S.Brewer, Scientific Expert Testimony and Intellectual Due Process メモ

途中から途中まで。

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(p.112~)

「科学者専門家証言と知的法的手続き」(1998)Yale Law Journal

  • 合衆国における法システムは、陪審員に対して恣意的に専門家証人に従うことを要請する形式になっていることを指摘したが、2006年にいたってもこの問題は解決していない。
  • 本稿の焦点:

⇒専門家証言は何を供給するものなのか?

⇒意思決定者が洗練さを欠くと、専門家証言の役割が不可能になるのはなぜか?

  • 非専門家である法的推論者が、法律を個々の訴訟当事者に適用する過程において、科学専門家に委任する推論プロセスをモデル化する。

 

  • 本稿の3つの結論:

① 競合する科学的専門家について、その選択を認識論的に恣意的に信じるべきであるとする結論を避けるために、ある人物は本稿以下で述べるようなある特殊ないみで科学の方法と認知的目的を理解していなくてはいけない。しかし、非専門家の判断はこの種類の理解をまさに欠いているために、専門家の評判や品行などを頼りにして判断してしまうのである。

② 非専門家の判断が、科学の方法や認知的目的の理解を欠いた、専門家の世評に頼るものであった場合には、競合する科学専門家間の判断は、認識論的に恣意的にならざるを得ない。

③ 非専門家が、科学的専門証言の重要性に訴えてなした判断が、認識論的に恣意的であるのであれば、その判断は法律的観点からみても正当化されたものとはいえない。

 

(p.113~)

1.専門家:その概念と、非専門家にとっての基本的諸問題

A.)知識、保証された信念、認識的コンピテンスの程度

 

Brewer[1998]:

  • 専門家(Expert)を、Epistemic competenceとunderstandingというタームを使用して定義した。
  • 認識的適正:「保証された信念warranted belief」と関連する。認知的目的を目指す推論者は保証された信念を獲得すべきである。ここで、「保証された信念」について、何らかの認識論的立場にとりわけコミットすることはしない。(ただし、筆者は真理中心的な認識論を採ることは、科学的実践も含む多くの認識論的実践においてかなりリスクが高いとみている。)
  • 理解:かなり穏健ないみで使用する。科学者証言の所持を含む認知的能力の本性を説明する助けになるような概念として、「理解」を「広く、説明的で、概要的な、把握をうまく供給するような所有」という概念とする。

 

  • ラウダン「網状モデル」の適用
  • ある特定の、目的・方法・事実的判断をもった営みの合理的指針を説明するモデルとして活用。ラウダンの主眼は、科学的正当化は、各要素が、他の要素をそれぞれ支持し説明するという網状の形態でなされているという点にある。

例)二重盲検法の採用は、心理学実験の真理という認知的目的への信仰から採用され、事実的判断が方法の選択に役立つということを同時に例証している。(つまり、二重盲検法が有効であることは事実的証拠がある。)

  • 目的それじたいも目的の実現についての事実的判断から変更されうる点が秀逸。事実的に到達不可能な目的は設定されないことになるので。
  • 目的・方法・事実的判断とのあいだの各々の「結び目」は互いに正当化と説明のインパクトをもっており、この種の正当化は、科学から知的学科へと拡張可能であるような、認識的正当化における本質的反照性を強調する類のホリズム的正当化であるといえる。

ある学科における認識的適正を所持していることとは、専門家集団の目的・方法・事実的判断の網状構造の把握と操作の能力を所持しているということである。

⇒また、認識的適正は程度をもった概念であり、オールオアナッシングの「スイッチング」ではないことに注意せよ。専門家と非専門家との境界もまた、明確なものではなく、程度をもっている。ある学科の専門家は、別の学科については非専門家である。

 

(p.115~)

B.) 実践的認識的相違と理論的判断

  • 「実践的認識的相違」=「非専門家である実践的推論者(科学的訓練を受けていない陪審員など)と科学的理論的専門家との相違・差異」
  • 「理論的判断」=「ひとが認識論的観点からして信じるべきである事柄についての判断」

 

C.) 非専門家の選定と適正能力についての諸問題

  • Hc:当該法廷で実践的推論の対象となるメインの仮説。たとえば、「ジョーンズは殺人を犯した」という検察(起訴)側の主張とか、「スミスは無罪である」という原告側の主張など。つまりHcは法廷内での「究極的」問題であり、法律と事実とが混合した問題である。
  • Hi:すべてのHiの連言がHcを含意するような個々の仮説。(HcがHiを含意する必要はない。)
  • 証拠命題e(単称でも複合でも可):なんらかのHiのための客観的証拠。証拠命題eが反証されるのではなくその真理が与えられた場合には、Hiはよりよく保証されることになる。あるeは、なんらかのHiについてその客観的証拠を構成するのであれば、そのHiにたいしての合理的妥当物である。(「客観的証拠」=「合理的妥当」)
  • あるeが、なんらかのHi(定義上、その集合がHcを含意する)についての合理的妥当物であるときには、そのeはHcの合理的妥当物である。

 

  • 4つの選定問題(selection problems):

陪審員が、Hcについての暫定的科学的専門家証言を構成しているかいなかを決定しなくてはいけない場合に、非専門家であるところの陪審員が直面する問題は以下の4つに分けられる。

  • 専門家証言をもたらすであろうどのような知的指針が「科学的」であるのかを決定する問題。
  • 実践的推論者が確立するであろう確信の肯定的レベルと認識的評価の基準を満たすようなものとして、彼の科学を使用することができるような「科学者」とは誰であるのかを決定する問題。
  • 事例Hcにとっての合理的妥当物であるような科学としての専門的証言をもたらすであろう知的指針がどれであるのかを決定する問題。
  • 上記の(ⅲ)の遂行についての懐疑を想定したうえで、誰が(ⅱ)を満たすような(ⅲ)のような専門家であるのかを決定する問題。

 

  • Competitionの種類
  • 証拠的命題となるような2人の専門家の証言のあいだに矛盾ないし反対があったとき。
  • 「領域内intra-disciplinary競合」:同一学科領域のなかにいる複数の専門家証言が矛盾する場合。
  • 「異領域extra-disciplinary間競合」:別の学科領域に属する複数の専門家証言が矛盾する場合。
  • 「現実的actual競合」:複数の証言がじっさいに法廷の場で競合する場合。
  • 「暗黙的implied競合」:法定外の場で、あるトピックにかんして専門家のあいだで意見の相違がある場合。これが法廷内に持ち込まれると「現実的競合」になる。
  • 「年代的diachronic競合」:専門家が、ある時点で支持していた見解にたいして、あとでその態度を変化させる場合。

 

 

 

2.知識VS正当化された信念:非専門家は専門家に何を求めるのか?

A.) 法的には何が望まれている?:専門家からの正当化された信念の獲得。

  • 本稿では、陪審員が暫定的妥当性と実質的科学的情報について精査するプロセスの分析のために、「正当化された信念」というタームを使用することにする。

① 科学的専門家承認の証拠が法律的意思決定に与えるプロセスについて親密に批判的に分析するさいに、「正当化された信念」とは、認識的評価にかんして中心的な概念であるので。

② 専門家証言が競合したさいには、「知識」(現金化されたいみではあるが)はあまりにも過度な要求であると思われるので。

③ 認識的正当化と法的正統性が要請する正当化とのあいだには、深い結びつきが存在するので。

 

  • これまでの合衆国の法廷における専門家証言事例では、非専門家が証言を通じて移行するプロセスを欠落させていた。
  • このため、陪審員は、科学的知識についての正当化されていない信念のもとで判断を下さなくてはいけなかった。
  • 法廷で陪審員に求められるものは、「知識」、「科学的知識」ではなくて、「正当化された信念」なのである。
  • 多くの陪審員は、「科学的知識」についてのde dictoな関心をもっているように思えるが、哲学的観点からみると、彼らのde reな関心こそ正当化された信念にとって求められるものである。

(p.119~)

  • Daubertケース

「専門家証言の主眼は「科学的知識」でなくてはいけない。「科学的」という形容詞は、科学の方法と手続きに基づくということを含意している。同様にして、「知識」とは主観的信念とか支持されていない思弁を超えているということを指している。・・・・・むろん、科学的証言の主題が確実に「知られている」ものでなくてはいけないと結論づけるのは不合理ではある。科学においては、確実性は存在しないのであるから。・・・・・しかし、「科学的知識」として資格づけられるためには、その推論や主張は、科学的方法から導出されていなくてはいけない。提示された証言は適切な妥当性によって支持されていなくてはいけない。すなわち、既知のものに基づいた「よき根拠」によって支持されている必要がある。要するに、科学的証言が「科学的知識」に加わるさいに要請されるのは、証拠的信頼性の規準を確立することなのである。」

 

⇒だが、法廷において、本当に、「科学的知識」が関心の的なのだろうか?

  • 少なくとも、現代古典的ないみでの「知識」(真理が必要条件であるような)が求められているのではない。
  • 「知識」が「主観的信念とか根拠なき思弁」を超えるものを指すということは、702規則は、すべての専門家が真理を証言するということを想定していないということだ。そうでなければ、法廷は専門家証言が互いに矛盾することを許容しないだろう。
  • 真理中心的知識ではなくて、702規則は「知識」にもっと拡張的な意味合いを与えている。「既知の事実の本体、ないし、そのような事実から推測されるアイデアの本体、または、よき根拠のもとで真理として受容されたものの本体」、「提示された証言は、適正な妥当性によって支持されている必要がある。すなわち、既知のものに基づいた「よき根拠」によって支持されていなくてはいけない。」
  • また、「確実性」もここでは必要条件から外れている。

法廷で求められている「知識」・「科学的知識」は、「よき理由によって支持された判断」のことである。

 

B.) 正当化された信念の源泉としての証言

  • 非専門家としての実践的法的推論者は、選定問題、競合問題に直面しながらも、科学的命題とその合理的妥当性についての正当化された信念を獲得できるのだろうか?

(本節では、知識と正当化された信念との差異は重要ではないので、ひとくくりにして「KJB」と表記する。)

 

ⅰ.証言

  • 証言の認識論の関心は近年、「証言は、記憶、知覚、推論とはまた別の独立したKJBの源泉となりうるのか、あるいは、証言は他のKJBの源泉に還元可能なのか」という点に向けられている。

 

Hume、On Miracles

⇒証言についての経験主義的還元主義の祖。証言的KJBの総体を経験的確証に依存するものとして扱った。証言を信用するのは、証言と実在とのアプリオリな関係を我あれが知覚するからではなくて、たんにそれらのあいだに関係があるということを我々が習慣として受け入れているからにすぎない。

 

Quine&Ullian、

自然主義的・ホリズム的見解。

「我々自身の経験を超えた何らかの事柄についての報告であるような観察文を聴いたとき、その刺激は我々自身のものではないけれども、我々はその話者がその発話に対して適正な刺激を持っているという証拠を獲得する。原則的に、我々の感覚の拡張としての証言のメカニズムとはこのようなものなのである。これは、観察的摂取のステップアップのための最古にして最大の人間の装置である。望遠鏡、顕微鏡、レーダー、放射線天文学などはみな、同一の目的のための後発の装置である。」

 

  • クワイン=ウリアンは、「話者が真理を語っている」という聞き手の想定の正統性に対して自然主義的に議論している。このとき、聞き手が発話された観察文の真なることを容易にチェックできるか否かは問題にならない。
  • 彼らは、聞き手の「話者が真理を語っている」という想定の正統性も、それを非観察文に拡張するということの正統性も抜きにして、証言はKJBの有意義な源泉にはなりえないと論じている。だが、同時に、聞き手が「証言者が真理を語っている」という推測的確信を持つことは、言語と言語習得についての自然的性質の観点から、正当化されるかもしれないと論じる。

⇒聞き手の「信じやすさcredulity」という自然的傾向性について、自然主義的に擁護しつつ、しかし、「信じやすさ」は合理的に限定されていることではないし、合理的制約であるべきでもないと論じている。

⇒証言から獲得された信念への合理的信頼性は非常に制限されたものになる。

 

 

  • 専門家証言
  • 一般的な証言と、科学的証言との差異は重要である。とくに、ヒュームによれば、証言の束は、彼がかたってきたことを確証しようがしまいが、それとは独立の聞き手の能力に依存するとされる。
  • 端的に、非専門家にとっては、非技術的(観察的)報告のほうが確証が容易であろう。単純な観察的帰結をもたないような複雑な理論的命題とか、その観察じたいに複雑な訓練を要するような観察にかんしては、非専門家は直接的に独立にチェックすることはできない。

 

  • Elizabeth Fricker:グローバル/ローカルな還元主義
  • フリッカーが注目するのは、聞き手が話者の誠実さと能力とを評価することの重要性である。この点は「認識的適正」について考える一助になるだろう。

「証言についてのグローバルな還元主義」:

① すべての証言によるKJBをよりなじみ深く根本的でより問題のない認識的源泉と原則(知覚、記憶、推論など)へと還元することが可能である。

② 認識論者は証言によって獲得されたKJBの認識的正統性の説明のために還元をなさなくてはいけない。

「証言についてのローカルな還元主義」:

① 必ずしもすべてではないがいくつかの証言によるKJBは、よりなじみ深く根本的でより問題のない認識的源泉と原理へと還元可能である。

② 認識論者はすべてではないがいくつかの証言によるKJBをその認識的正統性を示すために還元しなくてはいけない。

 

  • 証言由来のKJBの多くのものは他の源泉へと還元不可能であると通常想定されている。この根拠はCoadyの反還元主義の議論による。

 

  • Coadyによるヒューム論駁:
  • 証言はあまりにも多くあり、個人が観察できる基盤はあまりにも小さいので、証言が信頼可能であるか否かを自分の経験によって調査することは不可能である。
  • さらに、証言的証拠の確証ないし反証をなそうとしても、その行いじたいが多くのほかの証言的情報に依存している。我々が世界を描写するための概念枠や、その対象や制度も証言によって獲得されたものであろう。
  • ただし、フリッカーによると、コーディ流の反還元主義は、グローバルな還元主義とローカルな還元主義とを区別していない点で誤っている。コーディが拒絶しているのは、フリッカーによれば「グローバルな還元主義」だけである。
  • 確かに、我々はその発達期においては、無条件に証言的情報について「端的な信頼」を置かなくてはいけないだろう。たとえば、両親からとか学校において言語を習得するなどといったさいには。
  • しかし、認識的に物心がついた年代になれば、彼らは成熟した認識的アクターとしての義務を持つのであり、証言に対して批判的スタンスをもつようになるだろう。この段階においては、聞き手は証言者の誠実さと適性とに焦点を当てることが合理的に義務づけられる。

証言の聞き手の「推論規則inference rules」:

  • 解釈者が、証言者が発話した命題が証言している事実から、その命題そのものを是認することへと移行することを許容する規則。
  • この推論規則は「主張の発話行為についての分析的真理」であるとされる。

「SがtにおいてPにかんして適正である」=df「tにおいてSがPと信じている→P」であるときには、 {(Sは時点tにおいてPと主張し、かつ、Sは誠実でありtにおいてPにかんして適正である)→P}

 

⇒ここで、「誠実さ」と「適正」とはほぼデフォルトで想定されており、ディヴィトソンの言う「寛容の原則」のように、証言においては話者の適正と誠実さにかんして「寛容原理」を想定することが、自然言語の本性の一部であるとされる。

フリッカーらの議論は、この想定に多くを依存しているわけだが、しかし、この寛容原理は、無限定に想定されるわけではない。

「[解釈作業に従事する]聞き手は、話者がかたることを無批判に信じるのではなく、聞き手の持っている情報に基づいた聞き手自身の信頼のための聞き手自身の経験的根拠を持っている。」

フリッカーは「ローカルな還元主義者」なのである。

成熟した認識的アクターであれば、証言によって獲得された命題を、解釈における批判的吟味を経て、他の種類のKJBへとローカルに還元可能なのである。

 

フリッカー見解の利点

  • 話し手の暗黙の/明示的なコンピテンスの両方に対して聞き手の批判的スタンスを求める点。
  • このことは、専門家の事実的主張への関心を手続き化した証拠と手続きの規則形式において、法の認識論にビルドインされるものであるべき。
  • 以下の直観とも折り合いが良い。

①ひとは、自分の非証拠的経験のみによって、すべての証言を確証することはできない。

②多くの証言により獲得された信念は、他の手段によって確証できないけれども、しかし、それらの多くはKJBを産出しているように思える。

③非批判的信頼が保証なきだまされやすさに落ち込むときには、合理的な信じやすさが限界づけられなくてはいけないように思える。

 

フリッカー見解の欠点

  • 我々が証言から得たKJBであると思っているもののうちのどのくらいのものが、じっさいにKJBであるのかを明らかにしていない。
  • 話してのコンピテンスが相対的にトリヴィアルな伝達のサブクラス(どこに住んでいる、朝なにを食べた、名前はなにかなど)にのみ適用されていが、我々はもっと複雑な内容を証言から獲得したKJBとして持っているという直観をもっている。

フリッカーはむろんこれらの問題に気づいていただろう。だから、

証言的認識論は、

①証拠なしにいったいいつ我々は信じるのか、

②話者の信頼に値する度合についての経験的確証、

の2つの要素に分かれるのだとしている。(これは一種のエクスキューズ)

⇒とはいえ、むろん分けたからといって、何がKJBかが明らかになるわけでもないのだが、これらの規則は、非専門家の推論者による、専門家の推論への傾従に目を向けさせる。

 

 

 

2. Expert Testimony

*一般的な証言から、専門的証言へと議論を絞っていく。

ここでは専門家への認識的傾従についての2つの路線を検討してみよう。

  • Collectivist accounts:Putnam、Hardwigら。「知識の分業」一般のついての見解。
  • “extra-cameral” accounts:Kenny、Coadyら。法廷証言理論に特化した議論。

⇒どちらのタイプも、「非専門家は、専門家からKJBを得ているのだ」という直観は共有している。

 

  • 集合的認識論派(コレクティビスト)の見解
  • いかにして/なぜ、専門家への認識的傾従がKJBを引き出すのかを説明する。
  • 基本的には、「個人主義的」認識論から脱却したKJB理論を目指す立場。

個人主義的認識論:「知識」とは「個人的認識主体の心の性質ないし能力」について、個人的な認識主体の観点からみて、良い、信頼可能、保証されている、真であるか否か、に依存する。

⇔集合主義的認識論モデル:KJBの産出と移送は、たんなる個人的事業ではなくて集合的エンタプライスである。したがって、KJBの複雑さというものは個人主義的認識論によっては説明できない。

 

  • Hardwig見解
  • 科学者によって暫定的に所有されているKJBを説明することは、個人主義的認識論では難しいことは、いまや多くの経験諸科学がコンピュータの使用による計算・分析処理に依存しているが、個別諸科学の専門家である各々の科学者は、コンピュータの仕組み(コンピュータ科学)については知見がないことを考えてみるだけで明らか。

⇒すべての知識の直接的な正当化を各個人がそれぞれすべて持つことはできない。

だからといって、専門家ですらKJBを持っていないという懐疑論に陥ることは不毛。

 

 

  • Putnamの「社会言語仮説」
  • ある社会のなかで、いかにして専門家と非専門家とが、理論的学科(とくに経験諸科学)内の特別な職分にあたる「専門的」タームを使用し続けることができるのか、言いかえると、非専門家は彼ら自身ではそのタームの意味を知る能力を欠いているのに、なぜ専門家と同じ意味を使用できるのか、についての説明。
  • 「言語的労働の分業」:「金」とか「水」といった語を社会の大半の人物が、一般的なボキャブラリとして獲得しているが、一方でその社会のあるサブクラスしか、それら所与のアイテムがその語にあたるかいなかを判断する方法を獲得していないという事実。⇒彼自身が専門家ではなくても、「専門用語」を専門家と同じ意味で使用しているという事実。
  • 「非専門家である彼は話者の特殊サブクラスに依存しうる。一般名の結びつきについて現れる一般的思考、すなわち、共同体のメンバーシップにとっての外延についての必要‐十分条件(何らかのものの外延(規準)を理解する仕方)は、集合的本体としての言語的共同体において現れている。」
  • 「すべての言語的共同体は、この種の言語的分業を体現している。少なくともいくつかの語については、その語に関連する「規準」は、その語を獲得している話者のうちの限られたサブクラスに入る人物しか知らないだろう。その他の話者に使用されることは、妥当なサブセットに入る話者とそうでない話者とのあいだの構造的協働に依存する。」

⇒共同体内のすべての話者が専門知を所持していないとしても、共同体全体は専門知を所持していることが主張できる。

⇒専門家は、共同体内部において、特殊な専門的方法の使用による意味の特定にかんしては、非専門家にたいして認識的権威をもつ。

 

  • Hardwigケース

非専門家 Bは以下の条件のもとで専門家Aから命題pについての知識を獲得しうる。

①Bはpの真理のための証拠を供給することが可能な探究に従事していない。

②Bは①のような探究のためのコンピテンスを持っておらず、この先も持ち得ない。

③Bは、AがBがpについて意見をもつために提案するような理由の良し悪しを評価する能力を持っていない。

④Bはpが意味するものはなにか/pの意義深さ、を理解できない。

⇒ハードウィックによれば、①から④までの条件を満たしていたとしても、Bのpについての信念は合理的に正当化されている、つまりBはpを知っている、とする。

⇒ここで、Bがpを知っていることを認めないのであれば、我々は、文化のなかの大半について非合理的ないし不合理な信念を持っていることになってしまうではないか。

 

  • HardwigのBig Scienceケース

上記のような状況は、いわゆる「巨大科学」的な科学研究においても起こりうる。

  • 各々の研究者は彼らそれぞれの作業に従事しており、それ以外のことについてはその検証を持たないし持ち得ず、他の人々に依存している。だから、個々人は、その研究から産出された知識について、「知らない」と言えるだろうか?
  • もしこのような協働的指針のもとで遂行されている科学研究について、それが知識を産出していることを容認しないことはおかしい。

 

 

  • 集合的認識論派の議論は妥当か?

