想定しているよりも取り除きがたいものである。

 

  • 構成主義モデルの問題点
  • 実験室で働く科学者たちが、社会的考察と認識論的考察の両者によって動機づけられている事実を見逃している。
  • 科学者が、個々人としてのエージェントであるとともに、複数的主体の一員でもある事実を見逃している。
  • LWは「無数の異なるタイプの利害関心と先入見が科学者の討論のなかに混在している」と語るが、参与者がすべきことは、どの種の考察がその時顕著であるのかの特定、ひとりの人物の行為の許容範囲の特定、個人として行為するのか複数的主体の一員として行為するのかの特定であろう。

 

  • 科学者や技術者は、競合仮説の認識的利点への考察と、そのチームがコミットしている研究路線への考察という2つのタイプの考察のあいだで行き来し、そしてこの2つのタイプの考察は第二の自然として役割を果たす。片方の目的の実現は他方の実現を犠牲にすることもある。
  • 合理主義者も社会構成主義者も、科学の成功について説明するさいに、片方の考察にしか言及してこなかった。そしてどちらも、複数的主体としてのエージェンシーに注目することはなかった。

 

5.

 

本稿が達成したこと

  • ギルバートによる「集団的信念」を概説した。
  • 「集団的信念」という現象は信念についてのものではなく「受容」についてのものであることを示した。
  • 信念と受容を区別することで、集団がたびたび不合理な見解の変更を行うことが理解できる。複数的主体が見解を変化させるのは、その見解が偽であることが判明したからではなく、むしろ集団の目標の実現に反しているからである。個人が、集団の見解を変化させようともくろむ場合にも、彼は認識的証拠ではなく、実践的妥当性に訴える必要がある。
  • 個人としてのふるまいと、複数的主体の成員としてのふるまいを区別することは、「サイエンス・ウォーズ」において描写されたような交渉場面を合理的に説明することにも役立つ。

 おわり。