ハードウィックの議論は、概略以下のようなモダス・トレンスになっている。

①もし正当化された認識的傾従が不可能であるならば、任意の複雑な文化における信念の大部分は不合理ないし非合理なものとなるだろう。

②任意の複雑な文化における大部分の信念は、不合理ないし非合理ではない。

③従って、正当化された認識的傾従は可能である。

 

 

 

Goldberg ”Experts, Semantic and Epistemic”メモ

最後飽きてるようす。

 

***

Goldberg[2009]:

”Experts, Semantic and Epistemic”, Noûs 43.4.pp.581-598. 

  • サリーは科学者ではない。電子とか霧箱とかいったことについて彼女が知っている事柄について、彼女は他人に依存している。彼らは、彼女に、電子はスピンをもっていて云々ということを教える。我々のほとんどは、我々が知っていることについて他人の証言に依存している。このこと自体は珍しくもなんともない。それは証言の認識論者にとっての一大テーマでもあり、彼らはみな証言的知識はある重要ないみで社会的なものなのだと主張している。だが、本稿の目的はそこではない。
  • 本稿の目的は、証言的知識の社会的性質は、認識論のプロパーを拡大するのだということを示すことだ。とくに、我々が世界について知っていることのほとんどが他人のコトバからの知識であるという事実は、言語使用についてのある特定の社会的実践、話者が話者の語の意味の分節化と、概念の適用条件とについてエキスパートに従属するという実践、を合理化するということを示したい。

 

 

2.

  • 本稿の議論は、証言的知識の獲得におけるエキスパートの役割に着目する。議論のために以下の明確化を与えておく。

Hのpという知識が証言的知識であるのは、pの獲得が以下のことを通じてのものであり、かつ、pが知識という身分を得ていることが以下のことに依存しているときである。すなわち、pという証言片についてのHによる把握と受容

 

  • だが、証言者が常にいわゆる「専門家」であるわけではない。昨日ヤンキーズの試合を見に行った友人に試合の結果を教えてもらったとしても、この友人がヤンキーズの専門家であるというわけではない。このばあい、私は友人の証言を信頼可能であり、権限のあるものとみなすが、それはエキスパートの卓越した能力によるものではない。
  • 証言的知識においてエキスパートが役割を果たすと言われるのは、そのトピックについてアットハンドに専門家であるような人物から受容した証言に依存して証言的知識が生じるような場合である。このとき、このエキスパートを「知識領域エキスパート」と呼ぶ。
  • レリバントな知識領域エキスパートとは、①所与の領域においての特殊化された背景的知識を持ち、②当該の知識について、組織化された仕方で容易なアクセスが可能であり、適切な状況下でその知識を使用可能な人物である。

⇒先の野球の事例で、多くの証言の事例においてはエキスパートを含まないと言ったのは、野球の事例の場合のように多くの証言、何らかの特殊化された背景的知識の要請なしに識別できるような報告であるということを述べたにすぎない。

⇔だが、証言におけるエキスパートの役割は、彼らの専門性の内部の問題について証言するということだけではない。潜在的または暗黙的にであれ、エキスパートは、非エキスパートによる日常的な証言事例においても何らかの重要な役割を果たしているのである。そして、この暗黙の役割こそ本稿が明らかにしたいものだ。本稿の主張は以下の2点である。

①我々の仲間への我々の認識的信頼は、証言者本人がエキスパートではないような日常的な証言の事例においてでさえ、我々の共同体におけるエキスパートへの意味論的従属を合理化している。

②ある特定の場合には、意味論的エキスパートはレリバントな知識領域エキスパート以外に存在しない。

  • もし本稿の議論が正しいものであれば、スピーチによる知識の伝達は、心と言語についてのアンチ個人主義を支持する議論の源泉を供給することになるだろう。

 

 

3.

  • 本稿が主張するテーゼ:

我々によるエキスパートへの意味論的従属はそれじたい、あれこれと語る他の話者への我々の認識的信頼によって合理化される。

 

  • このテーゼの背景には以下の2つの基本的なアイデアがある。

①仲間の発言の受容によって知識の実質的‐特殊的部分についての詳細を獲得することができるようになるような実践にエントリーすることに生じるコスト。知識の移送を実際に可能にしている言語的ノルムに対応するコスト面の考慮。

②上記のノルムそれじたいは、レリバントな知識領域エキスパートによって供給される。

⇒上のことが正しければ、

・我々が世界について知っている事柄のために、我々が仲間にたいしてもつ信頼と、我々の語の意味の明確化と概念の適用条件のために、我々が仲間にたいしてもつ信頼とは、同じコインの裏表であるといえる。

 

  • 証言的知識の獲得

証言的知識を獲得するための条件について考えてみる。

  • 証言的知識とは、pということが言われたことへの理解によって獲得され、またその理解によって知識としての地位を得るような種類の知識だ。だから、証言を構成している観察した言語行為の内容を回復する能力/コンピテントが必要だ。観察された証言を信頼可能な仕方で把握しないと、pということについての証言的知識は獲得できない。
  • だが、証言的知識が上記のように聞き手の能力に依存して知識としての地位を獲得するのだとして、なぜその把握が信頼可能でなくてはいけないのか。
  • これは認識論的真理主義にかかわる論点である。意識であるためには、信念は、アクシデンタルではない仕方で、信じられている事柄の真理と関連していなくてはいけない。
  • もしも把握プロセスが観察された証言の内容についての単なるゲスワークによるものだとしたら、その把握によって形成された信念は、仮に信じていることが真であるとしても、知識とはいえない。【それは単に真である信念であって、認識論的に保証されてはいないということだろう。】だから、Sがpという証言的知識を獲得しているのなら、Sはその証言の命題的内容を信頼可能な仕方で回復していなくてはいけない。つまり、Sは当該の証言片について、もしもそれが事実的に内容pを持つのであるときにのみ、内容pを持つものとして把握するのでなくてはいけない。【これは、つまりsensitiveでなくてはいけないということだろう。】

⇒このような考慮は、信頼可能な把握は、証言的知識の獲得のための必要条件であるという主張を支持している。

⇔だが、このような必要条件主張は、証言的知識それじたいの極端に狭い性格付けから帰結しているのではないかと疑うかもしれない。

  • 証言的知識を、示されたまさにその命題について聞き手が知るようになることとして捉えるなら、聞き手が証言的知識を獲得したならば、聞き手はもちろん源泉となる証言の命題的内容を回復していなくてはいけない。【これはほぼトートロジーないし定義によって真というくらいの主張だ】
  • しかし、それは、証言的知識を余りに狭く採っているから言えることなのではないか、と反論者は続けるだろう。たとえば、証言的知識は、示されたまさにその内容を聞き手が知るようになることだという前提を採らないことだってできる。そのときには、以下のようにもいえるはずだ。Sが観察した証言が与えられたとき、その証言がもっているだろうとSによって捉えられた内容が、真でありそうな限りにおいて、この統握は証言的知識の獲得を描いていると言える。このとき、Sに統握された内容が、情報源が示した内容と同一であるか否かは問題ではない。

 

⇔だが、本稿での証言的知識の規定は、決して恣意的なものではない。(論点先取でもない。)その理由を2つ挙げておく。

(1)本稿がしたような規定は、広く受け入れられている。

(2)この規定は、以下のそれぞれ独立に明確な見解の連言として生じている。①証言的知識は、証言的信念を含む。②証言的信念は、証言片の把握と受容と通じて形成された信念である。③証言片の受容は、示された命題の受容を含む。

それに加えて、本稿の規定は以下の2つのアイデアと関連している。

(ⅰ)他人のあれこれ言うことを通じて信念を形成するさいに、聞き手Hは、証言者の(言語的な)物事の表象の仕方によって信念固定をガイドされる。Hが物事についてそのように信じるのは、Hの証言者が物事についてそのように語ったからだ。しかし、この見かけが意味をなすのは、Hがそのように信じている事柄が、証言者がHにそのように語った事柄であるときのみである。

(ⅱ)他人があれこれと語ることを通じて信念を形成するさいに、Hは彼女の情報源が、(信頼可能な仕方で)物事の正しい「財産」を持っているということを信頼する。しかし、Hのこのような信頼は、Hの情報源が第一にその「財産」を得た仕方を、Hが回復/再発見すること、最低限、その証言の真理保存的な内容を再発見すること、を要請する。

⇒だから、本稿での証言的知識の規定と、信頼可能な把握は証言的知識のための必要条件であるという主張とは、よく動機づけられている。

 

  • 信頼可能な把握

信頼可能な把握としてレリバントなものとはどんなものだろうか。

*把握プロセスが信頼可能であるのは、以下の特性と適合するときのみである。:

そのプロセスが、観察された証言片を内容pを持つものとして表象するのは、その証言がじっさいに内容pを持つ時のみである。

 

本稿のなかでは、上記の定式化についての詳細には立ち入らない。だが、この要請は、現実の聞き手にとって規則的に充たされていなくてはいけない。この要請が現実の聞き手によって規則的に充たされていないのであれば、証言的知識はこのように浸透しているはずがない。

  • 証言的知識のスコープにかんする上のような前理論的見解が必ずしも受け入れられているものではないということは、問題である。おかげで、この見解はある種の懐疑論にとってかわられそうになっている。我々の知識の織物において、証言的知識が果たしている広く認識されたより一般的な役割を理解すれば、懐疑論を受け入れることがないことがわかると思うのだが。

 

 

  • さて、信頼可能な把握要件が規則的に充たされているという主張を、ここでは、言語的理解についての以下のようなポピュラーな見解に反対するために使用してみたい。それは、「完全把握の教義」という見解である。

 

585~

CG:言語行為を理解するためには、その言語行為の内容を構成している諸概念のそれぞれを完全に把握comprehensionしなくてはいけない。

 

⇒いかなる概念Cにとっても、Cの適用条件は「必然的に、Cが対象oに適用されるのは、以下のときかつそのときのみ…」という形式の言明によって与えられる。

  • 主体Sが時点tにおいてCを完全に把握しているのは、Sが反省的方法のみによって、この言明形式についての何らかの正しくかつ情報的完成を理解している場合である。
  • このテーゼへの反例はタイラー・バージのものが有名であるが、バージの反例は態度帰属の意味論についてのものだった。
  • 本稿では以下で、CGの反例として、証言的交換の本性のパターンにングを考察することを行う。
  • CGは、以下の議論で示されるように、信頼可能な把握条件が規則的に充たされているという見解と両立不可能である。もしそうであれば、背理法によってCGと前提することが誤りである。

 

*議論のアウトラインを先に示しておく。

前提1.CGテーゼは真である。

前提2.我々は公共的言語を話している。

前提3.少なくとも、我々の公共的言語が割りつけている辞書法における概念については、CGのいみでの完全な把握は、ありふれた現象ではない。

⇒前提1~3から、我々が信頼可能な把握条件を充たしているということは、ありふれた現象ではなく、我々が証言的知識を獲得するものとしてカウントしていることは、ありふれた現象ではない。

⇔しかし、だとすると、我々の証言的知識の広がりにかんしての前理論的見解を掘り崩す懐疑論的結論が帰結する。懐疑論的結論を避けるためには、前提1~3のうちのどれかを拒絶するしかない。前提1を拒絶すべきである。

 

*前提のそれぞれについて詳述するまえに「公共的言語」について明確化しておく。

  • 言語Lについて、Lは、特定の辞書における諸要素(Lにおけるボキャブラリー)のそれぞれへと意味を割りつけるものとしよう。
  • Lが各表現へと割りつける「意味」は、使用の機会における表現の意味値とは同一ではないかもしれない。我々は、辞書から離れた表現や、意味論的に文脈感知的な表現を使用することを許容されているから。だが、議論のために、この点は捨象し、表現の意味はその意味論的値をもつと仮定する。
  • さらに、当該関心の的である表現にとって、ある表現eの意味は、Lがeに割りつける(諸)概念であると仮定する。
  • Lは公共的言語であるのは、その発話が正しく「言語Lの」発話とみなされるような話者の共同体が存在するときである。

 

  • 前提2.の擁護

⇒Lewis1981の指摘通りに、話者がなんらかの共通言語「の」発話を産出していることのための条件の決定は難しい問題だ。しかし、本稿では、前提2.の擁護に関しては以下のようなシンプルな形をとる。

「もしも人びとが公共言語を話していないのなら、把握プロセスは広範囲にわたる問題を含んでしまうようにみえる。信頼可能な把握条件が規則的に充たされていることがありえないことになってしまう。」

⇒この見解の擁護は、Goldberg2002,2007で行ったので、ここでは簡単に済ませる。

 

標準的ケースでは、把握は同音把握としてなされる。

  • 聞き手Hが話者Sが語ったとみなす事柄を発音するとき、HはSが使用したとHがみなしているのとまさに同じ形式の語を再使用する。
  • いま、HとSが共通の公共言語を話しているか否かにかかわらず、Hの意味論のレリバントな一部とSの方言が同一である(つまり、同一の概念を同一の形式の語に割りつけている)ときのみ、Hの同音把握はSの言語行為を把握するための信頼可能な方法であるといえる。
  • Hの同一形式語の再使用が、HのSの言明の把握が、事実的にSの言明の内容を正しく提示しているとことを保証しているのは、上記のような事例においてのみである。
  • ここでの問題は一般的なものだ。話者のレリバントな部分にとっての意味論と、聞き手の当該の方言という2つの異なる次元が、聞き手がこの同音把握の方法において信頼可能な把握が可能であるようないかなる話者によってのいかなる発話についても、同一でなくてはいけない。
  • このことは、結局、標準的な種類の把握プロセスが信頼可能なものであるのは、所与の言語共同体におけるすべての話者の意味論が同一である(同一の概念に同一形式語を割りつけている)ときのみであることを示しているように思える。
  • そのようなオーバーラップがあれば、言語共同体のメンバーを共通言語を話しているものとしてみなすのに十分であるように思える。
  • 共通言語の仮定が、それ以上に、なさなくてはいけないことは、言語共同体のすべてのメンバーの方言の意味論のあいだに多かれ少なかれ統一的な一致があるというこの状態が、はじめにいかにして達成されたかを説明することだけだろう。
  • 聞き手の同音把握への信頼が不在でも、信頼可能な把握が達成されることを示された場合には、公共言語の必要性は雲散霧消してしまう。デヴィトソンの根元的翻訳に訴えて、このプロジェクトに挑む論者もいる。
  • 根元的翻訳者は、他人が翻訳者である彼自身と同じ言語を話しているように思えるときでさえ、他人の表現にかんして事前に何も仮定しない。だが、デヴィトソン自身は、把握の通常ケースは、このような根元的翻訳のような種類の解釈を含まないと考えているようでもある。Davidson1999参照。
  • もしも個人が彼の属する共同体において話者によって表現された知識を獲得することに開かれているのであれば、単独の個人によって解決されなくてはいけないコーディネーション問題は、どの個々人にとっても解決するには大きすぎる問題であろう。聞き手は、彼の共同体において、話者が存在するだけの数の異なる方言を跡付けなくてはいけなくなるし、あるひとりの話者の方言の変化もフォローしなくてはいけなくなる。これでは、通常文脈での知識伝達における個人の言語の把握など困難すぎる問題となってしまう。根元的翻訳は、通常の日常的ケースのためのよいモデルではないのだ。

⇒公共言語の措定のみで、通常の把握プロセスの信頼性を正当化できるように思える。従って、前提2.は安全だろう。

 

  • 前提3.の擁護

*前提2.が安全であれば、前提3.(完全把握の希少性)の擁護は容易である。

  • 前提3.が問題であるのは、以下の理論によるバックドロップをくらうときだけだろう。話者の概念は、話者自身の信念と、語に対応した話者による推論的実践に応じて個人化されているという理論である。
  • だが、もしも話者の概念が公共的言語の概念であるのなら、前提3.の主張はまったく明らかである。なぜなら、各話者は、彼のレパートリーにおける公共的言語概念の多くについて、彼自身で自由にそれら概念を明確することはできないのだし、彼自身で自由に概念の適用条件を定式化することもできない。そして、多くの場合、そのような明確化を提示されたときにも、彼はそれを意識的に理解しているわけではない。
  • 確かに、いかなる話者も、「トリビアルな」明示化を提起し受容することができるだろう。たとえば、以下のように。

(T1)概念DOGはすべての犬に、そして犬にのみ適用される

(T2)「xは犬である」という述語は、すべての犬に、そして犬にのみ適用される

だが、これらは概念の明確化ではないし、概念・述語の適用条件を明示化したものとはいえない。その適用条件が問題となっているその述語が、再使用されているだけである。

  • これを理解したなら、公共的言語概念については、主体は、大抵の場合において、概念の明示化や概念の適用条件を産出ないし理解するポジションにはいないことがわかる。

⇒だから、完全把握はレアなのである。【自身の反省によってのみ、言語行為を構成する諸概念の意味を完全に把握する(その概念の適用条件を自身の反省によってのみ明確に定式化しつくす)ことは滅多にできない、ということ。】

 

  • 前提1.を反駁する。
  • 前提1.は、完全把握そのものの教義である。1.2.3.の連言はありそうもない帰結を含意し、2.と3.はそれぞれ独立にそのもっともらしさが確保されているのだとしたら、拒絶すべきは1.であろう。
  • しかし、完全把握テーゼが偽であるとしたら、そもそも把握とは何から成るものなのか、あるいは、把握とはいかなる事態として規定されるのか。この問題への回答の仕方を誤ると、トラブルを避けるためにテーゼ1.を受け入れることに逆戻りしてしまう。
  • 本稿の立場では、ひとは、ある言明についてその内容を構成する諸概念の完全把握を所持しなくとも、その言明を信頼可能に把握しうると主張する。信頼可能な把握とは、観察されたスピーチを、事実的にそれが所持している内容を持つ者として信頼可能に表象する問題にすぎない。
  • レリバントな諸概念を所持している限り、ひとは完全把握をしようがしまいが、ある観察された発話の内容を、まさにそれらの諸概念を配置転換redeployingすることによって表象することができる。

⇒ここで、我々はアンチ個人主義に接近している。この点の詳細は次節以下で述べるが、我々がいかにしてアンチ個人主義へとたどり着くのかをここで簡単に示しておく。

まず、証言的知識は人口に膾炙した現象である。そして、証言的知識の獲得は、源泉となる証言の信頼可能な把握を要請する。ここで、公共的言語の諸概念の完全把握は滅多にない現象である。ここから、証言的知識の獲得は、完全把握を要請しない、かつしえない。

*だから、完全把握の否定は、本稿の前提ではなくて、その結論である。

 

 

4.

  • ここまでの議論が、証言的知識の浸透は完全把握を要請しない種類の理解に依存しているということを示すことに成功しているとしよう。だとしても、レリバントな種類の理解は、それを通じて、聞き手が観察した言語行為に規定的な命題的内容を帰属させるようなものでなくてはいけない。さもなければ、聞き手が、彼らが観察した証言に表現されたその知識片を一体どのようにして獲得したのかがまったくわからなくなってしまう。
  • 従って、以下のことが明らかにされなくてはいけない。聞き手の理解は、いかにして、話者の証言に表現された知識片の獲得を引き受けるために十分なほどの特異性を持ちうるのか。そして、そのさい、いかにして、当該内容のなかの諸概念の完全把握なしに聞き手の理解が可能であるのか。本稿の見解では、不完全把握のばあい、聞き手による証言構成的言語行為の内容把握の決定性は、聞き手のレリバントなエキスパートへの意味論的従属に基礎づけられている、というものだ。

 

  • 不完全把握
  • 一体、何によって、聞き手は、示された命題的内容を把握したと見なされる(信じるようになると見なされる)ようになるのか。ここで、当該内容を組成する公共言語の諸概念の聞き手による不完全把握を想定すると、聞き手の把握の内容については、多くの仮説を立てることが可能になる。
  • たとえば、膝の関節炎が痛いとSがHに言ったとする。だが、Hは「関節炎」という概念またはその派生語を完全把握していないとする。Hの把握が同音把握であるとき、HはSに言われたことを何とみなすだろうか。
  • 第一の仮説:HはSが膝の関節炎が痛いと主張していると思う。(「膝の関節炎が痛い」は、HがSが主張したとみなした内容である。)
  • 仮説2:Hの理解が同音把握的であったとしても、Hは関節炎と同一の形式をした語を特異に理解しているかもしれない。そして、HはSは膝の間節炎Thartritic(バージが関節炎論文で使用した間接とじん帯の病気を指す概念)が痛いと言っているのだと思う。
  • 仮説3:Hはメタ言語的に理解しているかもしれない。HはSがこの辺りでは「膝の関節炎」として知られている部位が痛いと主張しているのだと思う。
  • むろん、他にもいくらでも解釈は可能だ。
  • ここで重要なのは、Sが使用した語のHによる再利用――それはHによるSの証言の(同音的)理解を公表する試みであるのだが――は、HがSをいかに理解するかを正しく示した仮説がどれなのかを決定しはしないということである。
  • おそらくいくつかの仮説は、Hの他の言語的ふるまいと整合しないということで切り捨てることができる。だが、この手段で精査できないようなケースはいかようにでも想定可能である。様々な競合仮説が、Hの把握状況として帰属されうるということがありうる。
  • だが、Hは、Sが伝達しようとした知識を獲得するのだという場合には、我々はこれらの諸仮説からひとつ(典型的には、標準的な仮説)を、HがSのスピーチを理解する仕方を正しく捉えたものとして識別する方法を持っていなくてはいけないだろう。

*本稿の見解では、ここで求められている決定性は、Hの「関節炎」についての意味論的従属によって与えられるというものだ。つまり、HがSは膝の関節炎が痛いと言っていると思うということは、HのH自身の言語的共同体への従属によっているのである。

 

  • 意味論的従属による把握の決定

HによるSの証言の同音的把握は、それじたいでは、Hが到達した把握の内容を固定しない。だが、Hの同音的把握は、Hの(おそらく無意識的な)Sを「同一の言語を語っている」ものとみなす意図と合わさることで、内容を固定する。

  • 意味論的従属の必要性は、聞き手が、彼女自身が使用している公共的言語の適用条件をなしうる限りくまなく分節化することは不可能であることを理解しており、かつ、それにも関らず、それらの語(彼女自身も他人も口に出す語)が適用を規定されているということを理解しているときに、生じてくる。
  • それらの語が公共言語の語彙であったとしたら、その規定された適用は、公共言語の基準によって与えられている。これら基準は世界の対象や性質への語の適用条件を分節化しているものなので、その基準じたいは当該の対象や性質それじたいの本性についてのエキスパート、すなわちレリバントな知識ドメインエキスパート、によって分節化されている。(*但し、固有名についてはこの限りではない。)
  • だから、エキスパートへの従属は、少なくとも聞き手自身の不完全把握の事例では、それらの語の把握にかんしての決定性を中心的に形成しているといえる。

 

  • だが、意味論的従属は、概念の不完全把握の決定のための十分条件ではない。
  • 例えば「コップ」を数字の6だと思っていて、概念「コップ」のそのような特異な帰属についての非標準的理論すら持っていないような意味論的に異なる主体は、「コップ」という概念を持っているとはみなせないだろう。コンピテンスについてなんらかの最低限の規定が必要だ。
  • また、じつのところ、意味論的従属が把握の決定にとっての必要条件であるのかでさえ議論の余地がある。もしかしたら、完全把握の事例というものが存在するかもしれない。
  • だが、証言的知識の獲得によって必要とされる把握の決定を確保するのは、ミニマルなコンピテントを持つ話者による意味論的従属である、というのが本稿の要点である。

 

  • 意味論的従属は唯一のみちか。

不完全把握も含むような証言的知識の獲得にとって必要とされる種類の把握の決定を説明するためのものとして、意味論的従属は唯一のものであるのだろうか。そのことを示すためのノックダウン論証を与えることはできないが、以下のように考えてみよう。

  • 話者は、様々な表現への各自の理解が大きく異なっていてさえ、他人にある特定の知識片を伝達することができる。(この点はパテントとする。もしそうでなかったら、証言は知識の源泉としてこれほど浸透していないだろう。)
  • 把握は、労力の少ない仕方でルーチン的に処理される。話者と聞き手が互いのスピーチについて何も知らず、彼らの簡便な会話交換において表明されるものへの解釈の傾向性についても何も知らない条件下でさえ、このことは真理であろう。
  • 聞き手と話者との背景的信念とか分節化の能力の多様性の程度を考えると(多様性は、知識片の成功的伝達と両立可能な程度のものである)、把握が一般的に信頼可能なものであることを示すことが難題となる。この難題は、聞き手は標準的に意味論的従属下にあるという想定をすれば解決する。だが、もしも意味論的従属の想定を拒否すれば、難題のまま残る。

⇒では、示された内容に含まれる諸概念について不完全に把握しており、かつ意味論的従属下にはない聞き手については、何が言えるだろうか。このような聞き手は、示された内容に対しての把握が可能であるという最低限の概念コンピテンスを持つものとみなされるだろうか。そして、証言的知識を獲得しうるだろうか。

  • ある概念について不完全把握しており、かつ意味論的従属下にもいない聞き手は、当該疑念にかんして最低限のコンピテントがあるとは言い難い。そのような主体は、ただしく同一の外延をもつメタ言語的概念に従っているのだろう。概念電子に従うのではなく、概念この辺りの人びとによって「電子」によって意味されているものに従っているのだ。
  • 伝達の目的のいくつかにとっては、外延を同じくするメタ言語的概念を含む把握でも間に合うこともあるかもしれないが、「電子」それじたいにかんしての最低限のコンピテントを彼女に認めることは難しい。
  • 彼女が従っているだろう多くの多様な概念のなかからピックアップしたあるひとつの概念について、彼女が従っている概念であるとして基礎づけることは難しい。だが、もしも彼女が意味論的従属下にあるなら、そのような基盤を探すことができるかもしれない。彼女は、彼女の仲間が従っている概念を使用しているのである。
  • もし仮に、意味論的従属が失われて、公共的言語のなかのある語についての完全把握も所有できないのだとしたら、その主体はその概念について、他人とは異なって彼女にとってはこのようであるものとしての帰属の根拠を我々に与えることもできないように思える。
  • 従って、不完全把握も含んで、把握の決定は、少なくともある程度の意味論的従属を要請するのだといえる。

 

  • 他人の文言に従属すること
  • 同じ事柄について角度を変えてみてみよう。他人がいかにして言語的にものごとを表象するのかを受容することによって知識を獲得しようとするものは誰でも、彼女の情報源がいかにして物事を表象するのかを捕獲しなくてはいけない。そのような作業は、すでに、聞き手の従属的な意図を指し示している。つまり、聞き手は、話者が使用したように(少なくとも聞き手がその同音語を把握したように)聞き手自身の語を使用する傾向にある。これは、ミニマルな意味論的従属の一種である。聞き手は、聞き手の情報源に意味論的に従属している。
  • ここまで述べてきた意味論的従属は、このミニマルな種類の意味論的従属を一般化したものである。つまり、聞き手がある特定の、彼女がいままさに観察しているスピーチをしている話者に対して従属するのではなく、当該概念の分節化について最良のポジションにある人びとに対して従属するということである。
  • 一般化への手順は、聞き手による話者のパースペクティヴの理解に沿って進む。聞き手は、話者のスピーチの傾向性について何も知らないかもしれないし、話者も聞き手の解釈の傾向性について何も知らないかもしれない。話者と聞き手は、各自で、両者に、そして、彼らが共有する言語共同体の成員の誰にとっても、共通する一連の基準に信頼を置く必要がある。
  • お互いに、互いのスピーチと解釈の傾向性を知らない場合には、このようにしてのみ、この共同体内の任意の2人が、スピーチを介して知識を共有することができる。
  • 話者と聞き手とが、互いに先行知識を持たない状況下において、スピーチを通じた知識の共有を目指すいかなる共同体も、意味論的従属を自然な一部として含むだろう。意味論的従属の傾向を持たない話者は、この仕方での知識獲得に参与することができない。
  • ある言語共同体の任意の成員は、スピーチを通じた知識の交換の実践の参与に務めることを前提としており、だから、レリバントなエキスパートに意味論的に従属することも前提としているといえるかもしれない。(むろん、この前提は反駁可能である。だが、ポジティヴな前提である。)

 

  • 従属のずれと意味のずれ
  • 意味論的従属は、一般的なものであるから、聞き手は典型的には特定の個人をエキスパートとみなして従属するのではなくて、聞き手が出会う人物は誰でもレリバントなエキスパートとみなして従属するのである。つまり、従属先の個人がエキスパートとして識別されるということではない。
  • だが、従属が、エキスパートと見なされる特定の個人に対するものであるケースも存在する。エキスパートたちがあるキータームの適切な分節化について一致していないときに、異なる聞き手は異なるエキスパートに従属するという可能性がある。このとき、聞き手たちは、異なった仕方で、この語について把握していることになるのだろうか。そうではない。
  • 我々はまず、多様な従属的傾向性を区別することができる。聞き手は、ある特定の個人へと従属するかもしれないが、ある特定の状況下ではその一階の傾向性を放棄するというような高次の傾向性も持つかもしれない。
  • 聞き手がその語をいかに把握するかを決定するような支配的傾向性(これを根本的fundamental従属傾向と呼ぼう)は、聞き手の様々な反事実的シナリオへの反応をガイドするような傾向性である。
  • 異なるエキスパートに従属している聞き手が語を異なった仕方で把握しているという結論に抵抗する別の議論として、エキスパートの分節化それ自体が、パラダイム的適用と受容された分節化とのあいだの反省的均衡を含むプロセスの一部であると理解することもできる。
  • 概念の個別化のプロセスは、既存の理論とパラダイム的な適用とのあいだの最大限の整合を目指す反省的均衡のプロセスである。その過程でひとつの概念にまとまらなければ、その場合には決定的な概念がないということになる。(その場合には、異なるエキスパートに従属する聞き手たちは、異なる仕方でその語を把握していることになる。)おそらく、前もって、このような記述が適切であると語ることはできないだろう。
  • だが、エキスパートの分節化の不一致の存在という事実は、つねに、聞き手の当該語への把握の不一致のサインであるとは限らないという点が重要である。

 

  • アンチ個人主義
  • 回り道をしてきたが、やっとここでアンチ個人主義のテーゼに辿りついた。それは標準的には以下のように形式化されている。ある主体の命題的な態度のいくつかは、その主体の社会的ないし物理的環境の性質についての彼らの個別化に依存している。
  • ここまでの議論は、このテーゼを証言的知識の移送の条件から支持しようとしたものだ。
  • 証言的知識の獲得のために、聞き手は情報源となる言語行為を信頼可能な形で把握しなくてはいけない。
  • このとき、聞き手は示された内容を構成している諸概念について不完全にしか把握しないので、彼女の把握が信頼可能であるのは、彼女が意味論的従属下にあるときのみである。従って、究極的には、そのような従属が彼女の把握の状態における概念の個別化として成功しているのは、エキスパートの分節化とパラダイム的適用の最大限の整合を目指す反省的均衡のプロセスの一部としてのみである。
  • このような場合、聞き手が話者が示したものとみなすその内容の個別化(それは、聞き手が証言の受容に基づいて形成した信念の内容と同一である)は、彼女の社会的かつ物理的環境に依存している。
  • 但し、概念の個別化が聞き手の社会的環境に依存しているのは、彼女がエキスパートに従属している限りにおいてである。2人の聞き手が組成的には瓜二つであっても、異なる分節化を持つエキスパートにそれぞれ従属しているために、その把握内容について異なっており、従って証言ベースの信念の内容も異なっているということもありうる。
  • また、概念の個別化が聞き手の物理的環境に依存しているのも、彼女がエキスパートに従属している限りにおいてである。概念の個別化は、エキスパートの分節化とその語のパラダイム的適用との最大限の反省的均衡のプロセスの結果である。組成的に瓜二つの2人の聞き手が、把握内容において異なっており、従って証言ベースに形成される信念内容においても異なっているのは、その語がパラダイム的に適用される対象や性質が、2つの場合で異なるときに、その異なり方が、エキスパート自身の注意も超えたような仕方で異なっている事実によってである。

 

⇒以上から、パトナムによる「言語的分業」は、それじたい「認識的分業」の本質的要素であると結論できる。このような分業形態は、標準的な証言事例における認識的権威の形態としても浸透しているのだ。

  • 我々は、我々が世界について知っている事柄のために他人を信頼する必要がある。
  • だが、もしも我々が、我々に使用可能な知識の潜在的源泉からこのような仕方で知識を獲得できるのだとしたら、言語によって移送される内容を回復するための信頼可能な方法が必要である。
  • 伝達される内容を構成している諸概念の適用条件について我々がみな同等の知識を持っているわけではないので、我々は自身の言語共同体の内部で他人に信頼を置く必要がある。
  • このようにしてのみ、我々のレリバントなエキスパートへの意味論的従属として、信頼性は表明される。
  • こうして、我々の他人への認識的信頼は、他人への意味論的信頼を必要とするということになる。また、我々の認識駅信頼は、知識を「安上がりに」沢山か黒くすることの可能性であることを思えば、我々の認識的信頼は、そのような「安上がりな知識」の獲得が依存しているようなある種の意味論的従属を合理化するといえる。

 

 

5.

 本稿の中心的目的は、世界について我々が知っている事柄のための我々の他人への認識的信頼/依存が、パトナムやバージが指摘した意味論的依存とつながっていることを示すことにあった。この結合を示す私の試みが大胆なものであるのなら、その大胆さは、私がある認識的前提――証言的知識に浸透していて、しかし、完全把握の教義を主張するような意味論的テーゼに反対する前提、を使用した点にある。【つまり、この前提を使用することにかんしての正当化はこの論文中ではなされていない。】だが、この戦略は、より一般的な点を指摘するためのものだった。それはすなわち、この種の認識的考慮は、我々の語の意味と、我々の思考内容についてのアンチ個人主義を支持するために使用されたのだ。

 アンチ個人主義のためのこのような議論じたいがまた大胆なものであろう。標準的には、アンチ個人主義的見解は、心の哲学言語哲学において、発話の意味とか態度報告の意味にかんして、非標準的な理論化が可能であることとか知覚的表象化の客観性などによって支持されてきた。本稿は、アンチ個人主義は、知識伝達の条件に訴えて支持しうるものであることを示した。つまり、意味論的言語的分業の適切な説明(それは聞き手による情報源の言語行為の把握を説明する)が、聞き手が伝達された知識の断片を獲得するという非常にありふれた状況についての平凡な事実と合わさることによって、言語的意味、言語行為の内容、命題的態度についてのアンチ個人主義が帰結してしまうのだ。さらに、本稿での議論は、アンチ個人主義の態度にとってコアとなるものと見なされてきた現象、とくに不完全把握と意味論的依存、は、それじたい知識伝達の条件として、とくに我々の言語共同体の他の成員への認識的依存として、跡付けられることを明らかにしたといえる。

 上記の議論は、しかし、認識論的なものなのだろうかと疑問かもしれない。結局、この議論は把握についてのものであり、把握とは認識論的というよりは意味論的なものだ。しかし、このような反応は、私が本稿でなした議論のポイントを見失っている。把握という概念それじたい、少なくとも本稿での議論においては、徹頭徹尾認識論的なものなのである。いま言われている把握とは、認識論的に信頼可能な把握のことである。証言の把握は、示されている事実への結合について聞き手の知識による裏書きを前提しないで、信頼可能なものでなくてはいけない。あるいは、聞き手が規則的にそのような把握を割りつけるというテーゼはそれじたい、証言的知識の浸透にかんしての我々の直感によって支えられている。我々は自身の認知的生活のなかで、証言的知識をありふれた性質のものとして捉えている。だから、我々は、聞き手を、そのような知識を獲得することの条件、信頼可能な把握条件を含めて、を充たしたものとして見なさざるをえない。聞き手は規則的にこの条件を充たしているというテーゼは、証言的知識の浸透を主張する選好する認識的前提から推論される。世界について我々が知る事柄のために、我々が他人へと認識的依存することの浸透を考えれば、我々は意味論的にも他人に依存するしか選択肢はない。つまり、認識的依存が、意味論的依存を合理化するのだ。これは、心の哲学とか言語哲学におけるアンチ個人主義のモチベーションを、知識の証言的伝達についての考慮まで拡大させるべきであることを示している。

Miller, Haddock& Pritchard2009のイントロダクション

完成度の低さよ・・。

***

Miller, Haddock & Pritchard

 

1. Value Problems

  • 認識論における「価値」の問題圏:

①知識の価値の問題:「知識は、たんなる真なる信念よりもいかに価値があるのか?」

②信念の評価(認識的評価)の基軸をめぐる問題:知識といえるか否か、正当化されているか、信頼できる方法・プロセスによって獲得された真なる信念であるか否か。

⇒従来は、「真理」を信念が目指すべき価値として設定することが多かった。

むろん、2つのテーマは関連しあっている。

 

 

 

  1. The MENO Problem

EX) あなたは、見知らぬ街を歩いているとする。礼拝堂はどこかとひとに尋ねると、この道をまっすぐ進めばよいと言われた。じつは、あなたはもともと、この道の先に礼拝堂があることを信じていたのだが、このとき、礼拝堂へ至る道のりについて、単なる真なる信念をもっていることと、それを知っていることとのあいだには、いかなる差異があるのか?

 

プラトン『メノン』における「Larissaへの道」のバリアント:

  • 偶然に真なる信念をもっていたことよりも、知っている(知識をもっている)ことのほうが、より価値があるように思えるが、その一方で・・・
  • このとき、あなたは、もし単に真である信念をもっているだけでも、礼拝堂へと行きつく。
  • だから実践的観点からみると、知っていることと、偶然に真である信念をもっていることとのあいだには差異はないようにも思える。
  • 知識は、実践的に妥当な評価基軸に基づいてのみ価値がある。(だから、礼拝堂に着けば、知っていても、単に真なる信念をもっていても、同じ。)

 

⇔知っていることは、実践的観点からのみ評価されるのではない。

「徳認識論virtue epistemology 」:

知ることは、その独自の目的に照らして価値がある。かつ、このときの目的は、実践的利益にかなうか否かとはひとまず独立である。

Timothy Williams[2000:78-80]

  • 『メノン』におけるソクラテスの立場、「もし我々が知っているのであれば、我々の信念はつなぎとめられている」を擁護。
  • 知識は、単なる真なる信念よりも、未来の証拠によって合理的に覆されることが少ない。
  • だとすると、何かを知っていることの実践的利益は、何かを単に真に信じていることよりも、潜在的に大きいといえる。pについての単なる真なる信念をもつ人物は、何かがpであるか否かについてつなぎとめられておらず、従って、pであることに基づく確信に満ちた行為への態度がとれないのである。

 

 

  1. A Related Value Problem and ‘Swamping’
  • ゲディア問題
  • 知識の価値についての問題はしばしば、知識についての伝統的なフレームワーク「正当化された真なる信念」をめぐって展開される。
  • ふつうに考えると、pを信じることを正当化されていることは、知識のための必要条件であるが、ゲディア事例(1963)以来、正当化されていることだけでは十分ではないことが判明した。知識主体は、正当化された真なる信念をもっているのだが、その信念が真であることは偶然であるという事例が想定可能であるからである。
  • こうして、認識論者の関心は、ゲディア事例をスクリーン・オフすることに注がれてきた。

 

  • ⇔ Prtichard[2007:86-7]
  • メノン問題(知識は単なる真なる信念以上のいかなる価値があるのか。)と第二問題を区別。

価値についての第二の問題(The secondary value problems

なぜ知識は、知識の諸部分の適切な部分集合のいずれかよりも、より価値があるのだろうか?

  • 第二問題は、伝統的知識条件分析のフレームワークの不備と拡張に動機づけられている。

⇒知識が単に真なる信念よりも価値があるのは、ひとが自身がそれを信じていることを正当化されていると知っており、かつ、信じていることが正当化されていることは単に真なる信念をもっていることよりもより良いからであるとされる。しかし、そうであるとしても、知っていることが、知識には足りないが正当化された真なる信念を持っていること(ゲディア事例)よりも、より良いのだということが確立されるわけではない。

 

  • Kvanvig[2003]の「スワンピング問題swamping problem」
  • 諸部分集合のどれよりも知識がより良いのだと示すことは、「スワンピング問題」に直面して失敗する。たとえば…
  • pを知ることは、pの真なる信念を含意するなんらかのより低次の状態(ゲディア事例のような場合)よりもより良いのだと示したい。そのために、誰かがpを知っているときには持っているが、より低次状態にあるときには持っていないような、pについての信念がもつ何らかの性質が存在することを示そうとする。
  • このとき、当該の性質は、真なる信念にパラスティックなものであるはずである。だとすると、そのような性質は、なんら第二問題を解決しない。なぜなら、
  • ひとがpについての真なる信念を持っているとき、彼の信念が当該の性質を持っているか否かは、何が価値あるものであるかという観点によって変わるから特定できない。?

⇒真理の価値は、提示された性質にアタッチされると考えられるどの価値にも、スワンプ(沈む)してしまう。

 

 

  • 徳認識論的観点から

Sosa[1991:2007], Riggs[2002], Zagzebski[2003], Greco[2003]

  • なんらかの妥当な目的への達成に向けた活動にとっては、幸運とか偶然による達成よりも、活動主体の能力の行使による達成のほうが価値があるはずだ。
  • 何が、より価値ある能力の行使としてカウントされうるのか?個々の主体の認識能力のキャパシティの問題が、知識の一般理論にとってどの程度効いてくるのか?

 

 

  1. Truth and Epistemic Appraisal

真理の探究にあたって、次のふたつのうちどちらがより問題であるのか。すなわち、我々は知識を獲得すべきであるのか、あるいは、我々の信念の正当化をめざすべきなのか。

 

  1. 重要なのは偽なることを信じることを避けることだ。我々は信じることを最小化しようとすることによって、そうしようとするかもしれない。このとき、真なることを信じるべきであることは、これに加えて重要ではないのだろうか?だが、もし、我々が全能ではなく、他に特段の理由がない限りは、何でも真であることを信じるべきであるということはあまり明らかなことではない。

⇒どの程度の要請が想定されるべきなのだろうか。我々に可能な認識的評価として、より控え目な要請とは、いかなるものとして定式化されるのがよいだろうか?

 

  1. 真理は、道具的に価値があるものとして捉えられるべきだろうか。それとも、その独自の目的に基づいて価値があるとされるべきだろうか。また、どちらにしても、真なる信念の価値は、その信念内容とは独立だろうか?真なる信念の価値、ないし知識項目の価値は、その内容に依存するという直観が根強く存在する。だが、もしそうであるとしたら、異なる内容とともにある真なる信念または知識には価値がなく、まさにあれやこれの内容とともにある真なる信念または知識が価値あるものであると決定するのは何によってなのか。これは、我々が探究に設定するゴールに基づいて決定されるのか、あるいは、他の何かによって決定されるのか。

 

  1. 我々の認識的達成は、究極的には真なる信念へ向けて遂行されているということは正しいのだろうか。真理のほかに認識的ゴールは存在するだろうか。Kvanvig[2003](in this ch4)は、理解understandingは、知識にはないある特殊な種類の認識的ゴールであると論じている。

 

  1. 第一部の内容

第一部には、「知識の価値」について直接的に論じた論文を集めてある。メノン問題は、信頼性主義や正当化理論の文脈で展開される。

 

  • ch1:Goldman&Olsson
  • 信頼性主義にスワンプ問題が適用されるとき、「もしある信念が真であるなら、その信念の価値は、信頼に足る仕方で獲得されたという事実からは生じてこない」という想定がなされているが、彼らは、この仮定が誤っていることを2つの路線で示そうとしている。

① 条件的確率解決the conditional probability solution

  • 信頼可能なプロセスによって生じた真なる信念を持っているというときに構成されている状態は、同様の種にたいする彼の未来の信念もまた真であろうことがよりありうるという性質を持っている、という直観に訴えることで、スワンプ議論を拒絶する。
  • 信頼可能プロセスによって生じた真なる信念は、同様のプロセスによって生じる次の信念が真であるという確率を高める。このときの確率の上昇は、他の条件が同じならば、信頼不可能プロセスによって生じた同様のタイプの信念が、信頼不可能なプロセスによって生じた同様のタイプの次の信念が真である確率を高めるよりも、より高度な上昇である。

*信頼性主義が、信頼可能なプロセスによる知識が、単に真なる信念よりも価値があると常に認めるわけではない可能性を示すことで、スワンプ問題を回避している。

 

②信頼可能プロセスの自律的価値

  • 信頼可能な信念形成プロセスに、産出物としての真なる信念の価値とは独立の自律的価値を認めるのはなぜかと説明することによってスワンプ問題を回避する。
  • ひとつのトークンプロセスに含まれる価値は、そのタイププロセスに含まれる価値を継承している。かつ、この価値は、トークンの個々の帰結の機能とは異なる。つまり、「多くの信頼可能なプロセスが、もともとは、単に真なる信念のアタッチメントに対しての道具的価値のみを認められているのだが、それらプロセスはのちに、独立の価値のステイタスにアップグレードされる。すなわち、真なる信念の帰結物の価値に加えて、その価値が正統に付加されるのである。」

*この付加される価値こそが、知識が単なる真なる信念よりも価値がある、とされるときの価値に他ならない。

 

  • ch2: Baehr

知識の価値についての問題など存在するのだろうか?

  • これら問題は、「知識は単なる真なる信念よりも価値がある」という直観に導かれて生じているものだが、このような直感を知識分析のツールに使用することは果たして正しいのだろうか?
  • Grecoによる知識の価値についての議論を検討する。

 

  • ch3:Kusch

コミュニタリアン形式の価値的認識論」のアウトラインによって、Kvanvigの知識の価値懐疑論に応答する。

  • 様々な認識的ステイタスを、社会的相互関係にある人間の行為とニーズの関係から理解する認識論。
  • Craig[1990]における、なぜ知識が我々にとって問題となるのかについての発生論的方法を採用して、知識とは何かを明らかにする。知識への価値の出発点は、「前知識主体Protoknowers」(pであるか否かについて直接的に正しいと思われる人物)への関心。では、なぜ、前知識の所有は、単なる真なる信念の所有よりも価値があるのだろうか?
  • Barnard Williams[2002]による発生論的物語から、証言制度は、本来的価値のネットワークによってつなぎとめられているときのみ集合的善である。⇒証言制度が、正確さ、誠実さのような本来的価値によって支持されている集合的善であるならば、その価値は、たんなる道具的価値ではなく、我々の社会的経験にとっての本来的価値であろう。⇒スワンプ問題の回避。
  • 証言の本来的価値は、人間のあいだの社会的な相互作用を通じて保持されるゆえ、彼ら自身の主体の帰属は、証言制度の価値の維持にとって鍵となる。

 

  • ch4: Kvanvig

知識とは別のものとしての、「理解understanding」という認識的価値の提示。

  • 「理解」:情報や観念の断片のあいだの論理的関係、蓋然性や説明の把握にかんする審級。科学的理論やイデオロギーなどが対象になることが多い。
  • ゲディア事例が「知識」ではないのに対して、「理解」はゲディア的なものを許容するのが特徴。つまり、幸運にも偶然得た真なる信念も許容するのが「理解」である。このとき、正しく質問に応じる能力が判断の鍵となる。
  • ただし、「知識」と「理解」との差異は価値認識論にとって決定的な問題であるものの、あまり明らかではない。「理解」を許容してしまうと、なぜ「知識」のほうが「理解」よりも、より価値があるのかは答え難い。

⇒DePaul=Grimm事例:

  • 「理解」は、なぜそうなったのかについて知ることに失敗している事例を認めてしまうことになる。

サッカーの試合で、アメリカが決勝点をいれたことについて、信頼できない情報ソースが偶然、正しい説明(敵のゴールキーパーが芝ですべって誤って相手チームの得点してしまった)を思いついた場合に、「なぜアメリカは決勝点を得たか」について「理解」していることになるのか?

⇔Kvanvigは、この事例の場合には、なぜ点が入ったかについて「知らない」ことになるから、「理解」しているとはいえない、と答えている。

  • だとすると、なぜ点が入ったのかを「知っている」のに(この場合、芝ですべったことは正しい説明ではあるので)「理解」はしていないという可能性を認めることになる。
  • この可能性を認めることは、「理解」概念を掘り崩すというよりは、「オヴジェクティヴな理解」というあり方が、「知識」とは別に存在することの傍証になるともいえるが・・・。

 

 

  • ch5:DePaul

「知識」は価値がない。

①醜い事例(アドホック事例、幸運事例、ゲリマンダー事例など)を許容してしまうような「知識」概念には価値があると思えない。

②我々の認知能力からして、求められている知識条件が、「なぜ」価値があるものなのかを、我々は認識できない。

  • 知識分析とは、何を明らかにするものなのか、について考えるべき。
  • 何かが適切な知識について分析であれば、それを充たすものに価値があることは当然であるように思えるが、しかし、なぜ「適切な知識分析」に日常的理解が従わなくてはいけないのかは定かではない。
  • もしも、日常的知識概念と、適切な知識分析とが一致しなくてよいのだとすると、なぜその知識条件に従うべきなのかが理解できなくなるし、知識分析は結局のところ、認識論的問題ではまったくないような知識の本質的価値についての形而上学的問題だということになる。

 

  • ch6:Jones

「知識」の価値について考えるには、まず「善さ」と信念について考えなくてはいけない。

  • 「信じている」という状態が価値ある状態であるという、その仕方にかかわる一般的善についての「独断的善」の想定が価値的認識論の出発点として想定されてきた。これらは、信念が我々に与える福祉や幸福と、信念に対応する説明力を含む。
  • だが、この独断的善は、信念形成を秘密裏にしか動機づけない。たとえば、病気の母親が今週末には危ないと理解していながら、治癒すると信じているときに、この独断的善が秘密裏に働いている。

⇒行為論における「動機」と「理由」の違いに注目。

  • 必要な理由は潜在的な動機である。Williams(1980)=McDowell(1995)ラインの議論にのりつつ、独断的善が信じることの理由を供給することを示そうとする。
  • 独断的善はしかし、「信じることの副産物」である。
  • 真なる信念のためにクレジットを獲得することは秘密裏の善を形成するのかについての我々の注意に注目して、知識の価値についての価値負荷的説明を試みる。

 

 

  • Ch7:Weiner

Howthorne(2004)の議論の検討からはじめる。

⇒「知識は実践的推論と結びついている。もしもあなたがpを知ってはいないときかつそのときのみ、あなたはpをあなたの実践的推論の前提として使用することを受け入れることが不可能である。」

⇒この前提は正しいだろうか?

例)5000ドルが当たる1ペニーのくじについて、あなたがくじを買ったなら、それは外れるだろうし、それゆえあなたは1ペニーを捨てることになる。だから、あなたはくじを買わないべきである、というラインの議論はクレイジーか。(もしもクレイジーであれば、先の前提はたしかに真実だろう。)

[*このとき、前提は知られていることではない(未来のことだし)ので、ホーソンによれば、実践的推論の前提としては受け入れられないことになる。だが、この推論は、いちおう、成り立っているようにも思える、というのがヴェイナーの論点なのだろう。]

 

  • ヴェイナーはうえの前提も、前提として受け入れ可能であると示唆している。既知のことがらのみが前提になるわけではない。
  • 実践的推論はある場合には、偽なる前提によることもあるし、なんらかの知られていない事柄が前提になることもある。たとえば、来年のいまころにアフリカ行きの資金がじゅうぶんでないだろうという前提(現時点で既知のことではない前提)も、推論の前提として受け入れ可能ではないだろうか。この前提を前提としてみとめないと、あなたはアフリカのガイドブックを買ったりガイドを雇ったりしてしまって、結局、認識的にも良い結果には至らないことにならないか。
  • とはいえ、これは実践的推論の拡張の問題、ないし何をもって実践的推論と呼ぶかの問題かもしれない。ある種の実践的推論にとってはやはり前提が真であるか否かは決定的な問題となる。そうでない場合、問題は、信念が正当化された仕方で形成されたかという点になる、というような。

 

Weiner:「知識はスイスアーミーナイフのようなもの。ひとつひとつのツールは、何らかの実践的文脈において価値があるが、他の文脈では価値がない。ひとつひとつのツールが便利に利用可能であることを超えた、スイスアーミーナイフであることについての価値などは何もない。」

  • pを知ることは、多様な条件を満たすようなpについての信念を持つことを含んでおり、各々の条件は、ある特定の実践的推論の文脈上で満足であることにおいて有価値なのであり、他の文脈においては有価値ではない。
  • 知識を持つことが有価値であるのは、その諸要素があれこれの環境課において有価値であるようになることを前もってひとは知らないからである。

 

 

  • ch8:Engel

認識的評価は、なんらかの実践的関心に依存した仕方でなされる。

⇒プラグマティックな拡張(pragmatic encroachment):

例)真なる信念の価値を、それが人間の欲求を満たすことのガイドとしての役割を果たす点にあることから説明しようとするアプローツ。(Horwich)

⇔Engel:しかし、このようなプラグマティックな説明は、新地の規範的性格を示しうるだろうか?真なる信念をもつことがプラグマティックに良いことであるという事実は、なぜ何かを、それが正しく、かる真であるゆえ正しいという理由で、信じることが望ましいことであるのかを説明しないだろう。

 

Fantl=McGrath[2002]議論:正当化についてのプラグマティック・エンクローチメント

2人の人物のうち、ある経験的命題について2人とも同一の証拠を所持しているにも関わらず、ひとりはその命題を信じることが正当化されており、もうひとりはされていないということがありうる。

⇔片方の人物にとっては、その命題を信じることについてのプラグマティックなコストが、もうひとりよりも高いという事実によって、2人の正当化における差異を主張する。

⇔Engel:この議論が示しているのは、2人目にとっては、当該命題を信じることが、一人目に比べてより重要である、ということのみ。(だから、正当化の差異ではない、ということ。)

 

Stanley[2005]:知識についてのプラグマティック・エンクローチメント

ある特定の命題がまるで真であるかのように行為することの合理性は、当該命題を知っていることにとっての必要条件である。

⇔Engel:この議論は、ある命題を知ることは、その命題が真であるかのように行為することが合理的であることのための必要条件であるという弱い主張にしかなっていない。(だから、知識についてまでプラグマティックに評価することの正当化にはなっていない。)

⇒認識的探究においてプラグマティックなファクタが役割を持つことじたいは否定しないが、その役割は限定されている。

⇒「プラグマティックな妥当性(relevance):知識はじっさい、実践的推論と行為にとって問題であるが、しかし、そのことを指摘することは、知識がプラグマティックな考察に依存するという主張よりも、はるかに弱い主張にすぎない。」

 

 

  • ch9:Riggs

我々がなぜ知識に関心をもつのか考察することは、いかに我々の認知的生活が我々の道徳的生活や英知的生活と相互浸透しているかを理解することの助けになる、という路線での価値負荷的認識論の土台に反論する。もしも、我々が幸運にも偶然真である信念について悪いものであるとするなら、我々はどうして知識を価値あるものとするのかについて理解できるようになるだろう。

  • もしも知識から幸運を除外するのなら、幸運はいかにして受容されるべきなのか。

Pritchard[2005]:幸運についてのSafety-based アカウント

あるイベントが幸運であるなら、その出来事は、妥当な初期条件が同一であるような近傍の可能世界の広いクラスにおいては起こらない。加えて、もしもあるイベントが行為者にとって有意義であるか、じっさいに有意義であるのは、その行為者がその妥当な事実を評価できるときである。

⇔Riggsどちらも幸運について必要条件ではない。

  • 反例:イベントないし環境の幸運な結びつきがあるが、その事例について顕著な性質は近傍の可能世界においても生じているような事例がある。
  • プリチャードの条件は十分条件とも結びつかない。

⇒幸運についてのコントロール欠如アカウント:

  • ひとは、そのハプニングを、行為者がなしたことであるような何かであると適切に考慮する程度には、ハプニングをコントロール可能である。したがって、行為者がなそうとしたことも、行為者の能力・スキル・パワーの生産物も、両方とも、コントロール下にあるといえる。
  • コントロール下にはないが、しかし幸運ではないような多くの事柄が存在するのだから、幸運のコントロール欠如アカウントは誤りであるという反論は有効かを検討する。

⇒あるイベントがある人物にとって幸運であるのは、その人物がなんらかの目的のためにそのイベントを成功裏に利用可能ではなかったときである。

 

 

6.第二部の内容

  • ch10.Lynch

なぜ真理が有価値かについて、2つの路線からの理解の仕方を提示する。

①「ひとがどのような命題について考えるかにもよるが、ひとが真であることを、かつ真であることのみを信じることは一見明白に善である」といういみにおいて、真理は探究の適切な終点である。

②「「p」を信じるのは、「p」が真であるとき、かつそのときのみ正しい」といういみで、真理は信念の規範(ノルム)である。

⇒このいずれかの仕方において真理の価値を理解しようとするときに、我々が採るべきメタ規範的スタンスとはいかなる種類のものであるべきだろうか?

  • 表現主義はダメ。様相論理的な正しさを応用して、表現主義は「どの信念が正しいかが非事実的問題であるのは、信念を正しいものとして記述することが、それについての事実ではなくて、感情や態度の表現であるということが真理であるとき、かつそのときのみである」と主張する。
  • 素朴な表現主義は単に自己論駁的であるが、洗練された表現主義は、価値についての実在論者が肯定するのと同じく、engagedな観点から、我々が評価のための言語を使用可能であるとする。
  • とすると、洗練された表現主義は、真理のデフレ説を採用することができ、Engagedな観点からすると、真理規範は真である。このとき、disengaged観点からは、真理規範はそれじたい真でも偽でもなく、我々の欲求や感情であるわけだが、ある評価機能についての表現主義の物語は語りうるということになる。
  • 様相論理的正しさが問題となる場合には、Disengagedスタンスを採らざるを得ない。その理由は、表現主義者はある命題が真であるという自然的事実に訴えて、なぜそれを信じることが正しいのかを説明するが、デフレ説を採っているのだから、真理が説明力を持つことを示すような真理の理論は欠如しているからである。
  • 真なる信念所持の価値についての表現主義はうまくいかないので、真理の価値に対する懐疑論的態度は、どちらの価値理解の路線を採ったとしても、避けられ得ない。

 

  • Ch11:Grimm

広いいみでの認識的評価に意味をもたせるにはどうしたらよいのか。

⇒Grimm目的論的アプローチ:真理は内在的認識的価値であり、なんらかの信念がこれを持っているときに肯定的な認識的ステイタスとされるのは真理の価値から説明される。

⇔問題点:真なる信念の内容と、内在的価値の付加の対応が不明瞭。いくつかの真なる信念のみが内在的価値を持つとすると、「内在的価値が欠落した、しかし尊重に値すべき信念を我々はどのように認識的に評価すべきなのかがわからない」。

 

⇒Sosa[2007]見解:人間の経験領域との関係で価値を考慮するアプローチ。

  • あるひとつの領域内部でのパフォーマンスは、その領域にとってファンダメンタルな価値によって評価される。
  • 領域内部でのパフォーマンスの評価は、そのファンダメンタルな価値についての領域超越的なコミットメントは含まない。
  • 「認識的」評価は、そのファンダメンタルな価値が「真理」であるような領域内部でなされる評価である。ただし、ここで、真理が絶対的な領域超越的な内在的価値を持つという見解にはコミットする必要はない。

⇔Grimm:Sosa見解では、正当化されない、または非合理な信念と判断されることが、認識主体にたいしてその信念内容を変更「すべきである」という拘束的ないみを含んでいることを説明できないのではないか。

  • もし「すべき」が領域内在的なのであれば、真理に方向づけられた展望が任意のものではないというアイデアを擁護できないではないか。
  • 共同的ないし社会的な真理概念が必要だろう。この概念は、すべての真理が特別な価値をもつということを含意するものでなくてはならない。
  • 鍵となるのは、すべてのトピックが、共同体を通じて人々が所有する様々な実践的関心を含みこむような価値をもっているという点である。我々自身にとってはそうでなくとも、他人の生活の内部で真理がその役割を果たすようないみでの、真理の中心的役割の点で、我々は真理を尊重しなくてはいけない

”testimonial~”同その2

  • 非還元的理由

*還元的理由においては、記憶的信念と証言的信念は同じ船のうえにあることをみた。どちらのケースでも、還元的理由による正当化は非還元的理由に寄生的であるからだ。

*ここからは、よい現在の非還元的理由に究極的に基づいて正当化されるのではない記憶的に正当化された信念は存在するのかについて考えてみる。もしも肯定的回答が得られるのなら、現在の理由にはまったく基づかずに正当化された記憶的に正当化された信念というものが存在しうることになる。つまり、(M2)で言及したような信念が存在することになる。

 

*現在の非還元的理由によって、記憶的に信念を正当化するとは、その理由を知覚、帰納、その他の推論的正当化に還元せずに正当化するということである。その仕方には2つの路線がある。整合的正当化と、基礎付け主義的理由である。(M2)は、整合主義による正当化も基礎付け主義による正当化も見逃しているような記憶によって正当化される信念の存在を示している。【だから、以下では整合主義によっても、基礎付け主義によっても、非還元的な理由による記憶的正当化が説明できないことを示す。】

  • 整合主義的究極的正当化
  • 記憶的信念のばあい
  • 整合主義者の究極的正当化を考えた場合、現在の他の信念との整合によって正当化されないような記憶的に正当化された信念の事例が指摘できる。整合による正当化は、信念pがなんらかの妥当な信念の集合と整合した関係を持つ、あるいは、妥当な諸信念の集合の内部の他の信念と整合した関係を持つことを要求する。整合による正当化という見解は、他の信念集合と整合しているあるひとつの信念の集合のなかのメンバーシップも要求する。
  • いま、孤立した指標を思い起こしたとする。私は5歳のときタコを採った、とか。この信念は私の現在の信念の集合と非常に弱くしか整合しないが、それでも正当化されうるかもしれない。また、この信念は、私が「タコ」というコトバを最近きいたこと、子供のころにシーフードを食べたこと、私の記憶は一般に信頼に足ること、私の記憶が私に5歳のときにタコを採ったことを教えたこと、などを私がたんに信じているだけであったとしても、正当化されてしまうだろう。
  • 私が5歳のときにタコを採ったという私の信念が、他の信念集合とのあいだにもつ整合性関係は、私の信念を正当化するには非常に弱すぎないだろうか。これは直感的な点であるが、現在の議論にとっては決定的な点である。
  • 正当性が正当化の十分条件でありうるのは、整合と正当化とのあいだの関係についての以下の原則が充たされているときであろう。

 

私の信念pが、整合といういみでの正当化を受けた妥当な信念集合とじゅうぶんに整合しているのなら、その場合に、私がpでないということを信じているとして、しかし、私は、私の記憶が私に教えることに適合するように諸信念の差異を調整することによってのみこの集合内部の諸信念を維持し、そのような諸信念から帰結する諸信念を信じることになる。そして、私は、pを信じることのための正当化を掘り崩すような集合の外側にはなんらの信念ももたず、私のpでないという信念は、集合との整合といういみでの正当化をうけた諸信念の調整後の集合とは十分に整合しないことになる。

 

  • 上の原則に基づいて、先ほどとは逆に、私は5歳のときにタコを採らなかったという命題を思い起こしたとしよう。この信念pのための特定の集合としての諸信念を私は持っており、記憶が私に教えたことを訂正する。私はまた、pを信じることのための正当化を切り崩すような集合の外側には何らの信念も持っておらず、私のpでないという信念は、私の信念pがオリジナルの妥当な信念集合と整合するのと同じくらいに、調整された信念集合と整合する。だから。私のpでないという信念は、整合としての正当化をとれば、この信念の正当化のために十分であるべきであろう。私の信念pがこの信念の正当化のために十分であるのだから。
  • ゆえに、整合原則は、私の信念pの整合はこの信念の正当化のためには十分ではないということを含意する。整合説は、直感に反して、私の信念pの正当化とは整合しないのである。この結論は、もしも現在の理由に限定したならば、記憶的に正当化された信念は、究極的には、それらの諸理由の整合といういみでの現在の諸理由の整合という基盤のもとでは究極的に正当化することはできないということをいみする。

 

  • 証言的正当化にかんしての整合説の検討

*私が所有している理由に基づいて正当化されるのであれば、なんらかの証言的に正当化された信念は、究極的には、諸理由の整合によって究極的に正当化されるということはない。なぜなら、

  • 私は、私の妥当な信念の集合とは非常に弱い整合しかないにもかかわらず、ニュージーランドにはカイガラムシがいるということを信じているかもしれない。証言者が成人であるとか、成人は一般的に真なることを語っているとか、ニュージーランドには海岸があるとか、私の証言者とコミュニケートした人物はニュージーランドを訪れたことがある、カイガラムシは海に生息する、とかいった一般的情報のほかには、私はこの信念についてなんらの妥当性も知らないにもかかわらず、私のこの証言的信念は正当化されうるかもしれない。
  • ニュージーランドにはカイガラムシがいるという私の信念と、他の諸信念とが妥当な整合関係にあるということは、私の証言的信念を正当化するには、非常に弱すぎる関係である。結局、証言的信念の場合であっても、整合関係が正当化を含意することはない。

 

  • 基礎付け主義的正当化ならどうか?

*私の記憶信念は、整合によって正当化されるのではないのなら、以下の現在あるいは未来の常態を基盤にして究極的に正当化できるだろうか?

①pということを思い出したと私が思っていること

②私がpということを思い出したという私の感情

③私はpということを信じるためにオリジナルにはよい理由をもっていたと私が信じていること

④pという私の記憶信念の強さ

⇒こたえは否である。記憶的に正当化された信念は、整合によって正当化される必要もなく、他のいかなる諸理由の基盤によって正当化される必要もない。(M2)を支持するためには、このことが主張できなくてはいけない。

  • たとえば、「あなたの家には寝室はいくつあるの?」と聞かれて「5つです」と答えるときに、思い出しているように思えるという状態を経験したり、私は思い出すという感情を経験したりしているわけではない。また私はpということを信じるためによい理由をもっているという記憶的または他の種類の信念を形成しているわけでもない。たしかに、私はpを思い起こしたということを私は自分で気づいているだろうけれども、私が私の信念pを基盤にしていることにたいしての心的な気づきの状況が存在するわけではない。
  • 私がpを思い起こすということを私が気付いていると語ることは、私はpを思い起こしたということを私は知っており、私はそうしたければ、この知識に容易にアクセスできるのだと語ることである。
  • 思い起こしについての心的状態とか感情はその思い起こされた信念を正当化しないし、そういった二階の信念は、私は思い出したかどうかということを考察しない限りは生じないものだ。
  • ①~③はメタ的な信念であり、pであるという信念じたいを究極的に基礎づけることで正当化するものではない。
  • では、④はどうだろうか?記憶的信念の強さは、記憶的信念と常にともには生じえないという反論は避けることができる。
  • 記憶的信念の強さは、時間の経過とともに、その信念の発端の瞬間ではなくて、その後の記憶的信念の強さによって基礎づけられる。基礎付けは時間的な因果的関係であり、始めに基礎づけられた瞬間以前に信念が基礎づけられて獲得されている必要がある。??
  • だとすれば、記憶的信念はその発端の瞬間以後に正当化されるだけということになるが、それはおかしい。もしも、私の信念がその強さによって正当化されているとしたら、ここでいる正当化の時間に先だってその強さが指示されていることになるからだ。???
  • つまりこういう状況であろう。私の信念はなんらかのものxに基づいて正当化されているのだが、それはxが獲得されておらず、私の信念が獲得されないときのみである。
  • すると、私の信念がその強さによって正当化されるとしたら、私の信念は時点tに先だって実際の強さを持っていないことになり、時点tにおいてもそれは獲得されないことになる。だが、私の信念がその発端以後になくなり、その記憶の発端における強さがじっさいにそうだった時とは異なるということは自然なことでもある。
  • だから、私の記憶的正当化信念が、その強さによって正当化されるという提案はよいものではない。よって、記憶的に正当化された信念は、整合的究極的正当化も基礎付け主義的究極的正当化にもあたらない。このような記憶的に正当化された信念は、なんらかの現在の理由によっては正当化されないのである。これがまさに(M2)主張である。

 

  • 証言的信念の基礎付け主義的正当化の検討

私が所有する非還元的理由のいくつかの候補がある。

・証言によってpを信じていると私が思っていること

・証言者がpを信じるよい理由を持っていると私が信じていること

・私の証言的信念pの強さ

・pという証言について理解していると私が思っていること

 

整合的には究極的に正当化されないすべての証言的信念は、上のどれかによって正当化されるだろうか?記憶との場合と同様に、答えは否定的なものだ。但し、4つ目については検討を次節に譲る。

  • 最初の2つについては、それらが常には証言的信念に伴わない。

(以下この節の終わりまで省略)

 

 

 

2.バージによる証言的エンタイトルメント

*(T1)のためのケースを想定するために、以下の正当化された信念のための自明な条件(G)を想定しておいた。

(G)私自身の正当化された信念はいかなるものであれ、私と適切に関連しているようなpと信じるためのよい理由の基盤に基づいて正当化される

            

  • (T1)が(G)に依存するのは、証言的正当化信念のケースに限られる。無制限の(G)についての擁護は本稿の課題ではない。だが、間個人的テーゼ(T)は(G)に依存しているのだから、証言的正当化信念に限ったばあいでの(G)措定については当然なんらかの仕方で擁護しておかねばなるまい。
  • 証言的正当化信念に限った(G)は、記憶的正当化信念に限った(G)と同様に支持される。

⇔だが、バージ(Burge1993;1997)によれば、証言的正当化に限定した(G)と(T1)とは両立しえないとされている。

 

(T1)私の信念pが証言によって正当化されるとき、私の信念pは、私が所有しているpを信じるよい理由に基づくのではなければ、証言者が所有しているpを信じるよい理由に基づいて正当化される。

 

*これに対して、バージは、私の信念は何らかのよい理由に基づかなくても、正当化されうるのだと主張している。このバージ見解は、(T1)と両立しない。

⇒制限された(G)と(T1)の擁護のためには、バージ見解を掘り崩さなくてはいけない。また、バージ見解を掘り崩すことは、証言的正当化の究極的基盤としての第4の候補()を掘り崩すことでもあるから、ここでの(G)と(T1)擁護は、(T2)にとってもレリバントなものである。

 

「問答interlocutionにおいては、…我々は、我々が理解していると思っていることへの暫定的主張を信じることについての、一般的でアプリオリないちおうの(ある程度までの)エンタイトルメントを持つ。」(Burge1997;21)

 

  • バージは、「エンタイトルメント」と「正当化」とを区別している。信念の「正当化」は、認識主体本人によって把握されていなくてはならないが、「エンタイトルメント」はその必要はない。
  • 但し、議論のために、本稿では、エンタイトルメントと正当化とをほぼ同じものと見なすことにする。【証言的正当化について、内在主義をとるか外在主義をとるかにかかわる結構大きな区分だと思うけど、いいの?】また、間個人的テーゼによれば、証言的正当化は、それがアプリオリであれアポステリオリであれ、証言者のpを信じることへの正当化によって所有されるものであるから、本稿では、証言的エンタイトルメントがアプリオリであるという主張は(誤っているとは思うが)主題としない。

*バージは以下のテーゼにコミットしていると考えられる。

(U)pが暫定的に主張され、私がpという暫定的主張を理解したと思っているのならば、私はいちおうpを信じる資格がある(pを信じることのエンタイトルメントを持つ)。

  • (U)の主張では、pと信じることへの私の証言的エンタイトルメントは、暫定的に主張されたpの存在と、私がこの暫定的主張を理解したと思っていることに帰される。
  • また、(U)は、暫定的に主張されたpの存在あるいはその主張について理解したと私が思っていることが、私の証言的信念がエンタイトルメントを持つかもしれないという基盤の地位をもつということであるとは、想定していない。

⇔(U)は、証言的正当化信念は、証言について信じていると私が思っていることに基づいて常に正当化されるという見解への反論と同じ仕方では反論できない。つまり、私の信念pは、私が証言についてpを信じているということを認識していなくとも、正当化されうるのだということを指摘することによって、(U)が掘り崩されることはない。

  • pと信じることを私にエンタイトルするものが、pについての暫定的主張を理解したと私が思っていることであるのであれば、このことは明らかに、私が証言ないし暫定的主張を摂取した結果としてpを理解したと認識しているということを必要としない。
  • だから、証言摂取の結果として私はpを理解しているのだと私が認識していることなしに、私の信念が証言によってエンタイトルメントされるという事実は、(U)の前件(pが暫定的に主張され、私がpについての暫定的主張を理解したと思っていること)を充たすことを妨げないのである。

 

*むしろ、(U)の反論のためには、pの暫定的主張が存在しており、その主張を理解したと私が思っていること、という条件は、証言的エンタイトルメントのためには、あまりにも薄すぎる基盤であるということを指摘したほうがよいだろう。

  • この反論は、直感的に受け入れやすいものであろう。pが暫定的に主張され、その主張を私が理解したと思っているという単なる事実は、pを信じることに対してのエンタイトルメントを与えるにはあまりにも不十分ではないか。(U)に反する事例を出さなくとも、これで十分に(U)への反論になる。
  • しかし、なぜバージは、誰かが語っていることを私が理解しているという単なる事実が、私にそれを信じることへのエンタイトルメントを与えるのだと考えたのだろう。その理由を考えていけば、(U)についてのバージの議論をつぶすことが可能だ。

 

*いま、記憶的エンタイトルメントと証言的エンタイトルメントとは、同舟であるとする。(U)の記憶バージョンは、直感的にもっともらしくないのだが、バージはいかにしてアナロジーに意味をもたせるのだろうか。

  • (U)の記憶バージョンに対してのバージの論証は、(U)への彼の論証よりも、後述する(b1)としてのほうがうまくいっている。
  • このことは、バージによる証言的エンタイトルメント見解と対立している本稿での(T1)擁護の議論のほうが、バージによる記憶的エンタイトルメント見解からの(M1)擁護の議論よりも強いものであることをいみしている。
  • この違いは、間個人的テーゼの条件付き擁護に現れている。以下では、証言ケースに絞ってみていく。

 

*バージによる(U)擁護議論はいくつかの解釈が可能だが、いま以下のように再構成しておく。

(a)pの提示が、真として理解可能な提示であると思えるのなら、それはいちおうの合理的源泉の提示である。

(b)pの提示がいちおうの合理的源泉であるのなら、それはいちおうの真理の源泉の提示である。(すなわち、真理である傾向が高い提示である。)

(c)pの提示がいちおうの真理の源泉の提示であるなら、私はpを信じることへのいちおうのエンタイトルメントを持っている。

結論:pの提示が真として理解可能であるように思えるのであれば、私はpを信じることへのいちおうのエンタイトルメントを持っている。

 

上の結論は、(U)の主張を同じである。pの提示が、真として理解可能と思われる提示であるのは、pが暫定的に主張され、その主張を私が理解したと思っているとき、かつそのときのみであるという想定のうえに(U)があるから。

  • 最も弱い前提は(b)であろう。バージが、前提bをどのように擁護しているのか、それが妥当なものであるのかをみていく。
  • バージによる前提bの擁護は、合理的源泉はveritisticなファンクション(それは、真なる命題を生み出す関数/機能である)を持っているということを根拠にするものだ。バージはこの根拠から以下のものを引き出す。

(b1)pという提示がいちおうの合理的源泉の提示であるなら、それは真理評決機能をもっているある源泉のいちおうの提示である。(つまり、pの提示は、真なる命題を生み出すいちおうの関数である。)

(b2)pという提示が真理評決機能を持つ源泉のいちおうの提示であるなら、それは真理の源泉のいちおうの提示である。

 

上の2つから前提bが導出される。そして、このようにしてバージは前提bを擁護していると思われる。しかし、真なる命題の産出という機能に訴えることは、2つの困難に直面する。

①(b1)は不明瞭である。

  • 確かに、合理的源泉が、真なる命題産出機能をもちうる、ないしもつことがあること自体は認めることができる。しかし、合理的源泉が、必然的に真なる命題産出機能をもっているわけではない。
  • 合理的な信念形成が、真なる信念の産出の機能を持っていることは明確である。だから、(b1)は記憶的信念の合理的源泉として受容された記憶にとっては、明確なものだ。
  • だが、バージが証言的エンタイトルメントのための前提bの支持のために必要としているものは、(それは前提cと、結論とも両立する仕方で支持されなくてはいけない)、うえの場合のような無害な主張ではなく、合理的対話は、真なる提示を産出する機能をもつという傾向についての主張である。合理的対話は真なる提示を産出する機能を持つという主張は、当然明らかではない。
  • 明らかなのは、合理的対話は、対話のゴールと福祉を活性化する機能を持つということである。(Faulkner2000は、この点についてバージに反して強調している。)提示における真理は、時折、その目的の手段である。だが、このことは、合理的対話が常に、真なる提示の産出機能を持つということを帰結しはしない。帰結するのは、ただ、提示における真理は、ときに、合理的対話の機能を充たす手段となりうるということのみだ。このことは、バージによる前提bの擁護論証を掘り崩す。そして、前提bそれじたいのおかしさも明るみに出す。

②(b2)は疑わしいdubious。

  • 合理的源泉が真理評決機能を持っているとしても、そのことから、合理的源泉が真理の源泉であることは帰結しないだろう。また、真理を提示する傾向がじっさいに高いということも帰結しない。
  • たしかに合理的源泉はこのての機能を持つかもしれないが、そのパフォーマンスはプアなものだろう。ある提示が、真理評決機能をもつ合理的源泉のいちおうの提示であるという事実から、なぜ、それが真理の源泉のいちおうの提示であることが帰結するといえるのだろうか。
  • 明らかに、バージは、ある源泉が真理評決機能を持っていると考えるいちおうの理由をもつなら、そのことは、その源泉がその機能を充たすと考えるいちおうの理由があると考えることを許容する、と想定しているのだろう。
  • 一般に、その機能を充たす機能を持っているものであると考えるいちおうの理由があって、真理評決機能をもつ合理的源泉のいちおうの提示がその機能を充たすことに失敗することへの理由をもたないのであれば、バージの想定を受け入れることができる。
  • だが、第一に、その機能を充たす一般的なものというものを考えるアプリオリないちおうの理由など我々は持っていない。その機能を一般的に充たすものなどない。人工物にかんしては、企図された機能を持つことが受け入れ可能であるが。
  • 時計や他の装置には、我々によって機能を割りつけることができる。だが、それら装置の多くは、我々がそれらに割りつけた機能を充たすことに失敗しうる。予期されない環境との相互作用による副作用とか、まずいデザインとかによって。
  • このことは、生物学的有機体にも当てはまる。

Schmitt ”Testimonial Justification and Transindividual Reasons” メモその1

Testimonial Justification and Transindividual Reasons

F.F.Schmitt

 

[本稿の目的]

  • 証言ベースの知識、つまり証言に基づいて正当化された信念は、いかなるいみで社会的であるのか、を明らかにする。
  • 証言的知識が強いいみで社会的であることじたいには論争の余地はない。

⇒命題の証言的知識は証言者の知識に依存している。

 

証言的知識についての強い社会性テーゼ:

私がpであるというTの証言に基づいてpを知っているのは、Tがpを知っているときに限られる

 

⇒上のような定式化のもとでは、私が証言的知識を所有していることは、私自身ではない別の人物に属する知識が存在することを含意しているといういみで社会的である。このような定式化じたいにいくつかの反論があるが(Lackey1999;Graham2000)、この定式が正しいものであることは、本稿では疑問視しない。つまり、証言的知識についての強いいみでの社会性テーゼじたいは本稿の議論の外にある。

 

⇔「証言によって正当化された信念」はしかし、うえとは対照的に社会的とはいえない。

「私の信念pがTの証言に基づいて正当化されるのは、Tがpを信じるよい理由をもっているときに限る」というテーゼは真ではない。

  • たしかに証言によって正当化された信念はよわいいみでは社会的である。
  • もしも私の信念pが証言に基づいて正当化されたなら、それは「証言に基づいて」ということによって、証言が存在すること、従って証言者が存在すること、従って通常のケースでは私ではない別の人物からの証言であること、が帰結する。
  • 存在しない証言によっては、私の信念は正当化されないだろうから、証言的に正当化された信念の存在は、証言子の存在を含意するといえる。

⇔だが、私がpについて証言に基づいて正当化された信念を所有していることは、私にとっての証言者であるところの彼女が、なんらかのポジティヴな認識論的立場にあることを含意するわけではない。

  • 冷蔵庫にイチゴが入っているという正当化された信念を、私がティナの証言によって持っているとしても、もしも私が、ティナがこのことを信じるための良い理由をもっていると誤って正当化されたときには、このときティナはじっさいにはこのことを信じるよい理由を持っていなくてもよい。
  • だから、私の信念pが証言者Tによって正当化されることは、Tがpを信じるよい理由をもっていることを含意しない。従って、証言によって正当化された信念は、強いいみで社会的であるわけではない。

【つまり、証言によって正当化された信念は、証言元の人物がそれを知っていることがなくても誤って生じることがあるので、証言によって正当化された信念pの存在は、知識pの存在を含意しないということか。】

 

  • しかし、本稿では、証言によって正当化された信念についてのある資格を持った社会的主張は擁護可能であると考える。
  • とくに、証言者がpを信じるためのよい理由をもっていることについての正当化された信念を私が欠いており、また私がpを信じるための他のいかなる理由も欠いているときに、pについての証言的信念が生じる場合:
  • このとき、pを信じることについての私にとっての良い理由がもしも存在するなら、それは私自身によるものではなく、証言者経由で得られるものでなくてはいけないだろう。そこで、筆者は以下の直感的に正しいと思われるテーゼを擁護したいと思う。

「私の信念pが証言に基づいて正当化されたなら、私の証言者Tは、私じしんは所有していないような、pを信じるよい理由を持っている。」

「私は、pについて信じるいかなる理由も所有してないときでさえ、証言に基づいて正当化された信念pを持つことができる。」

 

間個人的テーゼ(Transindividual Thesis):

(T1)私の信念pが証言に基づいて正当化されたなら、証言者のpを信じるためのよい理由に基づいて、たとえ、私自身がその理由を所有していなくても、信念pは正当化される。

(T2)私の信念が私自身が所有しているpを信じるよい理由に基づいて正当化されないときでさえ、私の信念pは証言に基づいて正当化されうる。

 

  • T1を支持する流れ

*(T1)は、以下の仮定(G)から帰結する。

(G)私の所有している正当化された信念pは、それがいかなるものであれ、私と適切に関連したものであるようなpを信じるためのよい理由に基づいて正当化される。

 

*(G)から、私の信念pは証言に基づいて正当化されるということが仮定される。私自身がpを信じるよい理由をもっていないのなら、よい理由となりうる候補は証言者によって所有されているものしか残っていない。従って、私の信念pは、私が所有しているよい理由か、他人(証言者)が所有しているよい理由のいずれかによって正当化されなくてはいけない。この結論は、(T1)そのものである。

*よって、(G)を受け入れたなら、(T1)も受け入れることになる。

*筆者は、(G)の受け入れについては、とくに議論せず、端的に仮定するだけにする。ただし、二節で示すように、(G)は証言によって正当化された信念に限定して適用される仮定である。証言のケースでは、他に妥当な選択肢がないために、この仮定を受け入れることになる。

 

  • T2を支持する流れ

*証言によって正当化された信念pは、証言者がpについてよい理由を所有しているということの正当化された信念に基づいて常に正当化されるわけではない。

証言者がpを信じるためよい理由を持っているという私の信念は、それじたいは究極的には証言に基づいて正当化される、つまり、私の証言的に正当化された信念qに基づいて正当化される。

*このことは、この証言的に正当化された信念qは、私が所有しているなんらかのよい理由に基づいて証言的ではない仕方で正当化されたものではない、ということを示している。これは、証言者がpを信じるよい理由を持っているという理由によるのではなく、私が所有している他のよい理由が何もないという理由による正当化である。

*従って、私はpを信じるためのよい理由を所有していないときでさえも、私の証言的信念は正当化されうるのである。これが(T2)に他ならない。

 

 

(T2)は、すべてのケースにフルに適用されるわけではない。間個人的テーゼのための条件付きケースを考えるために、以下のような間時間的テーゼを措定し、これと間個人的テーゼとをアナロジカルに考えてみる。

 

間時間的テーゼ:

(M1)私の信念pが記憶に基づいて正当化されるなら、信念pは、私が現在持っているpを信じるためのよい理由がないとしても、私のpを信じるためのオリジナルのよい理由に基づいて正当化される。

(M2)私がpを信じることについて、私がpを信じるためのよい理由を現在持つことによって正当化されているのではないとしても、私はpについて記憶に基づいて正当化されうる。

 

*例えば、冷蔵庫のなかにイチゴがあると信じるための私のオリジナルの理由が(あまりちゃんと確認しなかったとか)よいものではないとして、今現在のよい理由にも基づかずに私は冷蔵庫のなかのイチゴがあると信じているとしたら、私の信念は現在も正当化されてはいない。

*間時間的テーゼは直感的には正しいし、ひろく受け入れられているものだ。

⇒本稿は、証言的正当化のための間個人的テーゼのためのケースと、間時間的テーゼとをアナロジー的に検討するが、このとき間時間的テーゼじたいはひろく受容されたものと仮定して議論をすすめる。

  • 本稿の議論は条件付きのものである。本稿の目的は、証言的に正当化された信念についての間個人的テーゼのためのケースが、記憶的に正当化された信念についての間時間的テーゼのためのケースと同じくらい強いものであることを示すことにある。
  • 言いかえれば、もしも間時間的テーゼをある事例のもとで直感的に正しいと認めるのであれば、間個人的テーゼについてもなんらかの事例のもとでその正しさを認めなくてはいけないということである。

 

 

1.間個人的テーゼについての限界事例

*間個人的テーゼの事例は、間時間的テーゼの典型的事例とアナロジーをなす。我々は(G)を仮定して、私の正当化された信念pはよい理由に基づいていなくてはいけないと仮定する。(M1)は、(T1)とパラレルである。(G)を受け入れたなら、(M1)についても容認しなくてはいけない。

*(M2)条項のばあいには、私の信念は現在の理由によっては正当化されないのであっても、記憶的に正当化されうる。このことは、その信念がよって立つところのものとしてのよい現在の理由の候補として適切なものがないばあいには、諸信念は直感的に記憶によって正当化されうるのだという主張であろう。

⇒ここで、よい現在の理由であるものの候補には2つの種類があると考えられる。ひとつは、現在の還元的理由、もうひとつは現在の非還元的理由、である。

  • (M2)のばあい、記憶的に正当化された信念が存在する、とされる。これは、よい現在の還元的理由が存在せず、かつ、よい現在の非還元的理由も存在しないことによる。

還元的理由:なんらかの記憶的に正当化された信念pがよい現在の還元的理由に基づいて正当化されるのは、それが演繹的、帰納的その他の理由からの正当化推論に基づく場合である。

  • そのような理由がひとつの信念であり、それじたいが私の記憶的に正当化された信念pに正当化を与えるために正当化されていなくてはいけない。
  • そのような現在の還元的理由の妥当な性質とは、それは私の記憶的に正当化された信念が、現在の還元的理由のみに基づいていることを妨げる性質であるが、そのような現在の還元的理由が記憶に依存しているということである。
  • 私の信念が現在の還元的理由rに基づいていることによって記憶によって正当化されているのなら、その信念はrからの推論によって正当化されており、rはそれじたい正当化された信念でなくてはいけない。
  • だが、いま想定しているケースだと、私の記憶的に正当化された信念を支持しうる何らかの現在の還元的理由は、それじたい記憶に基づいている。だから、記憶的正当化は現在の理由にのみ依存すると仮定すれば、現在の還元的理由に基づく記憶的正当化は究極的には現在の還元的理由に基づいており、その現在の還元的理由は現在の非還元的な理由に基づいて記憶的に正当化されており、というように、還元的理由に基づく記憶的正当化の後退が始まることになる。
  • 後退を避けるためには、私の現在の還元的理由rは究極的には現在の非還元的理由に基づく記憶によって正当化されているというしかない。
  • このいみでは、還元的理由は非還元的理由に寄生的なものといえる。すると、現在の非還元的理由とは、現在の還元的理由に基づく究極的な記憶的正当化の基盤であり、従って、現在の理由に基づく何らかの記憶的正当化の究極的基盤である。
  • だから、私の記憶的に正当化された信念が現在の還元的理由に基づくのはその理由がそれじたい記憶に基づいて正当化されたときのみであると想定するのであれば、間時間的テーゼのための典型事例は、よい現在の非還元的理由としての基盤が存在しないときのための記憶的正当化の事例を示すだけでよいことになる。
  • 問題は、現在の非還元的理由という正当化基盤は、さらなる後退を生じさせないのかということであるが、現在の非還元的理由は、還元的理由と異なり、それじたいは記憶による正当化を必要としないので後退は生じないのである。
  • 現在の非還元的理由は、私の記憶的に正当化された信念pに正当化を与えるために、それ自体が正当化されている信念を必要としない。

 

  • しかし、なぜ私の信念pが現在の還元的理由に基づいて記憶的に正当化されるのは、その理由それじたいが記憶によって正当化されているときのみであるといえるのか。最も典型的な回答は以下のものだ。

 

私の信念pが記憶に基づいて正当化されることは、以下の帰納的に正当化された一般化からの統計的三段論法に基づく。あるタイプX(たとえば、鮮明な経験のリコレクションなど)の記憶的信念は真である傾向が高い。私の信念pはタイプXの記憶的信念であるということの内観的に正当化された信念がある。

 

私が記憶的に正当化された信念を持っていることに疑いはないとしたとき、私の信念はしばしば特殊な種類(たとえばタイプXの信念)の現在の還元的理由の基盤のもとで正当化されうることがある。だが問題は、もしも私の信念がこのような基盤のもとで正当化されたなら、その理由は究極的な記憶に基づく正当化を免れるのだろうかということだ。こたえは否である。

  • タイプXの記憶的信念は真である傾向が高いという前提は帰納的に正当化される。しかし、この前提における私の信念は、タイプXの所与の記憶的しんえんは真であるという正当化された信念に基づいて帰納的に正当化されている。だが、一般に、なんらかの特定のタイプXの記憶的信念が真であるという私の思念は、その信念じたいとそれから他の記憶的信念とに基づいて正当化されることになるだろう。従って、記憶に基づいて正当化されていることになる。
  • すると、現在の還元的な統計的理由は記憶的正当化の無限後退を止めることはできない。後退を避けるためには、現在の還元的な統計的理由は、現在の非還元的理由の究極的基盤に基づくとしなくてはいけない。
  • じっさい、もしも、他の現在の還元的理由が、現在の統計的還元的理由と同じ問題に直面するのであれば、このような現在の非統計的理由は、現在の非還元的理由でなくてはいけない。
  • いずれにせよ、現在の還元的理由は、記憶的正当化の無限後退を避けられず、もしもしんえんが現在の理由によってのみ正当化されなくてはいけないとするならば、現在の還元的理由に基づいて記憶的に正当化された信念は、現在の非還元的理由の基盤によって究極的には正当化されなくてはいけない。

*以上が、(M2)を想定したさいに、記憶的に正当化された信念は、よい現在の非還元的理由による究極的基盤を欠いていてもよいのか、という問題への回答である。

 

 

  • では、証言的に正当化された信念のばあい、私がそのような信念のために所有している還元的理由は、究極的には証言に基づいて正当化されなくてはいけないのだろうか。つまり、もしも、正当化が私が所有する理由によってのみなされるのだとしたら、証言的信念は、究極的には、私が所有する非還元的理由によって正当化されなくてはいけないのだろうか。

 

私の信念pが証言に基づいて正当化されるとき、信念pは、私の信念pがタイプXのものであるということが内観的ないし知覚的に正当化された信念であるときに、帰納的に正当化された一般化「あるタイプX(例えば、pが属するフィールドにおいて社会的に認められた専門家の証言に基づいた信念であるとか)証言的信念は真である傾向が高い」からの統計的三段論法に基づいて、正当化されている。

 

*だが、記憶的正当化と同じ問題がここでも生じる。

  • 一般に、私が、タイプXの特定の信念を信じることを正当化されているのは、その信念と、それとは別の証言的信念に基づいてのことである。一般に、私が特定の証言的信念を真であると信じることが正当化されているのは、証言的信念または他の信念に基づくときのみであるということには2つの根拠がある。
  • ひとつは、私は妥当な証言的信念のいくつかはファーストハンドに検証できるかもしれないが、すべての証言的信念をそのように検証することはできないし、帰納的前提を置くことなしに検証することはできない。
  • もうひとつは、一般に、私が証言的信念を検証したさいの基盤としての知覚的信念は、それじたい部分的に先行的な証言的に正当化された信念によって正当化されている。
  • 証言的正当化の統計的還元の妥当性をめぐる現在の議論は、どちらかの、あるいは両方のポイントにはまってしまうだろう。
  • いずれにせよ、私の証言的に正当化された信念のための統計的理由は、それじたいが証言に基づいて正当化されている。だから、私の信念pが、私が所有する統計的な種類の還元的理由の基盤に基づいて証言的に正当化されているのは、その理由がそれじたい証言に基づいて正当化されているときのみである。
  • 私が所有する統計的理由をめぐる無限後退を避けたければ、私が所有する還元的統計的理由は、私が所有する非統計的理由の基盤のもとで正当化されなくてはいけない。私が所有する還元的理由の基盤のもとで正当化された証言的信念は、究極的には私が所有する非還元的理由のもとで正当化されなくてはいけないことになる。

*従って、証言的に正当化された信念は究極的には私が所有する非還元的理由のもとで正当化されなくてはいけないということは(もしも私が所有する理由というものに理由を限れば)、記憶的に正当化された信念は究極的には現在の非還元的な理由のもとで正当化されなくてはいけない(もしも現在の理由に理由を限れば)という主張と同じく強い主張ではない。

 

 

同その2

2.非還元主義

  • 非還元主義は、当然「ポジティヴな理由要件」も「還元要件」も拒絶する。彼らは、ポジティヴな理由は証言的正当化の必要条件でも十分条件でもないし、証言的正当化は他の認識論的源泉には還元できないと主張する。
  • 非還元主義者が、聞き手が話者の証言を受容することを正当化されているとするのは、以下の2つの条件が充たされているときのみである。
  • 当該報告が信頼可能な仕方で産出されている。典型的には、話者がコンピテントな信念者であり、かつ誠実な証言者であるときである。
  • 当該聞き手が、レリバントなディフィーターを何も所持していない。つまり、聞き手は、受けた報告にかんしての、なんらかのカウンター信念かカウンターエビデンスを所持していない。
  • 上記の仕方で、受容した話者報告になんの反例証拠も存在しない場合には、聞き手は、当該証言を正当に受容することにさいして、そのためになんらかのポジティヴな認識論的作業を労する必要はない。

⇔だが、本稿では、上記の見解は間違っていると論じる。聞き手は、証言的正当化にさいしてなんらかの認識論的作業を行わなくてはいけない。また、証言的正当化にとって、聞き手が所有するポジティブな理由が必要十分条件であるというテーゼ(PR-N&S)は偽であるが、しかし、聞き手が所有するポジティヴな理由は必要条件であるというテーゼ(PR-N)は真であると主張する。【還元主義を主張しなければ、PR-Nを主張することに問題はない。】従って、非還元主義は、偽であることを以下で示す。【非還元主義は、証言的正当化にとって、聞き手の所有するポジティヴな理由は必要条件でも、十分条件でもないと主張しているので、聞き手の所有するポジティブな理由が必要条件であることが真であると示すことができれば、非還元主義は偽であることになる。】

 

  • PR-Nは、還元主義の弱い解釈(ただし、PR-Nは還元主義を採るならじつは主張できないはずである。)であるが、非還元主義は、PR-Nでさえ拒絶する。証言的正当化は、非還元主義者によれば、聞き手の側が所有するなんらのポジティヴな理由なしに達成可能なのである。

 

  • エイリアン

サムは、非常に標準的な人物である。あるさわやかな朝、サムが森の中を散歩していると、遠くで、誰かが本を落したのが見えた。物理的なその見え方が、サムに彼女を異なる惑星からきたエイリアンであると同定させたのだが、サムはそのような種類のエイリアンについては何も知らないし、彼女がそこからやってきた惑星についても何も知らない。さて、サムは徐々にそのエイリアンを見失っていったのだが、彼女が落した本を見つけることができた。それを開いてみると、それが英語で見えることに彼はすぐに気付き、それがいわゆるこの惑星で言うところの日記であると気付いた。さらに、この本の最初の文章を読んでみると、サムは、この日記の著者の惑星の住人のうちの幾人を虎が食べてしまったということに対応する信念を抱いた。この本は日記であり、このエイリアンは英語でコミュニケートする。そして、この両者が真であり、かつ、日記に書かれている当該のことがら、つまり惑星の住人の幾人かが虎に食われたということは信頼可能である。

 

⇒さて、当該の本はエイリアンによって書かれている。だが、サムは、認識論的にレリバントなポジティヴな理由を何も持っていない。

  • サムは、常識的な宇宙人理論も持っていないし、証言者としてのエイリアンへの信頼可能性についてもなんらの信念も持っていない。また、サムはかの惑星社会における「日記」の機能についてもなんの信念も持たない。
  • さらに、もしもサムが、彼女のコンピテンスと誠実さを評価しようとして、著者の語り口に注目しようとしても、地球においてのコンピテンスと誠実さのサインが、かの惑星におけるコンピテンスと誠実さのサインと対応していることを信じるようなポジティヴな理由はなにもないのだから、それは無益な作業であろう。
  • また、サムは、その本で報告された内容と、彼自身の背景的信念とを比較することすらできない。なぜなら、その本で使用されている言語が、地球で使用されている言語と同じ使用のされかたをしていることを彼が知ることはないからである。
  • よって、この事例では、聞き手は、話者の証言に対して、ポジティヴな理由をまったく何も持つことができない。
  • さらに、いま、サムは、この日記に書かれていることに対しての、カウンター信念やカウンターエビレンスを何も持っていないとする。

⇒サムは、エイリアンの日記に基づいて、当該惑星においてその住人の幾人かが虎に食われたと信じることを正当化されているだろうか?

こたえは否であろう。

  • エイリアンの報告が事実的に真であり信頼可能なものであったとしても、サムにとって、当該信念をエイリアンの報告に基づいて形成することは認識論的に合理的とはいえない。
  • エイリアンの住む惑星では、他人に証言をするさいには不誠実であることが慣例になっているかもしれないし、かの惑星の心理学では地球におけるサイコパスが標準状態とされているかもしれないし、「日記」はSFを意味するのかもしれないし、その言語は英語と区別がつかないようにみえるがじつはエイ語であり、エイ語においては英語における否定が主張の肯定に使用されているのかもしれない。
  • サムがその本を読んで知ったことのすべては、エイリアンが英語を話す信頼可能な証言者である可能性を示してはいるが、反対の可能性を弁別する手段をサムはいっさい持たないのだから、この場合には信念形成を差し控えるのが適切であろう。

⇔さて、ここで、非還元主義者の第二要請(ディフィーター要件)について考えてみよう。

  • 私は君が頻繁に嘘をつくことを信じているが、それにも関らず君の証言に基づいてフクロウが捕食動物であると信じている場合、非還元主義者からすれば、私の証言的信念はじっさいに真であり信頼可能な仕方で形成されたにもかかわらず正当化されているないし知識である資格をなくしている。
  • 証言的正当化は、非還元主義者にとっても、認識論的非合理性とは両立しないからである。
  • 私が、君はよく嘘をつくということを信じているということをディフィーターとして所有しているが、君の証言を信じているという場合と、サムがエイリアンを信頼することについて全く何のポジティヴな理由を所有していないがエイリアンの証言を信じるということは、どちらが認識論的に非合理だろうか。
  • サムは、エイリアンにかんしてまったく何も知らないのである。しかし、私は、一般的な人間についての知識、君についての知識、人間は大抵の場合には誠実に話しているのであり、報告は大抵の場合情報を伝達しているのであり、、といったものをもっている。
  • この豊富なポジティヴな情報背景に反するディフィーターとしての、君が頻繁に嘘をつくという私の信念は、サムがエイリアンが英語を話しているのかどうかについて知らないという事実と比較した場合には、認識論的にとるにたらないことであるように思える。ポジティヴな理由の不在のもとでの証言受容は、ディフィーターの存在のもとでの証言受容よりも非合理なのである。
  • エイリアン事例は、非還元主義者による、ポジティヴな理由の完全な不在のものでの証言受容という想定が非合理であることを示している。

 

*非還元主義者は、サムによる「日記」の内容の受容においてサムがレリバントな条件をみたしていないのだとして、エイリアン事例に反論するかもしれない。

  • 事例のような文脈では、サムはディフィーターの不在条件をみたしていない。なぜなら、話者・報告・文脈にかんしての認識論的にレリバントな情報が絶対的に存在していないことは、ここで問題になっている証言に反する証拠として聞き手に与えられるのから、サムはディフィーターを持っているというわけだ。
  • だが、このような反論は適切ではない。いま、仮定によって、日記については、その内容が偽であるとか、その作者が信頼不可能であるとかを示すような情報は何も存在していない。従って、サムは、レリバントなディフィーターは何も所有していない。
  • サムが正当化された信念をもっているということへの違和感は、証言的正当化のためにポジティヴな理由は必要条件であるという我々の直感を表している。
  • サムがエイリアンの「日記」にかんして所有していると適切に語っているという主張に対してのネガティヴな理由は、ポジティヴな理由の不在のみである。
  • 還元主義と非還元主義との相違は、結局ポジティヴな理由を必要とするかという点にある。問題は、非還元主義が、ポジティヴな理由を必要としないという点にあるのであって、ディフィーターの有無はポイントではない。

*あるいは、証言者を人間に限ることで、エイリアン事例は回避できるかもしれない。

  • たしかにエイリアンは我々の惑星で証言慣習に似たものをもっているかもしれないが、その類似性を保証する手段はない。だから、エイリアンは受け入れ可能性の枠内には存在せず、サムはエイリアンの証言を受容することを正当化されない、と。
  • しかし、エイリアン事例と同様のことは、人間においても起こりうる。たとえば、サリーは二ヶ月間こん睡状態にあったが、目覚めてみると、英語の読み書き能力以外のすべての知識をなくしていた。仮定として、サリーは人間の心理学についての常識的信念とか、証言者としての人間は一般的に信頼可能であるという信念を持っていない。サリーが、誰が書いたのかわからない日記を拾って読んだとして、その日記の内容についてのサリーの信念は正当化されるだろうか?
  • この事例は、エイリアン事例と、認識論的にレリバントな部分で類似しているが、当然、サリーの信念は正当化されていないだろう。だから、証言者のスコープを人間に絞ることには何のいみもない。
  • また、話者がエイリアンか人間かによって、異なる認識論的スタンダードを設けることにはなんのいみもないし、そのようにしなくてはいけない何の理由もない。

 

  • 聞き手は証言的交換において、少なくとも何らかの認識論的にレリバントなポジティヴな理由を持たなくてはいけない。だからPR-Nテーゼは真である。そして、証言的正当化にかんしての非還元主義の主張はあやまっている。

 

 

3.Dualism

  • 証言的交換において、情報は典型的には、2つの中心的参加者(話者と聞き手)との間を伝達される。還元主義にしろ非還元主義にしろ、すべての認識論的作業をどちらか片方の参加者に担わせてしまっており、もう片方の側によってなされるポジティヴな正当化条件が必要であることを無視している。
  • 還元主義:
  • 還元主義者は、聞き手にのみ焦点を当てる。証言的正当化が知覚・記憶・推論的正当化へと還元されるための、そのすべての正当化作業が聞き手に担わされる。聞き手がポジティヴな理由を所有していることが、還元的基盤として求められるからである。
  • 従って、還元主義によれば、①聞き手によって所有された理由が与えられた証言的信念のステイタスを完全に決定する。②(聞き手のポジティヴな理由によって把握されるようなものをのぞいては)話者は、聞き手の証言的信念の正当化に対して何の認識論的レリバンスも持たない。
  • だが、入れ子になった話者事例が示しているように、当該証言にかんしていかに優れたポジティブな理由を聞き手が所有していたとしても、話者は完全に信頼不可能な報告をしているかもしれない。証言的正当化の適切な説明のためには、当該証言が信頼可能であり真理統制的であることが要請される。
  • 非還元主義:
  • 非還元主義は、話者が証言的交換においてなすべきことを要求しているが、聞き手によるポジティヴな貢献を無視する。話者の証言の信頼性を要求することは正しいが、聞き手がたんにディフィーターの不在のみを充たせばよいことになっており、これは正しくない。
  • エイリアン事例は、話者の証言が信頼可能であっても、このことじたいが、聞き手に話者の証言を合理的に受容させることにはならないことを示している。聞き手は、当該の証言にかんして、なんらかの認識論的にレリバントなポジティヴな理由を持たねばならない。

 

  • デュアリズム:
  • 話者の信頼性と、聞き手のポジティヴな理由の両方が必要である。聞き手の信念の正当化は、2つの源泉をもっており、それは話者の信頼性と、聞き手の当該信念への理由の合理性から充たされる。

 

Dualism:話者Aと聞き手Bにとって、BがAのpという証言に基づいてpと信じることを正当化されるのは以下のとき、かつそのときのみである。(1)Bは、pというAの証言の内容に基づいてpと信じており、(2)Aのpという証言は、信頼可能であるか真理統制的であり、(3)BはAのpという証言を受容することのための適切なポジティヴな理由を所持している。

 

 

  • むろん、上記の条件は、証言的正当化のための必要条件でしかない。他の条件も必要かもしれない。
  • だが、ポイントは、証言的正当化は話者と聞き手の両者からのポジティヴな貢献が必要であるということである。

 

  • 条件(1)
  • 証言的正当化のうちで、この条件が明確化するのは、聞き手が当該信念を話者の証言に基づいて形成するという点である。
  • ある信念が、全体的にまたは第一に、話者の証言にかんしての性質に基づいて形成されるケースを除外しなくてはいけない。

(例えば、話者がソプラノの声で話しているときに、聞き手が話者がソプラノの声を持つということを信じるというケースは知覚に基づいている信念なので除外される。)

  • つまり、条件(1)は、上記のような証言的正当化とはいえないケースを除外するための条件である。
  • 条件(2)
  • 話者の証言の信頼可能性の詳細は、様々な仕方で押さえることができる。
  • よくある仕方としては、当該の話者が、コンピテントな信念者であり、かつ誠実な証言者であることを要請するというものである。この場合、話者は彼女の信念を認識論的に受容可能な仕方で形成しなくてはならず、かつ、他者に対して彼女自身が信じていることを報告しなくてはいけない。
  • または、話者の信念ではなくて、話者の言明が、なんらかの仕方で信頼可能である、つまりノージックの言うところのsensitiveである(もしもpが偽であれば、話者はpと言明しない。)とか、ソーサの言うところのsafeである(pであることなしに、話者はpと言明することはない。)とか、を要請することもある。
  • いずれにしても、条件(2)について、このような条件をつけることの一般的妥当性にかんしては疑いの余地がないといえよう。
  • 条件(3)
  • 最も問題含みなのが、条件(3)である。還元主義に反対する議論は、このポジティヴな理由要請について常に焦点をあてて攻撃してきた。
  • Webbは例えば、「還元主義のトラブルの始まりは、我々の証言ベースの信念が、証言の信頼性についての我々のなかにある信念に基づいていなくてはいけないという要請にあると思われる。このあまりに高度な要求は、信念主体にあまりに多大な負担を負わせることになる。つまり、彼は、その領域の経験、それらの心理学的性質といった人間についてのあらゆる種類の知識を要求されるわけだが、単純に考えて彼はそのようなものを所持してはいないだろう。」と述べている。
  • Foleyは、還元主義の問題は「他人が持っていて我々が持っていないような専門知と情報から我々を切り離してしまう恐れがある。結局、我々が欠いているような専門知と情報を持つ多くの人びとは、我々がほとんど知らないことについて知っている人びとである。だから、我々にとって、それら知識を導出的権威とみなすことにも、なんの基盤もないことになる。」?
  • そればかりか、仮に、我々が話者の証言を受け入れるための適切なポジティブな理由を持つのであれば、その時にはストローソンが言うように「チェックプロセスは、証言という他人のソースから確証を探すことによってなされる」ことになる。
  • 問題なのは以下の2点であろう。①通常の認識主体は、直感的に正当化されていると感じるような証言の大部分について、それを受け入れることを正当化するのにじゅうぶんなほどの強さのポジティヴな理由を獲得するための十分な情報を単純に所持していない。②仮に、ある認識主体がある特定の証言に関して、それの受容を正当化するに十分な情報を持っていたとしても、ポジティヴな理由それじたいは、証言じたいを保証するわけではない。
  • ラッキー自身が還元主義を拒絶する理由は、上記①、②ではない。だが、ポジティヴな理由要請についての議論はラッキー本人の議論も攻撃されうる。そこで、以下では、デュアリズムの条件(3)を、①②から擁護することに重点を置く。

 

  • デュアリズムにおけるポジティヴな理由要請

(1)反論①は、還元主義がPR-Nではなくて、PR-N&Sにコミットすることの問題から生じる。

  • 還元主義者は、ポジティヴな理由は、証言的正当化のための必要条件でありかつ十分条件であると主張する。それゆえ、ポジティヴな理由は、証言的信念のための正当化の責務のすべてを担うことになる。(正当化作業は、一意に聞き手のみに課される。)
  • このことは、結局以下の懸念を導く。我々がもつ証言的信念をすべて適切に正当化しつくすのに十分な情報を我々は所持しうるのだろうか?
  • これに対して、デュアリズムは、正当化作業を話者と聞き手とで共有するから、ポジティブな理由の要請が、過剰な責務になるということはない。
  • とくに、デュアリズム条件(2)について、当該証言の信頼性について押さえてあるために、条件(3)はたんに聞き手の証言受容が合理的なものであるか否かにかんしてのみかかわる。より正確にいえば、聞き手によって所持されるポジティブな理由は、すくなくとも、当該証言を彼女が受容することが彼女にとって非合理的ではないという点が抑えられればよい。これは、還元主義よりも弱い条件である。
  • たとえば、私が初めてロンドンを訪れて、ランダムに地方紙を選び読むとして、そこから得られる信念が適切に正当化されうるのか、ということを考えてみる。デュアリズムの場合には、私が各新聞についてなんら特定の信念をもたないとしても、イギリス一般についての信念、国民性、政治状況、社会政治的価値観などについて信念をもっているときには、この情報の所持は、この情報それじたいが、それら信念を正当化するのに十分なものではないにしろ、新聞をベースにした信念を非合理ではないとするのには十分である。

 

(2)認識的意義を持ちうるポジティヴな理由の種類というものが存在する。それは、デュアリズム条件(3)を充たすのにレリバントなものである。

  • 例えば、私はハロルドの証言にまつわる性質については何も知らないとする。私は今日初めて地下鉄で彼と出会って、彼に道を尋ねると、彼は丁寧に私の目的地は南に4ブロック先に進んだところだと答えた。私は、ハロルド本人のバクグラウンドについては知らないけれど、その代わりに、ひとは、通常の文脈で道を尋ねられたときは、一般に誠実でコンピテントなものだと信じるための帰納的証拠を持っているかもしれない。
  • より正確にいえば、聞き手Bは話者Aの報告とそれに対応する事実との一般的適合性を観察していなくても、Bは他のレリバントな報告と事実との一般的適合性については観察しているかもしれない。認識主体が、証言の信頼可能性と信頼不可能性とを識別するために利用可能なポジティヴな理由のクラスが少なくとも3つある。
  • 第一のポジティヴな理由のクラスは、コンテクスト、文脈的性質である。【この場合、言われたことそのものというより、いかなる背景のもとで、そのことが言明されているのかに焦点が当てられている。同じ事柄を語っても、それが語られた状況・語り方などによって信頼性の帰属度は異なる。】
  • たとえば、ナショナル・時オグラフィックのレポートとか天文学の講義とかいった文脈では、批判的な態度は弱まるが、占星術の講義とかナショナル・インクアイアーの報告に対しては批判的である、ということがあるかもしれない。このような態度の違いは、ポジティヴな証拠(他の文脈よりも、この文脈では受容が信頼できる)とネガティヴな証拠とが積み重なったことによる。
  • 第二のクラスは、報告の種類である。
  • 聞き手はおそらく、話者が、時刻・彼自身の名前・夕食のメニューなどについて語った時には、とくに批判的な態度をとらないだろう。だが、政治的な事柄とか、UFOをみたとか言われれば、批判的になる。
  • 語られる主題の種類や報告のタイプは、聞き手にたいして、認識論的にレリバントな理由を与える。
  • 第三のクラスは、話者である。たとえば、銀行員は預金のことについて信頼可能な情報を与えてくれると信じるが、政治家が税金について信頼可能な情報を与えることは信じないというような。

⇒聞き手は、様々な形式で、認識論的にレリバントなポジティヴな理由を受け取っている。そのような理由は、聞き手に意識されていないかもしれないが、認識的に決定的な役割を担っている。このことは、話者に対して、なにひとつポジティヴな理由を見出せないということが、非常に難しいという点に端的に表れている。エイリアンの事例でも、サムはエイリアンの社会が地球のそれと類似していると考えるためのポジティヴな理由を持ち、エイリアンの落し物を「日記」であると思っていた。

 

(3)反論②:聞き手が特定の報告の受容を正当化するために十分な情報を持ったとしても、ポジティヴな理由は証言それ自体は保証しない、に対する議論。

  • 話者の証言を受容することのためのポジティヴな理由は、ポジティヴな理由が究極的かつ全体的には証言的には基礎づけられない限り、それじたい証言に依存しているという点は重要である。
  • 議論の錯綜を避けるために、いま以下のⅰは拒否するが、ⅱは受け入れるという立場を考えてみる。

ⅰ:各報告Rについて、Rを正当化するポジティヴな理由は、それ自体は、他人の証言から獲得されえない。

ⅱ:各報告Rについて、Rを正当化するポジティブな理由は、究極的には証言的に基礎づけられえない。これは、Rの正当化ないしRへの認識的連鎖の遡及は、証言において「底をついている」からである。

  • 「入れ子になった話者」について考えてみよう。フレッドは、ヘレンについて、幅広い領域にかんしての高度に信頼可能な情報源であると信じるためのポジティヴな理由を帰納的に獲得している。そのために、フレッドはヘレンによるポーリーンについて、彼女が、とくに野鳥にかんして、高度に信頼可能な人物であるとの証言をたやすく受容したのである。こうして、フレッドは、ポーリーンによるアホウドリ証言も受け入れることになった。
  • ここで、フレッドが持っているヘレンの証言に対してのポジティヴな理由は、ⅰとⅱの両方を充たしている。それに対して、フレッドが持っているポーリーンの証言に対してのポジティヴな理由はⅱしか充たしていない。
  • ヘレン証言の受容に対してフレッドが持つポジティヴな理由は、知覚・記憶・帰納的推論から獲得されている。それは、さらなる証言によって獲得されているわけではない。
  • だが、ポーリーン証言の受容に対してのフレッドのポジティヴな理由は、直接的なタイプでの(ポーリーンは信頼可能な証言者であるというヘレンの証言)さらなる証言に基づいている。だが、認識的連鎖は、非証言的な源泉において「底をつく」。つまり、ヘレンの信頼可能性についてのフレッドの帰納的証拠が終点である。
  • この弱いいみでの非証言的基礎付け(これがⅱが述べていることであるが)が、循環を避けるために決定的な役割を果たす。
  • デュアリズムにおいては、話者の証言の受容に対しての理由は、それじたい他人の証言から獲得されうる。それどころか、2人以上の多くの人物を含む認識低連鎖も想定しうる。Bの証言を受容するためのAの理由は、Cの証言によるもので、Cの証言はDの証言に基づいており、といったように。条件(2)を充たすために決定的なのは、当該の認識的連鎖の最終的地点が、非証言的に正当化されていることである。
  • 無限後退や悪しき循環を避けるために、伝統的基礎付け主義は、正当化の連鎖は究極的には基礎的なもの、基礎的信念で終わらなくてはいけないとしていた。しかし、正当化された諸信念の各々が、基礎的信念によって直接に正当化されている必要はない。同様に、証言の無限後退を避けるために、ポジティヴな理由要請は、正当化の連鎖は、究極的には非証言的源泉で終わることを規定しておけばよい。しかし、それは、各々の証言的信念が、直接に非証言的に正当化されていなくてはいけないこととは異なる。
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Lackey ”It Takes Two to Tango~” メモ その1

 

It Takes Two to Tango: Beyond Reductionism and Non-Reductionism in the Epistemology of Testimony

Jennifer Lackey

 

  • 他人の語ることや書いたことから我々はいかにして成功的に正当化された信念を獲得するのだろうか。この問題は、証言の認識論の中心的問題であるが、その回答には2つの潮流がある。還元主義と非還元主義である。還元主義者は、証言的正当化は感覚知覚、記憶、帰納的推論へと還元されると主張するのに対して、非還元主義者は、証言は他の源泉と同じく基本的な認識論的源泉のひとつであると主張する。本稿は、この論争に挑戦するものである。第一に、還元主義、非還元主義の両方ともが深刻な問題を抱えていることを指摘する。第二に、還元主義/非還元主義の二元論を超えた証言的正当化についてのオルタナティヴ見解を提示する。

 

1.還元主義

還元主義の主張は以下の2つの要素をもつ。

①ポジティヴな理由の要素(Positive-Reasons Component):

  • 証言的信念に正当化が付与されるのは、聞き手の側に適切なポジティヴな理由が存在することによってである。
  • これらの諸理由は、それじたいは証言的に基礎づけられることはありえないから、他の認識論的源泉(感覚知覚、記憶、帰納的推論)によって供給される源泉に依存していなくてはいけない。

②還元要素(Reduction Component):

  • 証言的信念の正当化は、非証言的に基礎づけられたポジティヴな理由によって供給されるのだから、証言的正当化はけっきょく感覚知覚、記憶、帰納的推論の正当化に還元される。

⇒だが、還元とは、何にどのようになされるのだろう。証言的還元の関係項はどうなっているのか?いまのところ、2つの回答が提出されている。グローバル還元主義とローカル還元主義だ。まず、グローバル還元主義についてみていこう。

  • 証言についてのグローバルな還元主義:
  • 信念の源泉としての証言の正当化は、感覚知覚・記憶・帰納的推論の正当化へと還元される。【個々の証言的信念についてではなくて、証言的正当化のプロセス全体を、非証言的な正当化プロセスへと還元しようとするのがグローバル還元主義である。】
  • 話者の報告を正当に受容するためには、聞き手は、証言は一般的に信頼可能なものであると信じることに対しての非証言的に基礎づけられたポジティヴな理由を持っていなくてはいけない。

⇔グローバル還元主義の3つの問題:

(1)両親や教師も含む他人からの証言を何も受容しない以前の子供は、多くの報告や話者をチェックして、そこから証言の一般的信頼性を結論することはできないのではないか。グローバル還元主義は、他人の証言をチェックして受容するようになるプロセスへの参入を説明できないし、もしも最初になんらかの証言を受容することなしに証言の信頼性についての帰納的推論に必要とされる概念的-言語的ツールを獲得するというのであれば、それはほとんどミステリーである。従って、グローバル還元主義が真であるなら、証言的正当化を獲得するのに必要とされる認知的ツールが認識主体からアクセス不可能でありうることになり、証言的知識全体への懐疑論へと陥ることになる。

 

(2)証言が一般的に信頼可能であることへの非証言的に基礎づけられたポジティヴな理由をもつためには、無作為ではなく広範囲である報告のサンプルを精査しなくてはいけないだけではなく、無作為ではなく広範囲な対応している事実も精査しなくてはいけない。報告にしても事実にしても困難が生じる。我々の多くは、母国語での手頃なコミュニケーションの内部での非常に限定された範囲の話者の報告しか精査しないだろう。この限定されたサンプルは、証言が一般的に信頼可能であることを正当化するためには、非常に小さすぎる。また、通常の認識的主体の観察的基盤は、証言の信頼可能性についての帰納に必要なほどには大きくない。Coadyが指摘するように(1992:82)、例えば、血液循環とか骨格とか、空中の光の速さとかいった知識のために観察されなくてはいけない多くの事柄を、我々の大部分は観察したことがないはずである。そして、科学的、数学的、経済的理論などの知識にかんしては、我々の大部分が、それら報告と事実とをチェックするために必要な概念的機構を欠いている。従って、ここでもグローバル還元主義は、証言的知識全般への懐疑論へと陥らざるを得ない。

 

(3)上の2つは、証言の一般的信頼性の知識獲得および決定の問題にかかわるものであった。3つ目は、そもそも、ここには認識論的に有意義なことの真相【証言というもの】などあるのだろうか、という問題である。報告には非常に様々な種類のものがある。時刻の報告、朝食に何を食べたか、子供の発達記録、どの衣服が好みか、身長体重、気候記録、、これらは「証言一般」のなかに入れられている。だが、このなかには一般的に高度に信頼可能な種類のものもあれば、一般にあまり信頼できない種類のものもあれば、話者に依存して信頼性が変化する種類のものもある。このような認識論的異種性のもとで、いったい、何が認識論的に興味深い「証言」といえるのだろうか。そして、「一般的に信頼可能な源泉」であるような「証言」について語ることにいみがあるのだろうか。

 

 

  • 証言的信念についてのローカルな還元主義
  • 個々の証言による報告ないし事例の正当化は、それぞれ感覚知覚・記憶・帰納的推論による正当化の事例へと還元される。
  • 話者の証言を正当に受容するためには、聞き手は、そのとき問題になっているその方向を受容することへの非証言的に基礎づけられた理由を持っていなくてはいけない。

 

*ローカル還元主義の内部で、「ポジティヴな理由」の理解について2つの路線がある。

①PR-N:適切なポジティヴな理由は、証言的正当化にとって必要条件である。

②PR-N&S:適切なポジティヴな理由は、証言的正当化にとって必要十分条件である。

⇔だが、証言的正当化が感覚知覚・記憶・帰納的推論に還元可能であるためには、当該のポジティヴな理由は、妥当な証言的信念の正当化のための完全に十分な条件でなくてはいけないはずだ。さもなければ、還元される証言的信念と、還元を可能にするポジティヴな理由との正当化の地位が非対称になってしまい、そもそも還元可能性が妨げられてしまう。

⇒だから、ローカル還元主義者は、ポジティヴな理由について強い主張(PR-N&S)を採らざるをえない。

⇔しかしながら、本稿では、ローカル還元主義のそのような要請(PR-N&S要請)は誤っていると論じる。この結論は重要である。ローカル還元主義は最も弱いバージョンの還元主義を代表しているので、ローカル還元主義の反論は、証言についての還元主義一般が誤っていることを示すことになるからである。【いちばん弱いバージョンの還元主義を論駁することで、還元主義が成立する余地をなくすという戦略である。】

 

  • 入れ子になった話者:

フレッドはヘレンと五年来の知り合いであり、その間にフレッドはヘレンが非常に広い範囲の話題に関して高度に信頼可能な情報源であることを信じることに対する極めて認識論的な理由を獲得した。彼女がフレッドに何らかのものを個人的または専門的に推薦したさいには、彼女の調査が正確であることが判明したし、彼女がフレッドに何らかのことを報告したさいには、彼女の語ったことが独質に確証されたし、彼女が物語った歴史的情報は、主要な歴史の教科書や書物によって裏付けられたし、といった具合である。さて、昨日のことだった。ヘレンはフレッドに、彼女の親しい友人であるポーリーンは、非常に信頼できる人物であり、とくに野鳥に関しての情報は非常に信頼できると語った。そこでフレッドは、今朝早くポーリーンが、野鳥のなかで最も大きな翼幅を持っているのは、コンドルであるとよく信じられているが、じつはアホウドリだと語ったときに、それを躊躇なく信じたのだった。さて、ヘレンは認識論的に極めて優れた情報源であるけれども、この場合には彼女は正しくなかった。ポーリーンは、じっさいには、ことに野鳥にかんしては、不完全で不誠実な話者であったのである。さらに、いま問題となっているアホウドリについてのポーリーンの報告じたいは正しいものだったのだが、しかし彼女はこの信念を願望的思考(彼女は『古代水夫の韻律』を読んだのだ)に基づいてのみ信じるようになったのであった。

【注9:この事例のポイントは、ポーリーンの証言を受容することへの正当化が、ヘレンの証言を受容することへのポジティヴな理由のなかに入れ子になっている点である。つまり、入れ子になっている話者とは、ポーリーンのこと。】

 

⇒さて、フレッドは、ポーリーンの報告に基づいて、アホウドリは野鳥のなかでもっとも大きな翼幅をもつと正当に信じているといえるのだろうか?

直感的には、否と答えるほかない。

  • ヘレンの証言は、フレッドに対して、当該のポーリーン発言を受容するための優れたポジティヴな理由を与えてはいる。しかし、ポーリーンは一般的に信頼可能な話者とはいえないし、彼女が報告している信念は、仮にそれが真であったとしても、信頼可能性を産出しないか、真理統制的ではないような信念である。【ポーリーンによるアホウドリの情報は、たまたま真であることに注意。】
  • だから、ポーリーンがフレッドに伝達した証言もまた、信頼可能性を産出せず適度な真理統制度を持たない。従って、この証言は、フレッドに正当化された信念を形成させることを妨げている。
  • 「入れ子になった話者」事例が示していることは、聞き手によるよいポジティヴな理由の所有は、話者の証言を正当に受容するためにじゅうぶんではないということである。なぜなら・・・
  • 話者の報告に対するポジティブな理由を【聞き手が】所有していることは、(いかにそれが客観的にみても優れた理由であっても、)話者の報告が信頼可能な証言であるということと必然的に結びつくわけではない。
  • 証言的正当化にはさらなる必要条件が必要なのであり、それは話者の証言それじたいが信頼可能であるか、あるいは真理統制的であるということである。
  • この「話者条件」は、言い換えれば、話者の言明は真理産出的ないし真理トラッキング的であることのみを要請されるということである。多くの非還元主義者は、話者に対して、彼女の証言が聞き手に正当化された信念を生じさせるように、彼女自身その命題を完全に信じ、そして誠実に証言することを要求する。
  • しかし、ここで言われている話者条件は、聞き手の側での適切なポジティヴな理由の所有の要請のみでは包摂しきれない条件である。

⇒従って、「聞き手の側がもつポジティブな理由の要請」を強く解釈する(聞き手のポジティヴな理由は証言的正当化の必要十分条件である)グローバル還元主義の主張は偽である。なぜなら、聞き手の側がもつポジティブな理由のみでは、証言的正当化にとって必要十分な条件は網羅できない【聞き手が話者に対して、ポジティブな理由を持つことは、話者の証言それじたいが信頼可能なものであることを含まない。】からである。

【よって、還元主義一般における「ポジティヴな理由の要請要件」が偽であることになる。】

 

⇒では、ポジティヴな理由要件からの帰結である「還元要件」のほうはどうなるのか。

  • もしも、還元要件が正しい【証言的信念は、非証言的に基礎づけられたポジティヴな理由の付与によって正当化され、証言的正当化は、非証言的正当化に還元される】としたら、還元される証言的信念と、還元を可能にするポジティヴな理由との正当化にとってのステイタスは差異がないことになる。
  • つまり、荒っぽくまとめると、ポジティヴな理由が正当化されたなら、当該の証言は正当化されたことになるということだ。証言的正当化は、感覚知覚・記憶・帰納的推論の正当化へと還元されるという。
  • だが、「入れ子になった話者」事例を思い出そう。この事例は、それらの正当化の種類のあいだの差異を指摘する事例でもある。フレッドの持つポジティヴな理由は、フルに認識論的に正当化されている【ヘレンが信頼可能な情報源であるというフレッドの信念は、知覚や記憶、推論によって正当化されている】が、しかし、問題となっているその証言的信念じたいは正当化されていない【ポーリーンが野鳥について語ることは正しいという証言的信念あるいは、ポーリーンによるアホウドリの情報による証言的信念は偽である】。よって、還元要件も偽であることがわかる。

【*あくまでも、ポジティヴな理由とは、証言をなす話者が信頼可能であることへの理由であるので、証言内容には直接かかわらない。証言内容についての知覚や記憶、推論ではないことに注意。】

 

*ここまで、還元主義者の主張の「ポジティヴな理由要件」も「還元要件」も偽であることが判明した。しかし、還元主義者はこの結論に対して、以下のような再反論をなしてくる可能性がある。

  • 還元主義者からの再反論①

「入れ子になった話者」事例は、証言の場合のゲディア事例のようなものである。聞き手の信念は正当化されているが、アクシデントによって真になっているということである。

  • この路線で例えば、ポーリーンへの信頼のためにフレッドが持つ優れた理由のせいで、ポーリーンの証言から獲得されたフレッドの真なる信念は正当化されていると言えるかもしれない。だが、直感的に認識論的になにかおかしいと我々は感じるだろう。しかし、フレッドの信念が知識というには少し足りないかもしれないが、じっさいに真ではあるし、正当化された信念ではある。

⇔この再反論に対処するために「入れ子になっていない話者」を考えてみよう。

  • 入れ子になっていない話者

マックスはホリーと十年来の仲で、この10年間にマックスはホリーが広範囲における高度に信頼可能な情報源であると信じることへの優れた認識論的理由を獲得してきた。じっさい、ホリーは、マックスや他の人びとに対して、不誠実な報告や不適切に形成された報告をすることは決してなかった。しかし最近になって、ホリーは個人的な災難に見舞われた。ホリーはそのことを周囲の人間には隠していた。だが、彼女は、その心理的状態のゆえに、財布が盗まれたとかいう完全に何の証拠もないような事柄をマックスに報告した。マックスは、【ホリーに対して】何の変化や不都合も感知していないから、彼女の証言を容易に受け入れた。さて、実はいま、ホリーの財布はじっさいに盗まれている。ホリーが昨日カフェにいたときに、若い男が彼女の財布をすっていたのだ。

 

⇒「入れ子になった話者」との違いは何か。

  • それは、マックスがホリーの証言を受容するための優れた認識的理由をもっているだけではなく、ホリー自身も一般的には信頼可能な証言者であることである。
  • 問題は、ホリーがこの特定の事例においては、認識的性格から外れており、適切な証拠が存在しないことがらを報告しているという点である。そして、ホリーは幸運にも(財布がすられたことは不運だけれど)真理を突き当てた。彼女の財布が盗まれたことは真である。
  • このことから、「入れ子になっていない話者」事例も、ゲディア事例のひとつだと思うかもしれない。つまり、知識というには少し足りない正当化された真なる信念というわけだ。
  • ホリーの証言者としての一般的な信頼可能性と結びついたホリーの当該の証言のためのマックスの優れたポジティヴな理由は、財布が盗まれたということへの彼の真なる信念を正当化しているといえるかもしれない。それを知識というには何かが足りないとしても。
  • 従って、「入れ子になっていない話者」事例は、還元される証言的信念と、還元を可能にするポジティヴな理由とのあいだの正当化についてのステイタスの差異を示した事例とはいえない。【だから、「入れ子になっていない話者」事例は、還元主義一般の困難を指摘する事例ではない。】

 

*「入れ子になった話者」は、ゲディア事例ではない。

  • しかし、「入れ子になった話者」の場合には、フレッドはポーリーンの証言を受容するためのポジティブな理由を持っている一方で、ポーリーン自身はいかなるいみでも信頼可能な証言者ではない。
  • ポーリーンによるアホウドリの翼の情報は、願望的思考によるものであるし、一般的に彼女は不誠実で不完全な証言者なのである。つまり、多くの話題、多くの機会において、ポーリーンはじっさいには偽である事柄を信じているか、彼女が信じていない事柄を報告しているか、その両方である。
  • ゆえに、ポジティヴな理由は、一般的信頼可能性から程遠い。ポーリーンの信頼不可能性の範囲と深さを考えてみても、フレッドがポーリーンの証言に基づいて形成した信念が正当化されるということは、すこしも明確でも自明でもない。
  • 従って、「入れ子になっていない話者」とは異なって、「入れ子になった話者」はゲディアタイプの事例ではないのだ。

【ゲディア事例のひとつといえるためには、フレッドの信念が、アクシデンタルな仕方であれ、正当化されているといえることが必要である。この場合、フレッドの証言的信念を正当化するのは、証言者が信頼可能であるということである。フレッドは、ヘレンからの偶然的に誤った証言によってポーリーンを信頼可能な証言者であると思っているが、ポーリーンはじっさいには信頼不可能な証言者であるので、ポーリーンの証言によって形成されるフレッドの信念は正当化されていない。対して、マックス事例では、マックスはホリーについて信頼可能な証言者であると思っており、ホリーは偶然的にその事例においてはやむを得ない事情で認識的に正しくない報告を行ってはいるものの、信頼可能な証言者ではあり続けている。従って、マックスのホリーからの証言的信念は、証言者ホリーが信頼可能であるという理由によって正当化されているといえる。】

 

 

  • 還元主義者からの再反論②
  • フレッドが所有するポーリーンの証言に対しての「優れた認識論的理由」は、レリバントないみでは「適切」ではない、ということによって、「入れ子になった話者」事例を批判することもできる。
  • 適切なポジティブな理由とは、当該の証言が真であるということを客観的ないみで担うようなものでなくてはいけないと主張することもできるかもしれない。ヘレンはポーリーンの評価については正しくなかったのだから、そのような評価はフレッドにこの上記のような基準をみたすようなポジティヴな理由を与えることに失敗しているというわけだ。

⇒だが、「入れ子になった話者」でも、フレッドは、ひとつの見方をすれば、ポーリーンの証言が真であることが客観的にありえそうであることを担うような理由を持っているといえる。

  • フレッドのポジティヴな理由は、そのカテゴリー内部の諸信念の大部分が真であるか真でありうるような諸信念のなかにある、ポーリーンの証言から形成された信念のなかに位置づけられている。それらの諸信念は、ヘレンの証言によって支持されている。
  • たとえば、フレッドが、2人の証言者のあいだで決定をしなくてはいけないとき、ヘレンによって支持された話者と、支持されていない話者とのあいだでは、多くの場合、フレッドは前者を選ぶだろう。
  • つまり、ヘレンの証言によって支持された源泉によって形成された信念の大部分は、真理へ到達する。だから、ポーリーンの証言に対してフレッドが所有するポジティヴな理由は、客観的ないみでも、彼女の証言が真であるということがありそうであるということを担っているといえる。
  • 問題は、別の観点から客観的尤度を考えると、フレッドのポジティヴな理由は、ポーリーンの証言が真であることのもっともらしさを担っていないということだ。フレッドのアホウドリについての信念は、そこに含まれる信念の大部分が偽であるような諸信念の集合のなかに属している。つまり、ポーリーンの証言によって支持されている信念の集合の内部にある。
  • さらに、ポーリーンは信念の直接の源泉であるので、彼女の信頼不可能性が、フレッドが彼女を信じることのために所有している優れた理由によって相殺されるということはない。だから、フレッドは、ポーリーンの証言を信じるための優れたポジティヴな理由を所有しているのだが、しかし、その当該信念は正当化されていないのだ。

 

  • ここまで、話者の証言を受容することのために、聞き手が認識論的に優れたポジティヴな理由を持つことは、証言的正当化のためにじゅうぶんではないことをみてきた。話者もまた、証言の提供にさいして、信頼可能であるか、真理統制的な証言を供給するという取引をなさなくてはいけない。だから、聞き手の持つポジティブな理由が、証言的正当化のための必要十分条件であるという還元主義の主張は偽である。